2007年10月 5日 (金)

第12話 明日また出会う

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角田光代

 おーい、久子ー、靴下がないぞー。気がつけば、大声で言っている。なんの返答もないので、おーい、久子さーん、ともう一度声をはりあげ、声をはりあげたせいでよけい静けさが強調される部屋のなか、山田嘉久はようやく気づく。ああ、妻の久子は死んだのだった、三年も前に。

 嘉久は寝室に使っている和室を出、ぎしぎしと音を鳴らして階段を下り、居間に向かう。夕陽が居間を橙色に染めている。居間に置かれた和箪笥の引き出しを開ける。樟脳のにおいが鼻を突く。しまってあるのはたとう紙に包まれた久子の着物ばかりで、靴下はない。そうだ、洗面所。嘉久は廊下を隔てた洗面所にいき、そこに置かれたもの入れの引き出しを開けていく。タオル類、ハンカチ類、下着類、その次に靴下が見つかる。一足取りだし居間に戻ってそれを履き、立ち上がったところで、何をしようとしていたのかと考える。

 靴下をはこうと思っていたのだから、出かける準備をしていたはずだ。ではどこに出かけるはずだったのか。嘉久は橙色に染まった部屋に突っ立って、しばし考える。ああ、マーケットだ。マーケットだが、しかし、そこで何を買おうとしていたんだったか。 

 最近、こんなことが増えた。何もかもが輪郭をぼやけさせて、いっしょくたにまじりあう。思い出そうとしても、まじりあったいっしょくたがぐるぐるまわるだけで、すんなり思い出せるということがない。このまま何もわからなくなっちまうのか、と考えると、ぞわりと背中が冷たくなるが、そんな恐怖もすぐに忘れてしまうのだ。

 ともかくいってみれば思い出すだろう。嘉久はとりあえず、買い物かごを提げて近所のマーケットへと向かう。並ぶ家々も道路も橙色に染まっている。ランドセルを背負った子どもたちが、長い影を引きずり笑いながら走っていく。すれ違ったひとりに、嘉久は思わず声をかけそうになる。おい尚之、尚之じゃないか、今帰るのか。もちろん声はかけない。ひとり息子がもう子どもではないことを、思いださずとも嘉久は知っている。彼が順番を無視して、自分より先にこの世界からいなくなったことも。 

 夕方のスーパーマーケットは混んでいる。太った女性にぶつかられてよろけ、若いカップルに迷惑そうに追い越されて縮こまり、なんだかもう嫌になってしまって嘉久は早々とスーパーを出る。出るなり用を思い出す。お茶の葉を買おうと思っていたのだった。思い出したが、せわしないスーパーに戻る気がせず、嘉久はおもてに出て、商店街を歩く。犬を連れた老女、かたまって歩く高校生、買い物袋をいくつも提げた女性たち。商店街も混み合っているが、スーパーよりは速度がゆるやかだ。

 ふと、香ばしいにおいが鼻先に流れ、嘉久は足を止める。誘うようないい香りはコーヒーだ。薬局と総菜屋に挟まれるように建つちいさな喫茶店に、嘉久はふらふらと近づき、ドアを開ける。カウベルの音が響き、いらっしゃいませ、とカウンターの内側で女性が笑いかける。あっ、と思う。嘉久はドアの前に立ち尽くす。久子。こんなところにいたのか、久子。いやいや、そんなはずがない。まったく嫌になる。久子はもういないのだと、さっき気づいたばかりじゃないか。

「お久しぶりですね、おひとりさまですか」

 カウンターの女性に話しかけられ、嘉久はさらにぎょっとする。久しぶりなどと言われるとはどうしたことか。「こちらのお席にどうぞ」案内されて嘉久はおたおたと席に着く。

「コーヒーを」
「アメリカン、でしたよね」
 嘉久はまたしてもぎょっとする。商店街にこんな喫茶店があるとも知らなかったのに、なぜ知り合いのように言われるのか。エプロンを掛けた女性をまじまじと見る。やっぱり久子に似ている。とはいえ、四十代の久子だ。溌剌として、おしゃべりで、夕食の献立ばかり気にして、尚之を必要以上に叱った教師に立ち向かうため、鼻の穴をふくらませて学校にのりこんでいった久子。

「幾度かお嬢さんといらしてくださったでしょう」あんまりにも嘉久がびっくりしているので、女性は言い訳をするように言う。
「それで覚えていたんですよ、あの、父にちょっと似ているものだから」恥ずかしそうに言うと、女性はカウンターの内側に入り、壁面のガラス戸棚からコーヒーカップを取り出している。

 ああ、幸子さんのことか。たしかに幸子さんは、しょっちゅうコーヒーを飲まないかと言うからな。こちらは言われてついていくだけで、どの喫茶店に入ったかまでは覚えていない。嘉久はようやく落ち着いて、店内を見まわす。小ぎれいな喫茶店なのに客はひとりもいない。

「あの子は旅行が趣味でして」コーヒーを運んできたエプロン掛けの女性に、気がつけば嘉久は口を開いている。「しょっちゅうあちこち出かけてるんです」
「そういえば、夏にいらしたときも、テーブルに写真を広げていましたね」
「私がもうどこにもいけないだろうってんで、写真をたんと撮っては見せてくれるんです」
「いい娘さんですね」

 いや、娘ではなくて……説明しようとして、やめた。娘のようなものなのだし。はは、と嘉久は照れたように笑う。

「私は父に、そんな孝行ができなかったから、うらやましいです」
 テーブルのかたわらに立って、女性はぼんやりとした表情で言う。ああ、父親は亡くなってしまったのか。嘉久は気づき、彼女に何か言おうと思う。何か、なぐさめることのできる言葉を。しかし嘉久が気のきいた言葉を思いつくより先に、彼女は会釈をするとカウンターの内側に戻ってしまう。

 目の前のコーヒーを見つめて嘉久は考える。尚之が遠い異国で亡くなったとき、こんな試練を味わっている父親は世界じゅうで自分ひとりだろうと思った。三年前、久子が亡くなったときは、こんなふうにひとりぼっちにされるのは世界じゅうで自分だけだろうと思った。でも、そうじゃない。世のなかは何かを失った人で満ちている。思えば幸子さんだって夫となるべき男を失った。商店街の片隅では父を失った女性がコーヒーを入れている。あの混雑したスーパーマーケットにも、そんなかなしみを抱いたまま、買い物かごを満たしている人が多くいるのだろう。 

 コーヒーは、自分でいれて飲むものよりずっとおいしかった。コーヒーを飲んでいるあいだ、時間がいつもの倍以上にゆるやかになったように嘉久には感じられた。まるで「今」が過去にのみこまれるのを押しとどめるように。

 嘉久は空のコーヒーカップを見つめる。女性はカウンターの内側で洗い物をしている。嘉久は立ち上がり、レジ前でコーヒー豆が売られていることに気づき、それを一袋手にとる。

「コーヒー、おいしかった」
「ありがとうございました」女性はレジを打ち、釣りを手渡す。
「私がいれても、あんなにおいしいコーヒーになるかな」釣りと、ビニール袋に入れられたコーヒー豆を受け取って、嘉久は言った。
「ならなかったら、また飲みにきてください」
若いころの久子とよく似た笑顔で彼女は笑った。

 おもてに出ると、町を染めていた橙色は、淡い紺色に変わっていた。ビニール袋をぶらさげて嘉久は歩く。尚之はもういないし、久子ももういない。自分の体も中身もどんどんと老い、かつて難なくできたことができなくなる。でもそれも、そう悲観したもんでもないさ、と嘉久は思う。すれ違う人の一瞬の表情に、尚之や久子を見ることができる。過去が連れていった彼らにそのたび自分は出会っているのだ。かつて難なくできたことができなくなったかわりに、かつてどうしてもできなかったことが、するりとできるようになったと気づくこともある。失ったものを、こんなふうに微笑みながら思い出すことは、最近ようやくできるようになったことのひとつだ。

 もしまたいつか、あの喫茶店にいくことがあったら、あの女性と会話することがあったら、そんな話をしてみようか。日暮れの町を歩きながら嘉久は考える。あの人の名前を、訊いておけばよかったな。そうすれば町ですれ違ったとき、呼び止められたのに。いや、名前を聞いたって明日には忘れてしまうのだろう。何、それだってかまわない、明日新たに出会い、明日新たに名乗り合い、明日新たに言葉をさがして会話すればいいのだから。幾度でも、そうすればいいのだから。

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2007年 10月 05日 明日、どこかで出会う |



2007年9月 7日 (金)

第11話 世界の断片

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角田光代

 旅から帰った谷村幸子は、荷ほどきをするより先にある場所に向かう。デジタルカメラからメモリーを取り出して、写真屋に向かうのだ。超特急でお願い、と幸子は写真屋に頼む。

 写真の現像が仕上がるあいだ、幸子は町をぶらつく。まだ旅をしているように思う。どこか心許なく、道行く人々は自分にはわからない言葉を交わしながら通りすぎていく。

 できあがった写真を受け取り、幸子は自分の住むマンションには帰らず、住宅街を歩く。東京の夏はだんだん東南アジアに似てきたな、と幸子は思う。みっしりと包みこんでくるような、重みのある暑さである。

 自宅マンションから五分ほど歩くと、目的地に着く。ギーコと鳴る門を押し開けて、鬱蒼と木の茂った庭を進む。もう陽は暮れたのに、どこにとまっているのか蝉がやかましく鳴いている。こんにちはー、と声を出しながら、幸子は玄関の引き戸を開ける。

 山田嘉久は縁側にいた。この暑いのに、冷房もつけず、ガラス戸を開け放ち扇風機をかけている。縁側に置いた座布団に悠然と腰かけ、入ってきた幸子を見、「ああ、幸子さん」と笑顔を見せる。縁側に置かれたちゃぶ台には、瓶ビールが一本と、枝豆の入った小鉢がある。

「枝豆、茹でたんですか」思わず幸子は声を出す。山田嘉久は、ごはんすらうまく炊けない男なのだ。

「ああ、冷凍なの、これは。水で洗うだけで食べられるんだ。便利な時代になったもんだ」

 幸子は勝手に冷蔵庫から瓶ビールを出し、食器棚からグラスを出して、嘉久の向かいに座る。彼のグラスにビールをつぎ足し、自分のぶんは手酌をして、口をつける。熱気のなかを歩いてきた体に、冷たいビールはしみこんでいくようだった。

