2008年3月28日 (金)

味に生きる



中野伸二プロデューサー

 こんなことをこの場で表明する必要はないのだが、鮨が好きだ。食べものとして大好きなのはもちろん、カウンターをはさんで親方と客が向かい合う、あの空間と時間が好きだ。

 目の前でいま自分のためにご馳走がつくられていく。そこに親方の粋な講釈が加わる。この魚はどこで獲れて、どうやって運ばれ、どの部分をどう切りつけて、どんな酢で、どんな山葵で、どんな米とこれから握るのか――期待はさらに高まる。

 やがて、目の前に輝きを帯びたそれがおかれる。や、いなや右手の三本の指でさっとつまむ。口のなかに放り込む。

 味わう。五感を駆使して、味わう。

 言葉はすぐにはいらない。とにかくまずは親方に笑顔を返す。親方からはしてやったりの笑顔が返ってくる。

 以前番組で取材したアーティスト・奈良美智さんのことばに深く思いいったことがある。

<僕は【職業】としてこの道を選んだわけではなく、【生き方】として選んだのだ>

 【労働】や【職業】ではなく、【生き方】として選んだ道には終わりがない。「ま、いいか」とか「もう、いいや」がない。自分で自分の好奇心・探究心・向上心にピリオドを打つことができない。

 そして東京・目黒にある鮨屋の親方・佐藤衛司さんも【生き方】として鮨職人を選んだひとだと思う。もっと美味いものを客に食わせられないか。ずっとそのことを考えて、魚を探し続け、漁師を探し続け、輸送法を探し続け、料理法を探し続け、米を探し続け、調味料を探し続けている。

 新潮社から出版されている『失われゆく鮨をもとめて』は、そんな親方の探し続ける旅にノンフィクション作家の一志治夫さんが2年間にわたり同行した食紀行である。

 利尻でウニを、鹿嶋で蛤を、勝浦で鮑を、能登で鰤を、築地で穴子を、伊豆で柑橘を、奥志摩で鯵を、伊勢で味噌を、宇治で和芥子を――といった具合に、全国津々浦々の漁場、漁師、卸、流通をめぐる。

 ページを捲るたびに「こりゃ、美味そうだ」と唾をのみこみながら、鮨という食の奥深さを感じる。と同時に「えーっ、もう食べられなくなっちゃうの!」と日本各地の海がいま抱える危機的状況(自然破壊、地球温暖化、乱獲、人材枯渇などなど)の深刻さを思い知らされる。これは、本当にヤバい。

 こんなヤバい状況を、カタストロフィの一歩手前でなんとか食い止めている最後の希望は、【生き方】としてその道を選んだひとたちである。【生き方】として漁師を選んだひとが、なんとか、少数だけれどどこの漁場にもいてくれる。頭が下がる。そして、そんな漁師を奮い立たせているのが、【生き方】として鮨屋を選んだひととの約束なんだとも思う。【生き方】と【生き方】がぶつかるタイマン勝負には、けっして終わりはない。そのひとたちが寿命を終えるまでは――。

 食べるのならば本物の鮨にしておきたいと、強く思う。本物の鮨に残された時間はそう多くない。なにより、ニセモノの鮨を食べることは、すなわち、ワルい奴らの片棒を担ぐことになりかねない――って、ただ自分の卑しくはった食い意地を強引に正当化しているだけか。


 さて、ひとつお知らせがあります。

 2006年1月からお届けしてきたこの『プロデューサーからの手紙』ですが、今回の手紙が最後の手紙となります。

 理由は、わたくし中野伸二が会社の人事異動にともなって、番組プロデューサーという仕事から距離をおくことになったためです。月に一度、この手紙を読んで下さっていたみなさん、本当にありがとうございました。僕が選んだ道は【職業】なのか【生き方】なのかなどと問い質すのはどうかご勘弁下さい。

 気がつけば早いもので『情熱大陸』は番組スタートから丸10年が経ちました。4月から新しいプロデューサー・井口岳洋がつくる新しい『情熱大陸』を、引き続きよろしくお願いします。

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2008年 03月 28日 プロデューサーからの手紙 |



2008年2月29日 (金)

その男、KYにつき



中野伸二プロデューサー

 こういう言葉を使うこと自体、本当はすごくイヤなのですが、近ごろ【KY】という言葉をよく耳にします。

"K"uuki-"Y"omenaiひと=【KY】。

 とかく今の世の中、【KY】は疎まれます。厭われます。避けられます。嫌われます。【KY】の烙印をおされてしまったら人生はおしまい、とは大げさでしょうが、多くのひとが周囲の空気を慎重に見極めながら自分がどう行動すべきかを決定しています。

 そして、僕もそのひとりです。

 テレビ番組の制作にあたる人間は、空気を読む能力に長けている必要があると思います。視聴者が求めているものを誰よりも敏感に察知し、すばやくかつ適確にその求めに応える番組を作れれば、その人間はきっとヒットメイカーになれるに違いない、そしてそうなった方がいい――と、思っていました。先日まで。

