第9話 未来の味覚、未来の恋
二人とも自分の口調がだいぶゆるくなってきたことには気づいていない。
「毎晩買って帰って」
「そう、毎晩買って帰った。三十二のときか」
「もう十年も前になるのか」
「早いねえ」
「早いよう。すみません、日本酒もう一本」
好き嫌いはほとんどない陽子だが、うにだけがだめだった。にちゃ、とした感触と、広がる磯のにおい、けだるいような甘さが、どうにも苦手だった。けれど食べられないから困るような食材ではない。うにはいわば贅沢品だ。
ところが三十二歳のとき、陽子は自分でも驚くくらい激しい恋をした。激しい恋愛ではなく、激しい片恋だった。二歳年上の相手の好物はうにだった。いつか洗面器いっぱいのうにを食べてみたいなあと、目尻をさげて笑うような人だった。陽子は自分もうにを好きになろうと決めた。小学校のころ、給食にくり返し出されたおかげで、生のキャベツを克服した覚えのある陽子は、毎日のようにうにを食べることにした。仕事帰りに家の近所の魚屋にいく。魚屋が閉まっていればスーパー。閉店間際で、見切り品のシールを貼られたうには、千円もしなかった。箱に入ったうににスプーンを差し入れて、プリンを食べるみたいに食べた。うに丼、うにスパゲティを作ることもあった。ウエ、と吐き出すほどではなかったが、やっぱりどこがおいしいのかわからなかった。でも食べ続けた。これをおいしいと思うようになれば、自分の恋は成就すると、いつの間にか思いこんでいた。
修行のようにうにを食べはじめてから三カ月後、片恋の相手から食事に誘われた。鮨屋だった。そしてこの日、陽子はうにに開眼した。うにってこんなにうまいものだったのか!と、椅子の上に立って叫びたいほどだった。旬だったのかもしれない。見切り品のうにばかり食べていたおかげで、鮨屋のうにがとびきりおいしく感じられたのかもしれない。日本酒との組み合わせがよかったのかもしれない。あるいは、隣に座るうに好き男の、うにパワーが伝染したのかもしれない。「おいしいねえ」そう言ったら涙が出てきた。
うに修行のたまものではないだろうが、陽子の恋はそれからとんとん拍子にうまくいった。一年後には結婚を申しこまれ、その三カ月後、籍を入れた。友人を招いての結婚パーティもした。
結婚記念日はいつも鮨屋にいった。きみ、うにがうまいって泣いたんだよなあ、と、夫になった男は言った。あれには感激したなあ。あのとき、この人と結婚するかもって思ったんだよな。とつけ足した。うに修行、やってよかった。そういうとき、心から陽子は思うのだった。それがこの数年、おたがい仕事が忙しく、結婚記念日に鮨屋にいく習慣も立ち消えになり、会話もとぎれがちになり、そのうち同じ家に住んでいるのに顔を合わせることも少なくなり、そうして半年前、別れたいと夫が言った。ほかに好きな人ができたのだと言った。そんな、中学生じゃあるまいし、ほかに好きな人ができました、はいそうですか、なんてわけにいきますか、と思ったものの、でも、単純にそれだけが理由ではないのだろうなと陽子は思った。好きな人ができたから、こちらに愛がなくなったのではなく、愛がなくなったから、ほかに好きな人ができたのだ。にわとりたまごより歴然とした真実だ。
煩雑な手続きを経て、離婚届を出したのは二カ月前。あと十五年ローンが残っているマンションをきみに譲る、ローンはこちらで払う、と夫は言ったが、陽子は断った。二人でそれぞれ新しい住まいに引っ越した。ずいぶん狭くなった部屋に引っ越した最初の夜、ああ私、本当にあの人のことが好きだったんだなあと、陽子は思った。過去形で思った。
鮨屋にくるのは久しぶりだった。うには食べるのをやめようかなと思っていたが、おまかせコースで出てきたうにはやっぱりおいしかった。追加のうにも、かわらずおいしい。磯くささ、けだるい甘さ、ねっとりした触感、なぜ嫌いだったんだろう。
「でもよかったじゃん、うに、食べられるようになったし」とんちんかんななぐさめの言葉を尚美が口にし、陽子は笑う。
「そうだよ、あの人に恋をしなければ、このおいしさを知らないままだったよ」
言ってから、陽子ははっとして口をつぐむ。あの人に恋をしなければ、知らなかったままだったことの、なんと多いことだろう。眠るのがもったいないと思うほどの、夜中のおしゃべりのたのしさ。喧嘩のあとの、あの苦々しい気まずさ。自分の手を包むひとまわり大きな手の、あの安心感。だれかとともに暮らすことの不自由、不自由という名の幸福。別れたあとの穴が空いたようなさみしさと、同時に感じる不思議な安堵。相手の幸福を祈る、嘘くさいと自分でも思うほどのすこやかな気持ち。
「ってことはさ、私たち、まだまだだね」ふいに背筋を伸ばして尚美が言う。「私、豚肉の脂身が食べられないんだけど、この先、脂身のおいしさを教えてくれる男があらわれるやもしれん」
あまりにも真顔で言うので、陽子は笑い出す。
「本当だよ、私はほやをおいしいと思ったことがないけど、この先、また必死にほやばかり食べる日がくるやもしれん」
「そうだそうだ、乾杯しよう、私たちの未知の味覚と、未知の恋に」
尚美の持ち上げた江戸切子のお猪口に、陽子も自分のお猪口をそっと合わせる。かすかな音が響く。四十二歳の乾杯に、陽子と尚美は声を揃えて笑う。