 嘉久は何も言わず、目を細めて庭を見ている。幸子もつられて庭を見るが、ただ生い茂った木々が、夜をいっそう濃くしているだけだ。蝉に混じって、キリキリキリ、と聞き慣れない虫の声がする。ときおり涼しい風が吹く。蚊取り線香が薄い煙を上げ続けている。

「私、旅行にいってたんですよ。写真、見ますか」言いながら、幸子は縁側にプリントしたばかりの写真を並べていく。市場、寺、子どもたち、川、カレー屋、喫茶店、広場、空、椰子の木、笑う女たち。

「ほう、また旅行」嘉久は背を丸め、写真を一枚一枚手にとって顔に近づける。

 山田嘉久は、幸子がかつて交際していた山田尚之の父親だった。尚之とは、二十歳のときに知り合って十年間交際をした。二十代後半になると、結婚の話も幾度か出た。互いの両親とは幾度も顔を合わせていたから、双方の親が、近く結婚の運びになるのだろうと信じていた。中学校の教師をしていた尚之は、しかし三十歳になるやいなや、仕事を辞め、ドミニカ共和国にいくと言いだした。学校を建設しているボランティア団体に参加するのだと言う。毎日にずっと違和感があった、何か違うことをしたいと考えていた、反対されるだろうと思うとなかなか言いだせなかった、と、彼は幸子に言った。もちろん幸子は反対した。彼の両親も。けれど尚之の意志は変わらなかったし、変わらないだろうことをうすうす幸子もわかっていた。

 いつか自分も、尚之の住む場所にいこう。幸子はそう思いながら旅立つ尚之を見送った。尚之の向こうでの暮らしが落ち着いて、見知らぬ土地で結婚生活を送ることに自分も覚悟を決められたら、いこう。そう思っていた。尚之とは幾度か手紙のやりとりをした。電話で話すこともあった。いつでもおいで、と尚之は言った。けれど幸子には、なかなか決心がつかなかった。住み慣れた場所を離れ、見ず知らずの――たぶんここよりははるかに不便なのだろう土地で暮らす、その決心がつかなかった。いつかいく、と、そのたび幸子は答えた。いつか近いうちに必ず、と。

 そうして尚之は、休暇中に訪れたコロンビアで、事故死した。山中を走っていた長距離バスが谷底に落下するという事故が起き、尚之はそのバスに乗っていた。ドミニカにいってから、二年目のことだった。

 尚之の両親とともに幸子は現地にいった。飛行機に乗るのも、日本の外に出るのも、幸子にははじめてのことだった。かつて漠然と考えていた「いつか」が、こんなかたちで訪れるとは思っていなかった。あるいはこれは罰かもしれない、と幸子は考えた。ぐずぐずと決心をしなかった自分への罰。しかしこれほど重い罰に充当するような何かを、私はしでかしたのだろうか。

 それが十年前のことである。結婚していなかったのだから、幸子と尚之の両親に法的なつながりはない。けれど幸子は、都内の彼らの住まいに足繁く通うようになった。彼らと会う回数は以前よりずっと増えた。食事をともにしたり、彼らが出かけるのに付き添ったりする。三人とも申し合わせたように尚之の名を口にしなかった。だから三人でいると幸子は、自分たちがもともと家族であるかのように錯覚した。

 二度と使うことはないだろうと封印していたパスポートを、幸子が取り出したのは、尚之の死から二年たった夏だった。

 中高生向きの参考書を作る会社で働いていた幸子は、その年はじめて有給をすべて使い、二週間の休みを取ってドミニカ共和国にいった。首都サント・ドミンゴは、幸子が思っていたよりずっと発展した、美しい町だった。旧市街を歩き、市場をのぞき、おっかなびっくりしながら料理を注文し、移動をし、ジャングルを歩き、鍾乳洞を見、写真を撮りまくった。そうして異国の町を歩きながら、幸子はふと思った。尚之は本当はどこかで生きているのではないか。この町を出て、ボランティアの必要な場所へいき、そこで学校を作っているのではないか。現地の女性と恋に落ちて結婚し、そのことを打ち明けられなくて私に連絡をよこさないだけではないか。その思いつきは、自分でも驚くほど幸子の気持ちを明るくした。

 帰国した幸子は、旅行中にとったおびただしい数の写真を、尚之の両親に見せた。見ることを拒むかと思ったが、彼らはていねいにそれらの写真を見ていった。彼らは無言で写真を食い入るように眺め、そしてすべて見終えた父親はぽつりと言った、「尚之はきれいな世界を見ていたんだなあ」と。

 幸子が頻繁に旅行にいくようになったのはそれからだった。韓国、台湾、中国、タイ、イタリア、ギリシャ、ポルトガル、キューバ、コスタリカ。盆と正月の休み、ゴールデンウィークはすべて旅行に費やした。はじめて訪れる場所の、自分の目を引いたすべてのものに幸子はカメラを向ける。尚之の母、久子が亡くなったのは三年前だ。以来嘉久はひとり暮らしをしている。久子が亡くなったあと、長く勤めた会社を幸子は辞め、嘉久の家の近所に引っ越した。休みをとらずとも旅行にいけるようになった。貯金がなくなればアルバイトをし、そして旅に出る。そんな暮らしをはじめてもう二年以上がたつ。

「これは何、寺、へえ、ずいぶんと金ぴかの寺だなあ。やあ、一面の田んぼ。なんだかなつかしいような光景だねえ」

 あぐらをかき、嘉久は写真に顔を近づけたり遠ざけたりしながら、たんねんにおさめられた光景を見る。その横顔を、幸子は凝視する。家のなかは静かで、蝉や虫たちの声はその静けさをいっそう強調している。この静けさを、未知の場所に目を凝らす嘉久の横顔を、私はとても愛しているらしいと幸子は思う。尚之は帰ってこなかった。けれど私は何度でも何度でも帰ってくる。息子も妻も亡くしたこの人に、美しい世界の断片を見せるために。

 幸子は手をのばし、小鉢の枝豆を食べる。塩加減はちょうどいいが、やはり香りがほとんどない。明日は枝豆を買ってきて、嘉久のために茹でようか。半分空いた嘉久のグラスにビールをつぎ足し、幸子は写真を眺める嘉久を見る。嘉久の名を呼ぶとき、幸子はいつも躊躇する。おとうさん、じゃ馴れ馴れしいし、山田さん、ではよそよそしすぎる。嘉久さん、とも言いづらい。だから話しかけるときはいつも、「あの」だの「すみません」だのと、不自然な言葉を差し挟むことになる。うまい呼び名が見あたらない、というのは、まさしく自分たちの関係だ、と幸子は思う。

 手に入れられなかったものがある。失ったものは失ったまま埋められることはない。けれど心にぽかりと空いた空洞のなかでも、いやそうした場所だからこそ、出会える人がいて、得られる時間がある。このごろになってようやく、幸子はそう思うようになった。おとうさん、とも、嘉久さん、とも呼べない関係は、代替のきかないだいじなものに幸子には思えるのだ。帰ってきたと思いたくて、自分は旅を続けているのかもしれない。失ったものが結びつけた、この呼び名のない関係の元に。

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2007年 09月 07日 明日、どこかで出会う |



2007年8月 3日 (金)

第10話 彼女の国境

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角田光代

 空港を出て、職員ロッカー室で着替え、安田栄太郎は腕時計を確認する。成田エクスプレスに乗れば七時過ぎには新宿に着くだろう。ロッカー室で着替えたり、隅のテーブルでお茶を飲んでいる職員たちに「お先に失礼します」と挨拶をして、栄太郎は駅までダッシュする。

 十日あまりのシフトを終え、明日から二日間が休日になる。夏休みのシーズンがはじまると、ほとんど休みはとれなくなる。この二日間、高校時代の友人が企画した合コンに出まくる予定だった。なんとしても彼女を見つけるのだと栄太郎は意気込んでいた。

 指定席に向かうと、隣の座席にはすでに人が座っている。見るからに貧乏旅行者とわかる格好。足下に置いたナップザック、汚れたTシャツ、乾いた土埃のついたサンダル。ちら、と隣の乗客の顔を見て、あ、と栄太郎は声を出しそうになった。 

 この人、三カ月前のあの人じゃないかな。

 二十六歳の栄太郎より、だいぶ年上のように見えるが、きれいな人だったから覚えていた。目がくっきりと大きくて、妙な迫力があるのだ。でもまさか、と栄太郎は思いなおす。単に似た人だろう。一日に何百という旅行者を相手にしているのだから、ただの記憶違いかもしれないし。 

 電車は走りはじめる。窓際に座った女は、足下に置いたナップザックをごそごそとかきまわし、クッキーの箱をとりだして食べはじめた。クッキーの箱には、丸で構成されたような文字が書き連ねてあり、それがどこの国の文字なのか、栄太郎にはわからなかった。ふと気づくと、女がじっとこちらを見ている。あわてて目をそらそうとした栄太郎に、
「食べる?」と、クッキーの箱を差し出して見せた。まるで親戚のおばさんみたいに。
「え、あの」へどもどと答えながら、いりませんと言うのも気が引けて、栄太郎はおそるおそる、箱から四角いクッキーを抜き取り、ぱりんと噛んだ。べったりと甘い、素朴な味のクッキーだった。「ありがとうございます」栄太郎が言うと、女はにっこり笑ってひとつうなずき、窓の外に顔を向けた。やっぱりあのときの女によく似ている。クッキーをのみこみ、栄太郎は自分の内に点滅する興味に抗いきれず、思いきって女に話しかけてみた。

「あの、どこからお帰りですか」そう言ってから、口ぶりが検査台で働いているときと同じになっていることに気づき、栄太郎は苦笑しそうになる。
「ああ、ミャンマーからタイ経由で。いったことある?ミャンマー」女は窓から栄太郎に視線を移し、訊いた。
「ないです。海外、いったことないんです」なぜか栄太郎は正直に言った。
「え、じゃあどうして……」女はまじまじと栄太郎を見て、「あ、そっか。この電車に乗るのは旅行者だけじゃないもんね」とひとりうなずき、またクッキーを栄太郎に勧めた。

 毎日のように旅行者を見ているが、栄太郎はどこにもいったことがない。国外はおろか、北海道にも九州にも。成田税関支署に配属され、なおかつ旅具検査官として働くことになったのは半年ほど前で、空港で働くことは希望していたのだが、働きはじめてすぐにうんざりした。長旅から帰ってきた旅行者たちは、最後に通過しなければならない税関検査台では、疲れと苛立ちを隠そうともしない。どこからお帰りですか、という問いを、ときに無視したり、舌打ちしたりする。 

