第12話 明日また出会う
嘉久は寝室に使っている和室を出、ぎしぎしと音を鳴らして階段を下り、居間に向かう。夕陽が居間を橙色に染めている。居間に置かれた和箪笥の引き出しを開ける。樟脳のにおいが鼻を突く。しまってあるのはたとう紙に包まれた久子の着物ばかりで、靴下はない。そうだ、洗面所。嘉久は廊下を隔てた洗面所にいき、そこに置かれたもの入れの引き出しを開けていく。タオル類、ハンカチ類、下着類、その次に靴下が見つかる。一足取りだし居間に戻ってそれを履き、立ち上がったところで、何をしようとしていたのかと考える。
靴下をはこうと思っていたのだから、出かける準備をしていたはずだ。ではどこに出かけるはずだったのか。嘉久は橙色に染まった部屋に突っ立って、しばし考える。ああ、マーケットだ。マーケットだが、しかし、そこで何を買おうとしていたんだったか。
最近、こんなことが増えた。何もかもが輪郭をぼやけさせて、いっしょくたにまじりあう。思い出そうとしても、まじりあったいっしょくたがぐるぐるまわるだけで、すんなり思い出せるということがない。このまま何もわからなくなっちまうのか、と考えると、ぞわりと背中が冷たくなるが、そんな恐怖もすぐに忘れてしまうのだ。
ともかくいってみれば思い出すだろう。嘉久はとりあえず、買い物かごを提げて近所のマーケットへと向かう。並ぶ家々も道路も橙色に染まっている。ランドセルを背負った子どもたちが、長い影を引きずり笑いながら走っていく。すれ違ったひとりに、嘉久は思わず声をかけそうになる。おい尚之、尚之じゃないか、今帰るのか。もちろん声はかけない。ひとり息子がもう子どもではないことを、思いださずとも嘉久は知っている。彼が順番を無視して、自分より先にこの世界からいなくなったことも。
夕方のスーパーマーケットは混んでいる。太った女性にぶつかられてよろけ、若いカップルに迷惑そうに追い越されて縮こまり、なんだかもう嫌になってしまって嘉久は早々とスーパーを出る。出るなり用を思い出す。お茶の葉を買おうと思っていたのだった。思い出したが、せわしないスーパーに戻る気がせず、嘉久はおもてに出て、商店街を歩く。犬を連れた老女、かたまって歩く高校生、買い物袋をいくつも提げた女性たち。商店街も混み合っているが、スーパーよりは速度がゆるやかだ。
ふと、香ばしいにおいが鼻先に流れ、嘉久は足を止める。誘うようないい香りはコーヒーだ。薬局と総菜屋に挟まれるように建つちいさな喫茶店に、嘉久はふらふらと近づき、ドアを開ける。カウベルの音が響き、いらっしゃいませ、とカウンターの内側で女性が笑いかける。あっ、と思う。嘉久はドアの前に立ち尽くす。久子。こんなところにいたのか、久子。いやいや、そんなはずがない。まったく嫌になる。久子はもういないのだと、さっき気づいたばかりじゃないか。
「お久しぶりですね、おひとりさまですか」
カウンターの女性に話しかけられ、嘉久はさらにぎょっとする。久しぶりなどと言われるとはどうしたことか。「こちらのお席にどうぞ」案内されて嘉久はおたおたと席に着く。
「コーヒーを」
「アメリカン、でしたよね」
嘉久はまたしてもぎょっとする。商店街にこんな喫茶店があるとも知らなかったのに、なぜ知り合いのように言われるのか。エプロンを掛けた女性をまじまじと見る。やっぱり久子に似ている。とはいえ、四十代の久子だ。溌剌として、おしゃべりで、夕食の献立ばかり気にして、尚之を必要以上に叱った教師に立ち向かうため、鼻の穴をふくらませて学校にのりこんでいった久子。
「幾度かお嬢さんといらしてくださったでしょう」あんまりにも嘉久がびっくりしているので、女性は言い訳をするように言う。
「それで覚えていたんですよ、あの、父にちょっと似ているものだから」恥ずかしそうに言うと、女性はカウンターの内側に入り、壁面のガラス戸棚からコーヒーカップを取り出している。