 以前は、長く休みがとれたら自分もどこかにいってみたいと思っていた栄太郎だが、旅具検査官になって大きな疑問を抱くようになった。旅っていいものなのか?というのが、それである。旅行者たちは一様に疲れ、どろんと濁った目をしていて、何かに追われているかのように急ぎ、苛立っている。旅先で得るものは、そんなにすばらしいといえないものなのではないか。

「空港で働いているの?」女の目に興味の色が浮かんでいる。
「いえ、あの、友人を見送りにきて」栄太郎は嘘をついた。税関職員であると言えなかった。だってこの人が、もしあのときの人だったら。栄太郎は思い出す。三カ月前、栄太郎ははじめて旅行者を呼び止め、荷物の検査をした。荷物はナップザックひとつと少なかったが、パスポートにびっしりと押されたスタンプにはタイとヨーロッパが異様に多く、彼女の格好はいわゆるヒッピーそのものだった。化粧ポーチを開け、ノート類をぱらぱらとめくり、風呂敷に包まれた彼女の衣類のなかに手を差しこんだ。「申し訳ないです」と作業をしながら栄太郎は儀礼的に謝った。彼女は怒るでもなく「いつもなのよ」と、静かな声で言った。「真っ裸にされたことだってあるんだから。そのあと何されたかは言えないけどね」と続け、栄太郎は耳が赤くなるのを感じた。何をされるのか、栄太郎は知っている。もちろん女の職員にだが。「それが仕事なんだからしかたないでしょうけど、一度でいいから、お帰りなさいとにこやかに迎え入れてもらいたいわね」その女の旅行者は、栄太郎の作業を見守りながら、やっぱり静かな声でそう言った。

 彼女の荷物からは何も出てこなかった。覚醒剤も大麻も、偽ブランド品も鼈甲のスローロリスも。ご協力ありがとうございました、と言うと、彼女はやっぱり、怒るでもなく急ぐでもなく、「またね」と笑顔で手をふって去っていった。彼女の言うとおり、疑うのが栄太郎の仕事だった。でも、と、そのとき栄太郎は思ったのだった。でも――そのあとに続く言葉は思いつかなかったが。 

 旅行者に向かって、栄太郎がお帰りなさいと笑顔で言うようになったのは、その明くる日からだった。無視する人が大半だが、ごくたまに、笑顔を返されることもある。
「旅行って、たのしいですか」栄太郎は隣の席の女に訊いた。この人なら、たのしいって答えるんだろうなと予想したが、しかし彼女はそれには答えず、
「さあ、どうだろう。たのしいときも、たのしくないときも、あるんじゃないの。たのしいことが正解ってわけでもないし」と言う。
「でも、旅行はお好きなんですよね」自分でも何を訊きたいのかわからないまま、栄太郎は質問をくり返す。
「好きじゃなくて必要なのかも。でも、帰ってくるときは好きだな」
「税関で、おもしろくない思いをしたとしても、でも、好きですか」
 女は不思議そうな顔で栄太郎を見て、窓際に置いたペットボトル入りのお茶に手をのばす。
「あそこ、国境って感じがするじゃない。旅の最後のクライマックス。おもしろくない思いも含めて旅だなあと思い知らされたりするのよね」

 あと五分ほどで東京駅に到着する、とアナウンスが流れると、女はクッキーの箱をしまい、ナップザックを閉めた。「じゃ、私、東京で下りるから」と、立ち上がる。

「名前、なんていうんですか」栄太郎は訊いた。
「谷村幸子。幸せの子で幸子。平凡でしょ」彼女は笑顔を見せ、「またね」と言いながら栄太郎の膝をまたぎ、ナップザックを背負って通路を歩いていった。

 電車が止まる。窓に顔を近づけて、彼女の姿をさがしたが、栄太郎には見つけられなかった。電車が走り出す。検査台が国境だなんて、クライマックスだなんて、考えたことなかった、とせわしなく栄太郎は考える。ということは、おれは国境で働いているのか。おれが国境を越えるときはいつかやってくるのかな。くり返される毎日をすっと飛び越えてしまうようなときは、いつかやってくるのかな。考えごとに夢中になって、乗り過ごした、と気づいたのは、電車が新宿をとうに離れたころだった。時計を見る。あと数分で七時半。合コンはもうはじまっているだろう。ずっとたのしみにしていたそれが、今や自分のなかで不思議と色あせていることに栄太郎は気づく。騒いで、ギャグを言って、笑って、女の子を品定めして、携帯の番号を交換しあって。そんなこと、本当におれ、したいのかな。

 この電車、どこにたどり着くんだろう。ささやかな予定外に、気がつけば栄太郎は子どものようにわくわくしている。 

 またいつかどこかで、谷村幸子に会うような気がした。検査台かもしれないし、空港から都心に向かう電車のなかかもしれない。あるいはまったく未知の町を走る、古びた列車のコンパートメントかもしれない。くるかもしれず、こないかもしれないそんな日が、栄太郎にはやけに待ち遠しく感じられた。窓の外、明るい夜空を背景に、色鮮やかなネオンサインがびゅんびゅんと流れていく。

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2007年 08月 03日 明日、どこかで出会う |



2007年7月 6日 (金)

第9話 そのはるか向こうにそびえる

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角田光代

 田んぼ。山。田んぼ。山。民家。田んぼ。

 ベランダに立ち、ぱんと勢いよくはたいた洗濯物を手にしたまま、田村千帆は目の前に広がる光景を胸のなかで言葉にする。

 大嫌いな景色だった。連なる山の稜線が、どこにもいかせないと通せんぼをしているような気に、いつもなった。この狭くて退屈な場所に閉じこめられているような気持ちがした。

 千帆は手にしたシャツをハンガーにかけ、物干しに吊す。ハンカチやタオル、夕菜のちいさなパンツや靴下を次々干していく。空になった洗濯籠を抱えて階下に降りる。居間をのぞくと、夕菜はテレビの前にちょこんと座ってアニメのビデオをおとなしく眺めている。

「買い物いこうか、夕菜」話しかけると、ぱっとふりむいた顔が輝いている。

 郵便局にいくにも、スーパーにいくにも、ビデオを借りにいくにも、バスに乗らなくてはならなかった。バス停までは歩いて七分もかかる上、そのバスだって一時間に二本しかない。

 高校を出たらさっさとここを出ていくんだ。もっと広い世界にいくんだ。デパートやブティックがたくさんある町にいくんだ。バスと電車を乗り継がなくてもCDを買えるところにいくんだ。中学生のころから千帆はそう思っていた。

「買い物いってくるけど、何か買うものある?」食堂にいる母と祖母に千帆は訊く。
「じゃあ夕食の買い物をしてきてよ」母と祖母は顔を合わせ、鶏は昨日食べたし、ブリってのも芸がない、じゃあ鰹は、そうね鰹ね、あとインゲンと、茄子はどうだろ、などと言い合いながら、メモ用紙に食材を書いていく。「はい、これお願い」と母の差し出すメモを千帆は受け取った。

 母親の軽自動車の助手席に夕菜を乗せ、千帆は車を発進させる。かつて原付バイクで走っていた、大嫌いだった国道を走る。田んぼ、山、民家、田んぼを縫って走る国道。

 二カ月前、帰国したときのことを、ふいに千帆は思い出す。成田空港の税関職員が、千帆と夕菜に言った言葉を。

「ねえ、夕菜はさあ、ここが好き?」アニメの歌をうたう娘に千帆は訊く。
「うん、好きだよ。バアバもいるし、おっきなバアバもいるでしょ。テレビもたくさんあるもん」
「前に住んでた、ちんちん電車の走る町より好き?」
「うん。あたし、車のほうが好きだもの」やけに大人びた口調で夕菜は答え、窓の外に顔を向けた。国道沿いに建物が増えてくる。馬鹿でかい靴屋、馬鹿でかい紳士服屋。大嫌いだった。山、国道、バス、制服、何もかも。けれど――。

 入国審査の長い列につき、無表情の職員に入国の判を押してもらい、手荷物引き渡し所で自分の荷物が流れてくるのを待ち、それをカートに移し、あちこち勝手にいこうとする夕菜のちいさな手をしっかり握り、税関検査の前にできている列に千帆は並んだ。荷物の多さと、人の多さと、フライトの疲れと、これから電車を乗り継がなければならない煩雑さとで、千帆はうんざりしていた。税関検査で千帆はなぜかしょっちゅう、すべての荷物を広げるよう無表情の職員に命じられた。きっと今回もそうだろうと諦めたように思っていた。スーツケースと旅行鞄とナップザックに詰まったものを広げ、またしまう面倒を思うとさらに気が滅入った。それにしても、なんだって成田の職員はこうも無表情で無愛想なんだろう。そんなことを思ううち順番がやってきて、千帆はすべての荷物をカウンターにのせた。千帆の差し出した二冊のパスポートを受け取りながら、「どちらからですか」と、おきまりの質問を職員はする。「オーストラリアから」職員の顔も見ず、ぶっきらぼうに千帆は答えた。調べるならさっさと調べてよ。疲れてるんだから。そんな気持ちだった。そのとき、思わぬ言葉が耳に届いた。

 お帰りなさい。 

 職員はそう言ったのだ。千帆はびっくりして顔を上げ、職員をまじまじと見た。二十代の半ばくらいだろうか、千帆よりはひとまわりも年下に見える青年が、千帆に向かって笑いかけていた。彼は腰をかがめ、千帆と手をつないだ夕菜に目線を合わせ、「お帰りなさい、お嬢ちゃん」もう一度言い、「桜は散ってしまったけど、でも、今は緑がきれいな季節ですよ」また千帆をまっすぐに見て微笑みながら、パスポートを返した。ぽかんとしている千帆に「ありがとうございました」と頭を下げると、千帆の後ろに並んでいた人にふたたび「どちらからですか」と訊いた。

 千帆はあわてて荷物をカートに積み、到着出口の自動ドアをくぐった。お帰りなさい。彼の声が、波紋のように心のなかに響いていた。空港から一歩出ると、日本特有の湿った空気が千帆を包んだ。遠くの景色を春霞が隠していた。お帰りなさい。たった今受け取った言葉を胸の内でくり返す。なぜか千帆は、子どものようにその場に寝転がって、わんわん声をあげて泣きたい気分になった。実際、右目からほとりと涙が落ちた。

「ママ、お菓子買う?」助手席の夕菜の声で我に返る。
「うーん、どうしようかな」
「ちょっとだけでいいから、買ってくださいな」
「そうねえ、見てから決めようね。ママ貧乏だから、高いのは買ってあげられないし」
「高いのは、あたし、いらないの」夕菜はどことなく必死な声で言い、千帆は思わず笑ってしまう。メルボルンにいるときは、すぐ近くのデリにいくことですら夕菜は渋ったというのに。ほしいものなんかないと言って。

 ショッピングモールに向けて車を走らせながら、千帆は焦がれるように何ものかになりたかった自分を思い出す。この町を出て、華やかな世界にいきたかった。だれにも通せんぼされることなく、華やかな場所で自由に過ごしてみたかった。雑誌のなかで笑うモデル。強いライトに照らされる女優。けれど、華やかに見える方向に進めば進むほど、千帆は自分がいかにちっぽけな人間か思い知らされた。何ものかになるにはいつだって何かが足りなかった。何かを追うように外国にいった。外国になら、何ものかになるべき自分がいるはずだと思った。けれどそれをつかまえることはできなかった。何ものかになるべき自分を追っているはずなのに、気がつけば逃げているように思えた。何ものでもない自分から、逃げまわっているかのように。 

 オーストラリアは一時居住ビザでいった。ニューヨークで知り合った友人が、メルボルンで日本人向けの雑誌を編集していたので、便宜を図ってもらったのだった。仕事はつまらなかった。お給料は驚くほど安かった。見知らぬ場所で暮らすことの興奮が、一カ月ほどで冷めてしまうと、またしても千帆は気づかざるを得なかった。ここには何ものかの私なんていない。何もできない、すぐに仕事をつまらないと感じてしまう自分がいるきり。

 そうして、もっと大きなことに気づいてしまった。この世界のどこにも、何ものかの私なんていないのだ。地味で、ちっぽけで、いつまでも狭い世界から抜け出すことのできない私自身が、どこにいったっているだけなのだ。夕菜のためにも、そろそろそんな幻との追いかけっこはやめなければならなかった。夕菜は現地のチャイルドケアセンターに数日通ったが、その後は泣いていきたくないと言い張り、一日アパートでテレビを見る毎日を送っていた。 

 なんとなく行き詰まりを感じるころ、手持ちのお金も少なくなって、一時帰国を決めた。あーあ、という気分で成田行きの飛行機に乗りこんだ。あーあ、結局また、あそこに戻るのか。あそこに戻ることしか私はできないのか。

 ショッピングモールには、スーパー、格安衣料店、スポーツ用品店、ホームセンター、本とレンタルビデオ、レストランなどが軒を連ねている。ここにくれば生活の用はすべて事足りる。ここにはなんでもあるが、ここにこないとなんにもない。そんなことも、十代の千帆は嫌悪していた。 

 カートのチャイルドシートに夕菜を座らせ、スーパーマーケットを歩く。千帆は母の渡したメモ通りに、野菜や魚をカートに入れていく。お菓子がほしいと夕菜が騒ぎ、しかたなくお菓子コーナーにカートを押していく。シートから下り、色とりどりのパッケージの前にしゃがみこみ、買うべきものを吟味している夕菜を眺め、そういえばこの子は、メルボルンでも、その前の上海でも、何がほしい、何が見たいと決して言わなかったなと、千帆は思い出す。異国の町で過ごした日々のほうが多いのに、この子はわかっていたんだろうか。そこでは自分の居場所が見つけられないことを。私が十年以上かけてようやくわかりつつあることを。

 気がつくと、しゃがみこんだ夕菜の隣に、女の子がいる。夕菜より少し背が大きい。女の子は同じようにしゃがみこみ、「あのね、これがおいしいんだよ。このスイカ味はだめ。あとね、これは大人の味なの。すんごくすっぱいの」大人びた口調で、夕菜に指南している。思わず千帆は口元をゆるませた。夕菜は、女の子の「お勧め」を手にふりかえり、「ママ、あたしこれがほしい」と真顔で言う。「いいよいいよ、カートに入れな」千帆は笑いながら言った。

「名前、何」女の子は夕菜に訊く。
「……夕菜」夕菜がちいさな声で答える。
「ふうん。こっち、ゆり。またね、夕菜。夕菜のママ、バイバイ」ゆりちゃんは礼儀正しく千帆にまで挨拶すると、ぱっと駆け出していった。

 食材の詰まったビニール袋をカートに乗せたまま、駐車場までいく。後部座席にそれらを移し、夕菜を助手席に座らせる。運転席に移ろうとして、千帆は足を止め、ショッピングモールの彼方に広がる山並みを仰いだ。馬鹿でかいショッピングモールよりさらにでかい山々を、ぐるりと見渡す。 

 ずっと何ものかになりたかった。何ものかである自分を追っかけていた。でも気がつけば、私はすでに何ものかになっているのかもしれない。だってさっきの子は言ったじゃないか。夕菜のママ、と、私のことを。自分で追っかけていかなくたって、いつのまにか、私はこの子の母親になっているじゃないか。私にしかなれないものに、なっているじゃないか。千帆はふと、そんなことを思う。

「ママ、ビデオやさん、いく?」エンジンをかけると、夕菜が訊いた。
「今日はいかない。返すビデオ持ってこなかったし」
「えー、あたし、見たいのがあるの」
「また明日くればいいよ」
「じゃあ、明日もここにいるのね?」夕菜の言葉に、千帆はどきりとする。
「うん、いるよ。明日もあさってもいる。だからだいじょうぶ。夕菜の見たいビデオ、いつでも借りられるから」千帆は言い、アクセルをゆっくり踏みこんだ。

 駐車場を出、元きた道をまた走る。千帆は窓を大きく開ける。雨が近いのか、湿った空気が流れこんでくる。お帰りなさい。前方に連なる山々が、そっとささやいたような気がした。千帆は今はじめて、生まれたときから見ている景色を、大きいと思った。

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2007年 07月 06日 明日、どこかで出会う |



2007年6月 1日 (金)

第8話 いつか戻る場所

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角田光代

 ゴールデンウィークにわくわくしたのは二十代までだったな、と、実家に向かう電車のなかで鍋岡洋文はぼんやりと思う。四十歳も間近だというのに、洋文が 離婚してからというもの、年老いた両親はゴールデンウィークの直前には必ず、「帰ってこい」と電話をかけてくる。友人や恋人との約束があれば、もちろんそ ちらを優先したが、この数年、友人はみな家族サービスに忙しく、また恋人と呼べる人もいない洋文は、ゴールデンウィークには長野の実家に帰省している。渋 々両親の言葉に従っているふりをしているが、十日近い休みを、だらだらとマンションで寝て過ごすよりはずいぶんとましだった。

 長野までの新幹線も、乗り換えた私鉄も、毎年のことだが行楽客で混んでいた。電車をおり、ぐったりして改札を抜けると、父親の車が停まっている。洋文は車に近づいて、運転席に座っているのが父親ではないことに気づき、急にどぎまぎした。運転席にいるのは従姉妹の田村千帆だった。ハンドルに両手を置いてぼんやりしていた千帆は、洋文を見つけると笑顔で手をふった。その笑顔が、あまりにも昔と変わらなく見え、洋文はとっさにうつむいてしまう。

「ああ、びっくりした。てっきり親父がきてると思ったから」助手席に乗りこみながら洋文は言う。
「ヒロくん、なんか貫禄出たね」車を発進させながら、洋文が戸惑うほどまじまじと、千帆は洋文を眺めた。
「貫禄っていうか、腹だろ、出たのは」

 洋文の言葉に千帆は大きく笑った。バックミラーのなかで、駅舎がどんどんちいさくなるのを洋文は眺める。観光客はここまではこない。駅前の商店街には歩く人の姿もなく、いくつかの店はシャッターが閉まったままだ。陽にさらされて、町は漂白したように見える。

「いつきたの、こっちに。っていうか、今どこに住んでるの」
「あれからずっとオーストラリアだよ。メルボルン。たまたま休みがとれたから、親孝行と婆孝行でもしようと思って、四月の半ばにこっちきた」

 小柄な千帆がハンドルを握ると、まるで子どもがおもちゃの自動車に乗っているように見える。洋文はまっすぐ前を向いた千帆の横顔を、幾度も盗み見る。

 千帆の母と、洋文の母が姉妹だった。千帆が十歳のとき父親が亡くなり、千帆の母は千帆を連れて祖母の家に引っ越してきた。祖母の家と洋文の家は歩いて五分もかからないところにあり、両親が共働きだった洋文は、学校が終わると祖母の家に向かうのが日課になっていた。子どものころの洋文は、二歳年上の千帆と、まるできょうだいのように過ごしていた。

 そうして千帆は、洋文がはじめて好きになった異性だった。子どものころの淡い初恋などではなかった。洋文が彼女を好きだと自覚したのが十二歳、千帆が上京し、諦めなきゃいけないんだと自覚したのが十六歳、ようやく千帆のことを考えなくなったのが、洋文にはじめて恋人のできた十九歳のときだった。

 車は商店街をとうに過ぎ、貸しビデオ屋やラーメン屋がぽつぽつと並ぶ国道を走っている。四方を囲む山々は、晴れた空の下、くっきりと緑色だ。千帆は運転しながら、明るい調子でメルボルンでの暮らしのこと、四歳になったばかりの娘の夕菜のことなどを話した。

 十八歳で上京した千帆は、大学に通うかたわら、女性誌のモデルをやっていた。女優になると言いだし、就職しなかった。洋文も十八歳で東京に住むようになったが、ずいぶん華やかな世界に身を置いているらしいこの従姉妹と、連絡を取り合うようなことはなかった。ちーちゃんがテレビに出ると、母親が電話で教えてくれたりすると、一応はチャンネルを合わせた。スナックで働くホステスの一員、とか、主人公のクラスメイトの一員、というような役どころの千帆を、洋文は幾度か見たことがある。洋文が大学を卒業し、食品会社に就職するころには、しかし雑誌にもテレビにも、千帆の姿は見られなくなった。ちーちゃんは映画の勉強をしにニューヨークにいったらしいと、母親から聞いたのは、洋文が菊子と結婚する直前だった。そして菊子と離婚した年の正月、千帆は見知らぬ男を連れて祖母の家にあらわれた。ニューヨークにいったはずの千帆は、なぜかイタリアで、その男と日本食レストランをはじめると言った。千帆よりずいぶん若く見える男は、始終落ちつかない様子できょろきょろと家のなかを見まわしていた。。