ああ、幸子さんのことか。たしかに幸子さんは、しょっちゅうコーヒーを飲まないかと言うからな。こちらは言われてついていくだけで、どの喫茶店に入ったかまでは覚えていない。嘉久はようやく落ち着いて、店内を見まわす。小ぎれいな喫茶店なのに客はひとりもいない。
「あの子は旅行が趣味でして」コーヒーを運んできたエプロン掛けの女性に、気がつけば嘉久は口を開いている。「しょっちゅうあちこち出かけてるんです」
「そういえば、夏にいらしたときも、テーブルに写真を広げていましたね」
「私がもうどこにもいけないだろうってんで、写真をたんと撮っては見せてくれるんです」
「いい娘さんですね」
いや、娘ではなくて……説明しようとして、やめた。娘のようなものなのだし。はは、と嘉久は照れたように笑う。
「私は父に、そんな孝行ができなかったから、うらやましいです」
テーブルのかたわらに立って、女性はぼんやりとした表情で言う。ああ、父親は亡くなってしまったのか。嘉久は気づき、彼女に何か言おうと思う。何か、なぐさめることのできる言葉を。しかし嘉久が気のきいた言葉を思いつくより先に、彼女は会釈をするとカウンターの内側に戻ってしまう。
目の前のコーヒーを見つめて嘉久は考える。尚之が遠い異国で亡くなったとき、こんな試練を味わっている父親は世界じゅうで自分ひとりだろうと思った。三年前、久子が亡くなったときは、こんなふうにひとりぼっちにされるのは世界じゅうで自分だけだろうと思った。でも、そうじゃない。世のなかは何かを失った人で満ちている。思えば幸子さんだって夫となるべき男を失った。商店街の片隅では父を失った女性がコーヒーを入れている。あの混雑したスーパーマーケットにも、そんなかなしみを抱いたまま、買い物かごを満たしている人が多くいるのだろう。
コーヒーは、自分でいれて飲むものよりずっとおいしかった。コーヒーを飲んでいるあいだ、時間がいつもの倍以上にゆるやかになったように嘉久には感じられた。まるで「今」が過去にのみこまれるのを押しとどめるように。
嘉久は空のコーヒーカップを見つめる。女性はカウンターの内側で洗い物をしている。嘉久は立ち上がり、レジ前でコーヒー豆が売られていることに気づき、それを一袋手にとる。
「コーヒー、おいしかった」
「ありがとうございました」女性はレジを打ち、釣りを手渡す。
「私がいれても、あんなにおいしいコーヒーになるかな」釣りと、ビニール袋に入れられたコーヒー豆を受け取って、嘉久は言った。
「ならなかったら、また飲みにきてください」
若いころの久子とよく似た笑顔で彼女は笑った。
おもてに出ると、町を染めていた橙色は、淡い紺色に変わっていた。ビニール袋をぶらさげて嘉久は歩く。尚之はもういないし、久子ももういない。自分の体も中身もどんどんと老い、かつて難なくできたことができなくなる。でもそれも、そう悲観したもんでもないさ、と嘉久は思う。すれ違う人の一瞬の表情に、尚之や久子を見ることができる。過去が連れていった彼らにそのたび自分は出会っているのだ。かつて難なくできたことができなくなったかわりに、かつてどうしてもできなかったことが、するりとできるようになったと気づくこともある。失ったものを、こんなふうに微笑みながら思い出すことは、最近ようやくできるようになったことのひとつだ。
もしまたいつか、あの喫茶店にいくことがあったら、あの女性と会話することがあったら、そんな話をしてみようか。日暮れの町を歩きながら嘉久は考える。あの人の名前を、訊いておけばよかったな。そうすれば町ですれ違ったとき、呼び止められたのに。いや、名前を聞いたって明日には忘れてしまうのだろう。何、それだってかまわない、明日新たに出会い、明日新たに名乗り合い、明日新たに言葉をさがして会話すればいいのだから。幾度でも、そうすればいいのだから。
2007年 10月 05日 明日、どこかで出会う | Permalink