「私がこの町を嫌いだったのは、山があるせいだな」
 国道の両脇に、ビデオ屋もラーメン屋もなくなり、ただ田んぼと畑が続くばかりになるころ、ぽつりと千帆が言った。
「え、何それ」
「ほら、こうしてみると、まわりを取り囲んでる山が通せんぼしているように見えない?私はどこにもいけないんじゃないかって、そんな気になっちゃうのよね」

 前を向いている千帆の視線を追うように、洋文は前方に視線を向ける。そして、言った。
「出ていったじゃない、ちーちゃんは、山を越えて知らない町に」言ってから、ちーちゃんと久しぶりに呼んだことに、急に恥ずかしさを覚える。
「出ていったのかな。わかんない。私の前には今でもときどき、この山に通せんぼされてる気がする」前方から視線を外さず、千帆は静かに言った。

 イタリアで日本料理店を開いたはずの千帆が、赤ん坊を抱いて帰国したのは、四年前の正月だった。あの無口な男と籍を入れ、レストランも開店させたが、結局うまくいかず、子どもが生まれると喧嘩ばかりになり、別れてきたのだと、やけにさばさばと千帆は語った。しばらく祖母の家に住み、いくつかアルバイトをしていたが、赤ん坊が一歳になるより前にまたいなくなった。フラを習いにハワイにいったと母からの電話で洋文は知った。その後、千帆は一年に一度は祖母の家に帰ってくるようになった。そのたび居住地が違った。バリ島でアーティストの助手をしていることもあれば、上海の日本人相手のバーで働いていることもあった。去年会ったときは、千帆はオーストラリアに住んでいた。日本人向けの情報誌を作る事務所で働いているのだと言っていた。

 母や千帆の母親、もう九十歳に近い祖母は、そんな千帆に呆れていた。母親になってまでふらふらしていると声高に非難した。けれど洋文は、いつもどこかで千帆がうらやましかった。言葉の違いも習慣の違いも軽々と超える千帆の身軽さは、十代のときと同じく羨望に値した。洋文が八歳のとき、十三歳のとき、十六歳のとき、いつもそうだったように、千帆は今でも、洋文にとってはかなわない相手だった。「ひとりで勝手に決める」と、かつて菊子は洋文を責めたが、自分のその性癖は、あまりにもこの従姉妹を見ていたからではないかと洋文は思っている。なんでも自分で決めて、決めた方向にたったひとりで足を踏み出す従姉妹を、洋文はずっとかっこいいと思っていた。今も。

「今日の夕飯はおばあちゃんちだって。このままおばあちゃんちにいっていい?」

 洋文はうなずく。やがて自分の家が見えてくる。車は洋文の家の前を過ぎ、そのまま祖母の家を目指す。千帆の運転する車は、祖母の家の開いたままの門を入り、広々とした庭を少し進んで停車する。シートベルトを外し、後部座席に置いた荷物を洋文がまとめていると、エンジンを切った千帆は先に車を降りて、祖母の家の玄関に小走りに向かう。

 あのとき、二歳年上の千帆に恋をしていたとき、彼女といとこどうしであるという現実を、洋文は強く恨んでいた。クラスメイトであれば、喫茶店の店員と客であれば、同じ時刻のバスを使うだれかであれば、自分の気持ちは堂々と恋という名称を得ただろうと、十代の洋文は考えていた。けれど今、千帆に対する気持ちが恋ではないとはっきりと知っている今、千帆という風変わりな女といとこであることに、洋文は深い安堵を感じる。この先千帆が、あるいは自分が、連なる山を軽々と超えてどこか、とんでもない遠くにいってしまったとしても、いつか必ず自分たちは近しい場所に戻ってきて、こうして顔を合わすのだ。通せんぼしているのは、山の稜線ではない、もっとやわらかくてあたたかい何かだ。洋文はそんなふうに思う。

 ヒロくん帰ってきたよー、と威勢よく言いながら祖母の家に入っていく千帆のあとを、両手に荷物を抱えて洋文はついていく。開け放たれた引き戸をくぐると、煮物の甘辛いにおいが洋文の鼻先をかすめた。なんだか泣きたくなるような、やけになつかしいにおいだった。

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2007年 06月 01日 明日、どこかで出会う |



2007年5月 4日 (金)

第7話 私たちの近況

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角田光代

 鍋岡洋文との待ち合わせはデパートの入り口だった。七時より少し前に菊子が着くと、洋文はすでにきていて、ぼんやりとショーウィンドウを見上げていた。 背後に近づき、おまたせ、と声をかけると、洋文は驚くこともなく「おう」と短く言い、早くも歩きはじめる。さっさとデパートのなかに入っていく洋文に、苦 笑しながら菊子はついていく。この男はいつもそうなのだ。次どうするかと相手に訊かないまま、ひとり勝手に動き出す。

 デパートに入った洋文は、菊子をふりかえることもなく、アクセサリー売場のショーウィンドウをのぞく。菊子が隣に並ぶと、「三万円以下」と、ぼそりと言った。

 「何、それ」菊子は洋文に訊く。
 「誕生日だろ、来週」洋文はショーウィンドウに目を落としたまま言う。
 「あっ、忘れてた。なあに、プレゼント買ってくれるの」
 「うん、三万円以下でな」

 菊子は笑いをこらえ、ガラスの下できらきらと光るアクセサリーを眺めた。シルバーのシンプルなピアスからはみ出た値札をちらりと確認し、じゃこれ、と言う。

 「はやいな、あいかわらず」洋文は感心したように言い、店員を呼び、これください、と子どもが駄菓子を買うようにつぶやいている。
 「めし、この上でいいか」
 店員から渡されたちいさな紙袋を提げ、菊子の答えを待たずに洋文はエスカレーター乗り場に向かって歩きはじめている。

 洋文は、菊子が最初に結婚した男だった。菊子が二十三歳で、洋文は二十六歳だった。学生時代からのつきあいで、そのつきあいがマンネリ化しはじめたころ、菊子が提案して籍を入れたのだった。いろんな意味で若かった、と菊子は思う。結婚は好きという気持ちだけで成り立っていると思っていたし、入籍という変化が自分たちの関係をよくしてくれると、単純に信じていたのだから。

 洋文との結婚は二年で終わった。洋文の、ひとりで勝手にものごとを進めていくところが菊子には我慢がならなかった。当然洋文だって、私のいろんなところに我慢ならなかっただろう、と菊子は思う。二年間、ほとんど喧嘩ばかりしていた。郊外の町の分譲マンションを、なんの相談もせず洋文が契約してしまったとき、菊子は結婚したときと同じように、自分から離婚を提案した。

 洋文はその分譲マンションに、今もひとりで住んでいる。そうして今は実家住まいの菊子は、結婚前の自分たちはマンネリだったのではなくて、単に相性が悪かったのだと理解している。恋愛の相性ではない、生活の相性が。そして自分は、よりによって最悪の解決策を選んだ。結婚。

 デパートの上階にはレストランが並んでいる。「寿司はちょっとな」「イタリア料理は行列か」「懐石は大げさだしな」独り言を言いながら、洋文はすたすたと歩く。鰻でいいか、と菊子にではなく、自身に訊くようにつぶやいて、洋文はすっと鰻屋ののれんをくぐった。

 鰻屋は空いていた。菊子と洋文は向き合って座り、メニュウを広げる。ビールと、あと肝焼き、うざくとう巻き。洋文はさっさと注文をすませてしまう。以前なら我慢ならなかった洋文のそういうところが、別れてしまえばそう気にはならないのが、菊子には不思議である。

 「まあ、いろいろあるよ人生には」ビールを一口飲んで、いきなり洋文はそんなことを言う。ああ、離婚のことを言っているのかと気づくのに、しばらくかかった。「何ごとも経験だしさ。経験はゆたかなほうがぜったいにいいんだしさ」なぐさめてくれているらしい、と、続けて気づく。菊子は笑いをこらえる。昔から、洋文はなぐさめるのが下手だった。とんちんかんなことばかり言い、これも以前は喧嘩の種になった。

 「そっちはどうなのよ、うまくいきかけた子と、どうなったの」菊子は話題を変える。
 「ああ、だめだったな、なんか」
 「え、なんでよ。なんでだめだったのよ」
 「そんなの、向こうに訊いてくれよ。おれ、もうぜんぜんわかんないよ、女心とかそういうの」
 「なんでもひとりで決めちゃうからだよ。なんにする?とか、どうする?とか、どこいく?とか、相手にちゃんと訊かないとだめなんだよ」
 「そうなんだよなあ、頭ではわかってんのに、つい面倒になって決めちゃうんだよなあ。だって、何食べる?寿司?すき焼き?イタリアン?タイ料理?とか、そんなこと言い合って三十分もたっちゃうの、馬鹿らしくってさ」

 わかってるのか、頭では。菊子はちょっと驚いて洋文を見る。ま、少しは成長したんだろうな、私も洋文も。そんなことを思う。料理が運ばれてきて、菊子と洋文は口を閉ざし、しばし集中して箸を動かした。

 離婚して、なんとなく会うようになった。半年に一度か二度、どちらからとなく連絡をしあい、食事をし、近況を言い合うだけである。別れた後悔も、相手への未練もない。友だちと無邪気に呼ぶにはかすかな抵抗があり、けれどまったくの他人かといえばそんなこともない。

 「私たちみたいなの、なんていうんだろうね」う巻き卵を箸でつまみあげ、ぽつりと菊子は言った。え、と洋文は菊子を正面から見据える。「恋人でもないし友だちでもないし、こういう関係をなんて呼ぶのかなあと思って」

 「元夫婦だろ」真顔で洋文が言うので、菊子は笑いだす。
 「なんだよ、なんで笑うんだよ」
 「だって、それじゃあそのままじゃん」箸の先からう巻き卵がぽとりと落ちる。

 勝手なところもわがままなところも、強引なところも弱気なところも、自信過剰なところも傷つきやすいところも、先走るところも独り相撲をとってしまうことも、みんなもう知っていて、そして許している。まじめなところもやさしいところも、正義感の強いところも涙もろいところも、律義なところも義理堅いところも、それらもやっぱり知っていて、けれど美点が欠点をカバーし尽くさないことも知っていて、それでもその全部を認めている。こういう関係を、なんというのかな。菊子は考える。洋文が店員を呼び止め、鰻丼をふたつ注文する。注文してから、あわてて菊子に向きなおり、「食うよな?」と、確認するように訊く。

 「うん、食うよ」菊子は笑って答え、そしてなぜか、子どものころのことを思い出す。子どものころ父と母に連れられていった、デパートの最上階にあるだだっ広く素っ気ない食堂のことを。テーブルには白いクロス、どの席も家族で埋まり、窓から白い陽がさしこんでテーブルを照らしていた。わんわんと喧噪が渦巻き、あちこちで赤ん坊の泣き声が響き、無愛想な店員がせわしなくフロアを行き来し、父はビールを飲み、母は料理がまずいと愚痴り、そして目の前には旗の立ったお子さまランチがあった。そんな遠い昔の日を、なぜか菊子はくっきりと思いだす。

 「あ、これ、忘れないうちに渡しておく」洋文が思いだしたように紙袋を差し出す。
 「年をとるのも、いいもんだね」
 菊子は紙袋を受け取ってつぶやいた。年をとらなければ、こんなふうに名づけようのない関係を、自分たちは手に入れることができなかったろうと菊子は思う。洋文はそれには答えず、なぜか照れたような顔をして、ジョッキのビールを飲み干した。

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2007年 05月 04日 明日、どこかで出会う |



2007年4月 6日 (金)

第6話 健やかな桜

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角田光代

 お花見しようよ、と村上菊子から電話がかかってきたのは日曜日の昼で、岩本望はちょうど桜を見上げて煙草を吸っているところだった。いつよ、と訊くと、今日、と言う。あいかわらず、誘いかたが小学生なみだな、と望は心のなかで呆れる。

「今日おれ、仕事」
「岩本酒店、年中無休になったの?」
「違うよ、博物館のほう」
「ああ」菊子はどうでもよさそうに相づちを打ち、「じゃあちょうどいいじゃない。上野でしょ?そっちいくよ。何時に終わる?」と畳みかけるように言う。

 四時、と答えると、了解、それだけ言って菊子は電話を切った。四時にどこで待ち合わせるんだよ。かけなおそうかと思ったが、それも面倒で、望は煙草を灰皿に落とし、黄色いジャンパーを羽織って博物館へと向かう。

 博物館のボランティアをはじめてから、周囲の見る目が変わった。両親や姉夫婦、友人たちの。博物館で知り合った年若い友人、真田春香は「岩本さんって、なんかえらい。かっこいい」と、いっしょに飲んだときに言っていた。両親や友人はまさか「えらい。かっこいい」とは思ってはいないだろうが、でも、きちんとしようという意思はあるらしいと、認めてはくれているようだ。ボランティアという言葉には、人にそう思わせる威力があるんだなと望は思う。

 四時に仕事を終えて裏口から出ると、菊子が立っていた。望を見つけ、子どもみたいに大きく手をふる。三十をとうに過ぎたというのに、菊子はデニムのミニスカートに、どくろマークの入ったトレーナーという出で立ちだ。菊子とは小学生のときからの腐れ縁だ。高校からは別になったが、なぜか友だちづきあいが途切れることはない。菊子はいつだって唐突に「今日ひま?」と連絡をよこす。

 上野公園の道という道は、花見客のビニールシートで埋まっていた。静かに談笑しているグループもあり、まだ夕方だというのに早々に酔っぱらい大騒ぎをしているグループもある。ビニールシートに狭められた通路は、まるで正月の境内みたいに行列ができ、そろそろと進むしかない。望は早くも混雑にうんざりしたが、菊子は片手に缶ビール、片手に焼き鳥の串を持って、きれいだね、きれいだねと明るい声でくりかえしている。何かあったな、と望は悟る。菊子が不自然なくらい明るく振る舞うのは、何かよくないことが起きたときだ。

「なんかあった?」缶ビールを一口すすって望が訊くと、
「離婚ちまちた」お茶らけた口調で菊子は言って、笑った。
「えっ、また?」
「また?はないでしょうに、また?は」菊子は思いきり望の背中を叩く。
「こんなところで言うなよ、そういうことをさあ」望は呆れて言うが、菊子は高らかに笑う。

 菊子は惚れやすい。小学生のときからだ。だれかを好きになると猪のように突っ込んでいく。好きという気持ちだけを武器にまっしぐらに進むのだ。うまくいくこともあるが、たいていは玉砕する。あるいは、うまくいってもすぐにだめになる。いい加減、押すだけではだめだし、好きという気持ちだけで関係をなめらかにすることはできないのだと学習すればいいのに、菊子は小学生のころから変わらない。へらへらと望に事後報告をしにくるところも。
「三度目だっけ」二度目だと知っていて、望はわざと訊く。離婚は二回、同棲解消が一回、ふられたのは数知れず。望は自分のことのようにおぼえてしまっている。

「嫌なこと言うなあ、二度目だよ」
「じゃあ今、実家に戻ってるの?」たしか二年前、菊子は年下の男と結婚して武蔵野市だか三鷹市だかに引っ越したはずだった。
「そう。先週荷物ぜんぶ引き上げたんだけど、毎日親に嫌み言われて縮こまってる」

 花見客の人混みは途切れることがない。ゆっくりと陽が沈んでいく。通路に沿って立てられた提灯に明かりが灯る。きれいだねえ、と、菊子は頭上を見上げもう一度くりかえす。ぞろぞろ続く人の波のなか、望も空を見上げる。淡い群青の空を隠すように、桜の花が咲き誇っている。

 望が博物館のボランティアをはじめたのは、二十代の終わりに、どうしようもなく好きだった女性に「あなたって退屈」と言われたからだった。大学を出て、そのまま就職せずにアルバイトをして、なんとなく嫌になってアルバイトをやめ、成り行きで家業の酒屋を手伝うようになった。たぶんこのままいけば、自分があの店を継ぐんだろうと望は考えている。その女性に言われなくたって、自分が退屈に覆われていることくらいわかっていた。「なんとなく」とか「成り行きで」ではなく、自分の意思で何かやろうと思ったものの、何をしていいのかまったくわからず、その女性とたった一度デートした上野の博物館でボランティアを募集していることを知り、失恋から立ちなおるために応募したのだった。親や友人が言うように「やっときちんとしようとした」わけでもないし、春香が言うように「えらい」ことをしているつもりもない。退屈から逃げたかっただけだった。

 実際、ボランティアをはじめてみれば、パチンコにいったり寝転がって漫画を読んだり、ぼうっと好きだった人のことを考えたりする時間は格段に減り、なんだか自分は多忙な人間であるように錯覚することもある。人生に目的を持ち、日々充実して過ごしている、年齢にふさわしい大人であるように。

「桜って律義よねえ、毎年毎年きちんと咲いて。毎年見てるのに、それでもはじめて見たように浮かれて騒ぐ私たちも律義といえば律義だけど」
 あふれかえるゴミ箱に焼き鳥の串を捨て、花を見上げて菊子が言う。
「何度失敗しても果敢に恋をするおまえも律義だけどな」冗談めかして言うと、
「でしょ?私って、健やかな人生を歩んでいるよね」菊子は真顔で返す。

「それ、自画自賛かよ」望は呆れて笑い、笑いながら思う。たしかに、何度の玉砕、何度の失敗にもめげず、それでも果敢に恋をしていく菊子は、じつにまっとうに健やかなのかもしれない。なんだかんだ言いながらこの女友だちと縁が切れないのは、そのまっとうな健やかさに、おれが憧れているからかもしれない。菊子と話していると、親や友人が言うのとはまったくちがう意味でおれももっと「ちゃんと」しよう、と思えるからかもしれない。その「ちゃんと」というのはたぶん、見慣れた桜を、はじめて見たもののように、心の底から驚き、きれいだとため息をつくみたいなことなのだと望は思う。

「あ、屋台が出てる。たこ焼き買ってくる」人の波をぬうようにして、菊子は先へと走っていく。その後ろ姿は、ランドセルを背負いまっしぐらに走る、ちいさな子どものそれに重なる。

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2007年 04月 06日 明日、どこかで出会う |



2007年3月 2日 (金)

第5話 夕暮れのティラノサウルス

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角田光代

 宇宙飛行士になるはずだった。無理だったらば、ピアニストになるはずだった。それも無理だったらば、ケーキ職人になるはずだった。それもやっぱり無理 だったら、ローマに住んで日本人ガイドをするはずだった。それもまた無理だったら、図書館司書になるはずだった。それも無理だったらば、漫画編集者になっ てがんがん売れる漫画を売り出していくはずだった。

 以上、それぞれ順番に、幼稚園生、小学校二年生、小学校六年生、中学二年生、高校一年生、高校三年生のときに、真田春香が思い描いた将来だった。
 思い描いた将来の、最終形態は漫画編集者で、そのために私大文学部に進んだわけだから、漫画編集者になっていてもおかしくはなさそうなのに、なんで私は今、定食屋で配膳をしているのだろうと、ふと不思議になることが、月に一度くらいある。不満なのではない。後悔でもない。就職活動をしないことも、学生時代からのアルバイトを続けることも、全部自分で決めたことなのだと春香はちゃんと覚えている。
 ただ、不思議なだけなのだ。あれほど将来の希望があって、そのどれも、今この手のなかにはない、ということが。もちろん、宇宙飛行士にもケーキ職人にも漫画編集者にも、今はなりたくないわけだが、いったいどこで自分は、思い描いた将来をことごとく落としてきてしまったのか、不思議に思うのである。
 春香の働く十和田屋には、早番と遅番があり、春香は八割がた早番を希望する。店には早朝六時にいかなければならないが、昼過ぎには仕事は終わる。午前中よりも午後のほうが、有意義に時間を使えるような気が、春香にはするのだった。
 そして今日は、「なぜ」の日だった。なんで私は今ここにいるんだろう、どうして何にもなっていないんだろう、何をやりたいのか、なぜわからないんだろう。そんなことばかり考えながらも、注文を間違えることもないし、お釣りを間違えることもなく、ありがとうございましたと笑顔を作ることができる。そんなこともまた、不思議だった。
 賄いの昼ご飯を食べ、一時少し前に十和田屋を出て、春香は電車を乗り換え上野に向かう。上野駅の公園口改札を出、そのまままっすぐ博物館を目指す。美術館にはいつも列ができているが、平日の昼間、博物館が混んでいることはない。春香は迷うことなく地下へと降りる。
 地下一階には、恐竜がひっそりと並んでいる。「なぜ」が心のなかで渦巻きを描く日、春香はきまってここにくる。馬鹿でかすぎてどこか滑稽な恐竜の骨格を、飽きることなく眺めてまわる。
 間抜けな始祖鳥、弱っちそうなアパトサウルス、泣き出しそうなヒバクロサウルス。春香がいちばん好きなのは、大きく口を開いたティラノサウルス・レックスだ。こいつ、六トンもの体をどうやって運んでいたんだろうな。春香はティラノサウルスを見上げて思う。いやになんなかったかな、馬鹿でかい自分のことが。おれ、こんなところで何してんのかなって、考えたりしなかったかな。広いフロアはしんと静まり返り、恐竜たちは、止まった時間のなかでどこか遠くを見つめている。
 気がつけば、二時間近くも恐竜たちを眺めていた。春香は名残惜しそうにティラノサウルスを振り返りつつ、フロアを出る。地球館を出たところで、岩本望にばったり会った。
「ああ、またきてたの」岩本望は笑顔を見せる。
「こんちは」春香も笑顔を作ろうと思うが、ついぶっきらぼうに言ってしまう。
「帰るところ?」
「うん。岩本さんはまだ仕事?」
「さっききたばっかだから、もうちょっとかかるな」
「そっか、がんばってね。またね」と春香は手をふった。
「ああ、それじゃあまた」制服の、黄色いパーカを着た岩本望も手をふりかえし、後ろ姿を見せる。それを見送って、春香は出口に向かって走り出す。
 岩本望は、この博物館で教育ボランティアをやっている。博物館に足を運ぶうち顔見知りになり、言葉を交わすようになった。幾度か、いっしょに夕食を食べにいったことがある。春香より五歳年上の岩本望の本業は、酒屋の従業員である。小川町にある実家の店を手伝っているらしい。「でも、それだけじゃ、なんかこう、足りない気がして」、博物館のボランティアをはじめたと、いつだったか、いっしょにいった飲み屋で聞いた。子どもたちの館内ツアーを引率したり、案内係としてフロアに立ったり、あとは裏方の雑用をするのが、ボランティア員たちのおもな仕事だ。それをはじめたら「なんかこう、足りない」感じはなくなったかと春香が訊くと、「なくなった」と望は即答した。そのボランティアの仕事が好きというよりも、「ひまじゃないのがいいんだろうな、結局」と望はつけ足して、笑った。
 おもてに出ると、まだ昼間のように明るかった。温度がずいぶんやわらかくなっている。もうすぐいっせいにつぼみをつけるんだろう、と桜の木を見上げて春香は思う。動物園の閉館を告げるアナウンスが聞こえてくる。
 岩本望は、春香にとってあこがれの対象だった。大きな何かをやっているわけではない、立派な肩書きを持っているわけでもない、金まわりだってあんまりよさそうには見えない、でも、自分のやり方で足りない部分を補う望は、やりたいことの未だわからない春香にとって、子どものころ見たテレビのヒーローほどにかっこよく思えるのだった。
 十和田亭によくくるタクシー運転手の野崎洋輔も、春香にとって似たような存在だった。なんだかかっこいい。そんなふうに思う自分を、春香は不思議に思う。ピアニストやケーキ職人に憧れていたころには、彼らがヒーローだなんてぜったいに思わなかっただろう。派手でもなく、目立つこともなく、とくべつなことをしているわけでもない大人を、かっこいいなんて思いつくこともなかっただろう。
 上野駅はあいかわらず人で混雑している。券売機の列に並び、春香は小銭を用意する。アパートの最寄り駅までの切符を買って、自動改札に向かう。改札をくぐったところで何気なくふりかえると、先ほどよりも陽は傾いて、町は薄い金色に染まっていた。
 派手でもなく目立つこともなく、ただ自分の日々を自分の足で歩いている大人を、かっこいいと思えるようになっただけ、私は成長したのかな。春香はふいに、そんなことを思う。横断歩道の向こうに立つ桜の裸木が、いっせいに花を咲かせ、その向こうを、ティラノサウルスが一歩一歩、面倒そうに巨体を持ち上げ、どこかを目指して歩いていく――そんな光景が、春香の目に静かに浮かんだ。

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2007年 03月 02日 明日、どこかで出会う |



2007年2月 2日 (金)

第4話 片隅の戦友

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角田光代

 営業所に車を戻したのが午前七時。空を覆っていた濃紺がだいぶ薄まっている。東の空が橙色に染まっている。もうじきビルの後ろから、太陽が姿をあらわす だろう。すでに輪郭を光らせている高層ビル群を見遣って、野崎洋輔は営業所裏の路地を歩く。まだほの暗い路地に、定食屋の看板が白く光を放っている。

 十和田屋。この時間に空いている定食屋は、このあたりでは十和田屋だけだ。
 こざっぱりと白いのれんをくぐり、引き戸を開ける。作業着姿の数人がぽつぽつとテーブルについて無言で食事をしている。洋輔はいつもの席――壁際の二人用テーブルにつき、隣の空きテーブルにのっている朝刊に手をのばす。
「朝定でいい?」三角巾をかぶった真田春香がカウンターからあらわれて、訊く。
「うん、おひたしつけてくれる?」洋輔は新聞をめくりながら答え、朝定におひたしィ、と厨房に向かって言う春香の声を訊く。春香は注文をしても奥には引っこまず、洋輔のテーブルを布巾で吹きながら、訊く。
「野崎さん、お正月、実家に帰ったの」
「年が明けてからだけど、帰ったよ。寝正月。春香ちゃんは?お年玉、まだもらってるわけ?」
「やーだ、この年でもらうわけないじゃん。それに、いちいち帰ったりしないよ」
「なんでよ。たまには帰らないと、ご両親だってさみしいだろうに」
 春香は何か言いかけたが、作業着姿の男が立ち上がるのを見て、お勘定をしにレジへと向かった。ありがとうございましたァ、と陽気な声が店内に響く。

 それまで勤めていた工場が、不景気のあおりを食らって閉鎖され、再就職先を見つけられず、東京に出てきたのは五年前、洋輔が三十二歳のときだった。大学の時分は都内に下宿していたから、右も左もわからないというわけではなかったが、しかし十八歳で上京したときより数段心細かった。職を失ったショックも消えず、妻と子どもとは離ればなれで、しかも東京は、十年前とはだいぶ様変わりして、知らない町のようだった。タクシー会社に職を得て一安心したのもつかの間、東京の地理をまったく知らないわけではないと思っていたが、学生のころ足で歩いた東京と、他人を乗せて車で走る東京は、国が違うのかと思うくらい違った。銀座の和光ならわかるがガスホールまでと言われてもとっさにはわからない。また場所がわかっても一方通行をどのように進めば早くそこにたどり着くのかわからない。世田谷区のこまこました一角から、抜け出せなくなったこともある。客に怒鳴られ呆れられることは日常茶飯事だった。遠方を目指す客の口にする地名がわからず、「いいや、わかんないなら」と別のタクシーに乗られたときは、悔しいのを通り越して情けなくて泣きたくなった。二日続けて休みがあれば、すっ飛んで長野の自宅に帰りたいのをこらえ、下宿先のアパートで、都内の地図を眺めて過ごした。

 営業所の裏手にある十和田屋には、そのころからよくきた。先輩運転手に教わった店だが、学生のころによくいった定食屋のようでくつろげた。値段は安いし味も悪くなく、朝の六時から夜は十一時までやっているから、深夜走ったあとに朝食を食べ、一日休み、その日の夕食をとりにわざわざきたこともある。そのころから真田春香は十和田屋でアルバイトをしていた。当時は二十歳の大学生で、二年前上京してきたばかりだという春香は、注文を間違えたり食器を落としたり、失敗ばかりしていて、そんな様子を横目で見ながら洋輔は、春香に自分を重ね合わせていた。
 春香が店主に叱られていると自分もしゅんとしたし、春香が注文の品をテーブルに運ぶときは落とすんじゃないかとひやひやした。叱られた春香が無愛想に接客しているといらいらしたし、いらっしゃませと春香が笑顔を見せるとき、自分の口元も自然にゆるんだ。
 そうして気がつけば、定食屋で春香の姿を見るのが日課になっていた。仕事を終えたらあそこで飯を食おうと思えば、深夜の仕事も苦にならなかった。失敗が重なり落ちこんだときは、無意識に春香のことを思いだしていた。そうすると不思議と、がんばろうと思えるのだった。

 一度だけ、洋輔は春香とデートをしたことがある。自分と同じように春香も仕事にだいぶ慣れ、ときどきは会話も交わすようになっていた。春香が大学を卒業するというので、お祝いにと映画に誘ったのだった。銀座でロードショーを見て、そのあとどうしようか洋輔が迷っていると、「新橋に安くておいしい串揚げ屋がある」と、春香が先に歩きだした。東京の町を、人波を器用に避けて歩く春香の後ろ姿を、頼もしいような、照れくさいような気持ちで洋輔は眺めた。

「おまちどおさま」春香が朝定食ののった盆を運んでくる。「野崎さん、また静岡までいってきたんじゃないの」にやにや笑いで言う。
 いつだったか、相模原までの客を乗せたものの、客が寝入ってしまい、高速の降り口がわからず静岡までいってしまったことを、春香におもしろおかしく話したことがある。ずいぶん落ちこんでいたのだが、そうして話してしまえば、本当に笑い話に思えた。春香はいつまでも覚えていて、こうしてときどき、それをネタにして洋輔をからかう。
「ベテラン運転手のおれが、そんなことするはずないだろ。春香ちゃんこそ、今日はまだ皿割ってないの」
 あはは、と陽気な笑い声をたて、春香は空いたテーブルの食器を片づけはじめる。大学を卒業しても春香はまだ十和田屋でアルバイトをしている。本当にやりたいことを見つけるまでバイト暮らしを続けるのだと聞いたのは、春香が連れていってくれた串揚げ屋だった。
 重ねた食器を厨房に運ぶ春香を見、また映画に誘ってみようかなと洋輔は考える。春香に対する気持ちが、妻に対してやましいものでないことを、洋輔は自覚している。きょうだいというか、親子というか、いや、なんていうかもっと――そう、戦友みたいな感じなんだよな。ぴったりとおさまる言葉を見つけられたことにほっとして、洋輔は割り箸を割る。
 映画を見終わったら今度はおれが、どこかおいしい店に案内してやろう。洋輔はひとりうなずいて食事をはじめる。あのときの春香みたいに、込み入った都会の路地を、颯爽と歩いてさ。

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2007年 02月 02日 明日、どこかで出会う |



2007年1月 5日 (金)

第3話 この道の先に

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角田光代

 病院を出たところで、ときおりそれはやってくる。バス停に続くスロープを歩くうち、田中和代の足は重くなる。JR駅に向かうバスはすでに停まっているが、和代はその重苦しい気分に負けて、ベンチに腰を下ろしてしまう。
 おもては晴れているし、目の前の大木はクリスマスツリーよろしく飾りたてられている。義母の骨折はだいぶよくなっていて、医師の話では、お正月には一時 帰宅できるらしい。社会人入試で入った大学は冬休みで、宿題にあわてふためくこともない。明るい気分になってしかるべきなのに、今日もまた、病院を出たと ころで、和代は泣き出したいような気分になった。

 こんなはずじゃなかった。病院を出ると、ときおり和代はそんな気分に襲われる。私、こんなふうになるために成長したのじゃなかった。帰りの遅い夫を待ち、子どものアレルギーを心配し、入院した義母の面倒を見るために大人になんかなったわけじゃなかった。厄介ごとが自分ひとりに押しつけられているような、そうしてその自分はだれも彼もと切り離されて、徹底的にひとりぼっちであるような気分に、いつもなる。その重苦しい気分に、歩くこともバスに乗ることも億劫になる。
 バスが発車する。車椅子に乗った若い男が、喫煙所で煙草を吸っている。彼の右足のギプスには、友人たちが描いたのだろう、色鮮やかな落描きがしてある。和代は、洗濯物の入った紙袋を抱えて立ち上がり、バス停の先にあるタクシー乗り場にとぼとぼと向かった。
 タクシーに乗り、JR駅を告げる。タクシーは走り出す。和代は窓に額をはりつけて、じっと窓の外を眺めた。冬の陽射しが、建物も道路も、きらきらと光らせている。
 本当はそんなにつらいわけじゃない。二カ月もたてば夫の帰りは今よりははやくなるし、そのころには義母も退院するだろう、慎重にアレルギー対策をたててくれる幼稚園だって見つかったのだ。そして自分は、念願かなって大学に通っている。「こんなはずじゃなかった」と思うほどには、ひどい場所にきてしまったわけじゃない。そう考えて気分をもりたてようとするが、なぜか、鼻の奥がつんとする。鼻をすすると、右目からそろりと涙が落ちた。和代はあわててティッシュを出し、涙をごしごしと拭いて鼻をかむ。
「あちゃあ、バス通りはずいぶん混んでるな。お客さん、ちょっとくねくね道走るけど、いいですか」今まで黙っていた運転手が、ふいに声を出した。ええ、と和代がちいさく答えると、タクシーは大通りをそれて、住宅街の細い道を走る。
「お客さん、これ、よかったら食べて」器用にハンドルをさばきながら、運転手はダッシュボードから飴玉の袋を出し、中身をつかんだ左手を肩越しに伸ばす。和代が手を差し出すと、運転手の手からばらばらと飴玉が落ちた。
「こういう道はナビは教えてくれないんですよ。ナビをつけてる人、けっこういるけど、善かれ悪しかれですよ。ナビは正確だけど、大通りが混んじゃえば巻きこまれるしかないですからね。応用がきかないんだな、機械は」急に運転手はべらべらと話し出す。「私もタクシーはじめたころは東京の道なんかわかんなくて、ずいぶんお客さんに迷惑かけましたけど、今はもうばっちりです。バスよりはやく駅についてみせますよ」
 あ、そうか。不自然なほど唐突な、運転手のおしゃべりのわけに、和代は思い当たる。
 病院からタクシーに乗る客は、さまざまなんだろう。不治の病の家族を抱えて、タクシーのなかでこっそり泣く人もいるんだろう。涙を拭き鼻をかんだ私のこと、そういう人と間違えているんだ。
 明るく陽気に話し続けている運転手に、ちがうんですよ、と言ってやりたくなる。ちがうんです、夫の母が、骨折して入院しているだけなんです。お正月には帰ってくるし、二月になれば退院です。そう言って、安心させてやりたくなる。けれど和代は何も言わず、運転手のおしゃべりに耳を傾けて、手のひらに受けた飴玉を見下ろした。
「私、長野の靴工場に勤めていたんですが、倒産しましてね。ちいさな子どももいたもので、思いきってひとりだけこっちに出て、タクシーはじめたんです。出稼ぎですよ。最初は道もわからなくて、お客さんに怒られたり、クレームつけられたりで、ふがいなくて泣いた日もありましたけど、どうにかなるもんです。なんとかうまくいくもんです」
 和代は顔を上げ、フロントミラーで運転手の顔を盗み見た。まだ若い男だった。自分と同じくらいか、年下だろう。彼の耳の縁が、赤く染まっている。必死になぐさめてくれようとしているのだと、和代は理解する。
 切れ目なく続く運転手の、素っ頓狂に陽気な声は、和代をあまやかな気分にさせた。夫にやさしい言葉をかけられるより、子どもにママと呼ばれるより、ずっとずっとあまやかな気持ちになって、いつまでもその声を聞いていたいと思った。さっきの重苦しい気分が、するすると溶けて、窓の景色とともに流れていく。住宅街の細い道は空いていて、タクシーは自転車や通行人を追い越して走る。
 私のいるこの道の先に、こんなはず、があるんだよ。いつのまにか和代は思っている。その状況が幸せでもそうじゃなくても、こんなはずじゃない、をいくつも通過して、私たちはいつか、こんなはず、にたどり着くんだよ。きっと。
 住宅街のくねくね道を走り、やがてタクシーは駅に着く。飴玉をコートのポケットに入れ、料金を払う。
「あの、がんばってください、いろいろ」運転手はつぶやくように言い、後部座席のドアを閉めた。
 駅に向かう階段を上りながら、和代はふりかえって走り去るタクシーを見送る。野崎洋輔、とボードにあった運転手の名前を胸の内でつぶやく。今度、病院を出て重苦しい気分に襲われたら、彼のタクシーをさがしてみよう。そしていつか、また彼のタクシーに乗ることができたら、そのときは言おう。
 あのときはありがとう。なんとかうまくいってます。そう、言おう。
 ポケットから飴玉を出して、ひとつ口に入れると、なつかしい甘さが口じゅうに広がった。

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2007年 01月 05日 明日、どこかで出会う |



2006年12月 8日 (金)

第2話 夜の宇宙船

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角田光代

 ねえちょっと、あなた。
 学食で声をかけられ、顔を上げるとサマンサが立っていて、進藤哲太は驚きのあまりむせそうになる。なんでしょう。訊くと、
あなた、たしかマット先生の英語の授業に出ていたわよね?
 と、背をかがめテーブルに身を乗り出すようにしてサマンサは訊く。Vネックのセーターから、胸の谷間がちらりとのぞいて、またもや哲太はむせそうになる。

「出てますけど」
「ああそう、よかった。今、どこまで進んでるの?私、一カ月くらいこられなかったのよね。それで知り合いもいないじゃない?いないのよ。それで今、あれ、あの子はたしかあのクラスにいたって思ってさ。よかった、勘違いじゃなくて。ねえ、どこまで進んでる?」
 サマンサは矢継ぎ早に言って哲太の向かいの席に座る。サマンサと親しく口をきくのははじめてだが、あまりにも想像どおりで哲太はなんだかおかしくなる。サマンサはぱんぱんに膨らんだトートバッグから、教科書に使っている「若き芸術家の肖像」を取り出し、テーブルに広げようとして、そこに醤油が垂れているのにめざとく気づき、ティッシュを出してテーブルを拭いてから、哲太に向けてそのペーパーバックを開く。

 サマンサはもちろんサマンサなんて名前ではない。たしか、田中和代とかいう、平凡な名前だ。哲太と同じ、第二文学部国文学科の三年で、彼女はまったく知らないだろうが、ずいぶんと目立った存在ではある。社会人入試で入学したらしい彼女は、おそらく四十歳を過ぎている。しかしその年齢が目立つ原因ではない。ほかにも社会人入試組は大勢いる。サマンサはなんというか、たたずまいが完璧に不釣り合いなのだ、大学という場所に。あまりにも幼稚な質問を平気でしたり、しかも自分がわかるまで延々とそれを続けたり、教師のつまらないジョークに笑い転げたり、つまりサマンサには遠慮がない。そんなことはけっしてないのだが、いつも、葱や大根の葉が飛び出した買い物かごをさげて闊歩しているような、そんな印象がある。サマンサ、というあだ名は、哲太のクラスメイトがこっそりつけた。昔そういう名前の主人公が出てくる海外ドラマがあったそうだ。

「ねえあなた、それ、お夕飯?」
 教科書代わりのペーパーバックから顔を上げ、サマンサは眉を寄せ、哲太のトレイをのぞきこむ。哲太もつられて、自分の目の前にあるうどんの丼を見下ろす。
「お浸しかなんか、つけたほうがいいわよ。それだけじゃ、ビタミンもカルシウムも足りないから。奢りましょうか?お礼に」
「いや、あの、いいっす」
「いいって、いいって。今買ってきちゃうわ」
 サマンサは財布だけ持って券売機に向かう。哲太は呆気にとられたようにサマンサの後ろ姿を眺める。いいなあ、サマンサ。自分でも気づかないうちに、そんなことを思っていることに気づき、哲太は驚く。そうか、おれ、サマンサのこと、いいなあって思っているのか。
 ほうれん草のお浸しとカボチャの煮物の小鉢を持って、サマンサは戻ってくる。それを哲太の前に置くと、またもやペーパーバックに戻ってぶつぶつと独り言を言っている。「ふうん。ここまで終わってるのね。宿題はある?次にあてられるのはだれ?」顔を上げて質問する。

 なんていうか、この人には迷いがないんだよな。サマンサの質問に答えながら、哲太は分析してみる。それで、おれ、迷ってばかりいるんだよな。だからサマンサを見てると、いいなって思うんだよな。言い訳をするように、心の内で言ってみる。
「どうもありがとう。助かったわ。この一カ月、母がね、母って言ったって夫の母だから義母、義母が骨折して入院するわ、子どもが急にアレルギー出るわで、もうてんてこまいだったの。夫は年末の決算期に向けて忙しいでしょ?まあ、大学いきたいって言い出したのは私だから、文句は言っていられないんだけどね。でもやっとこられてよかった。今日からまた授業に出ますから、よろしくね」

 サマンサはあちこちにメモをしたペーパーバッグをバッグにつっこみ、立ち上がる。
「あの」哲太は思わず声をかけ、声をかけてから、何を話そうとしていたの