 先日というのは、2月3日にオンエアした『ブックデザイナー・祖父江慎篇』をプレビューした日です。『情熱大陸』の場合、担当ディレクターが編集したVTRをプロデューサーの僕が見て構成などを練り直す、このプレビューが放送までに3~4回行われます。最初のプレビューでは、編集はまだザックリとしていて、実際の放送時間の倍近くの長さで見ることがままあります。

 先日の祖父江慎篇の最初のプレビューもそうでした。

 祖父江さんは、失礼を承知でいえば典型的な【KY】でした。原稿の締め切りを守れず、担当の編集者は大晦日の夜だというのに事務所で待機するはめになっていました。新刊本の装丁の打ち合わせの席でも、表紙の裏表を逆にするというとんでもないことを思いつき製本工場の技術者を困らせていました。子供のころ友達と野球をした話をきけば、打ったとたんに三塁に走り出してみんなから怒られたとも――。筋金入りの【KY】です。

 プレビューは進行し、場面は変わっていきます。祖父江さんがロケのさなか森で遊び始めるシーンになりました。祖父江さんが小川にたたずんでいます。そして、川面に広がる波紋を見ながら、
「うにょにょ~んがいっぱいある」
と語り始めました。さらには、道に寝転がって排水溝に顔をくっつけます。
「この下には、かなりのでかいうにょにょ~んがありますよ!」
そう言うと、やおら駆け出しました。

 それを見ていて、僕は涙が出てきました。

 たしかに最初はその【KY】っぷりがおかしかったのです。笑えたのです。でも、見ている途中にはたと思ったのです。勝手に思いを巡らせたのです。

 祖父江さんはこれまでの人生の中でどれほどの闘いを強いられてきたのだろう。どれほどの迫害に立ち向かってきたのだろう。【KY】であり続けることは、ある意味、海図をもたずにひとりぼっちで航海を続けるようなものではないか。そして、そんな【KY】な人間でなければ新しい大陸など発見できないのだ、と。

 プレビューが終わったあと、なかなかディレクターへの指示の言葉が出てきませんでした。ようやく言えたのはこんなこと――

「こういうひとがちゃんと幸せでいられる世の中の方がいいよなぁ」

 その場でのプロデューサーの発言としては、かなり見当違いです。でもスタッフはみな、そんな【KY】なプロデューサーを笑ってくれました。

 泣いていたことがバレなくて良かった。

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2008年 02月 29日 プロデューサーからの手紙 |



2008年1月25日 (金)

ロング・インタビュー



中野伸二プロデューサー

 大学を卒業して以来20年近く、ずっと親元を離れて暮らしている。

 番組制作の現場では、盆も正月もあまり関係なくスケジュールが組まれる。おのずと実家に帰省する機会を逃すことも多くなる。もちろん、そういう節目とさ れる年中行事でなくとも実家に顔を出してもいいのだが、顔を出したところでとりたてて話さなければならない事案もない。そう思うと、自分のたまの休日に組 むイベントとしては、帰省の優先順位は下がっていく。実際それで、大きな問題も生じたりはしない。となると<便りのないのは良い便り>などと都合よく解釈 する。で、ますます実家から足は遠のく。

 先日、ひさしぶりに帰省することにした。便り、がきたからだ。母親の具合が悪いらしい。近く入院をするかもしれないという。電話をしてみると、母親は「心配する必要などない」という。しかし、その声はやはり心なしか元気がない。状況をちゃんと知りたいと思うのだが、うまく訊きだせない。なんと訊けばよいのか、わからないのだ。
そして思った。そもそも僕は、自分の親について何かを知ろうとしたことがなかったのではないか?

 これまで、仕事を通じて数多くのひとを取材してきた。テレビ制作者として、好奇心のおもむくまま、取材対象にインタビューを試みた。傍らにカメラがいるだけで全能感を得た気になるのであろう。ときには直截的で、ガサツな問いかけもしたりした。

 例えば――
「なぜあなたは、この仕事を選んだのか」とか。
「いままでの人生で一番辛かったことは何か」とか。
「このひとのどこに惹かれて結婚したのか」とか。

 ふだんの生活の中ではストレートすぎて口にするのが恥ずかしくなるような質問である。よくもそんなに根ほり葉ほり取材対象という<赤の他人>に訊けるものだと思う。テレビ屋根性とは恐ろしい。

 ところが、である。もっとも近しいはずの自分の親に対しては、そんなロング・インタビューはしたことがない。自分の父や母がどのように育ち、どのように出会い、どのように結婚し、どのように僕が生まれたのか。正面切って問い質したことがない。もちろん、事実関係というかコトの経緯については知ってはいる。でも、そのときどきに父や母が、ひとりの男として、女として、人間として、何を考えどう決断してきたのかなどというのは、ちゃんと訊いたことがなかった。訊こうとしたこともなかった。

 年明けすぐ、新幹線と在来線を乗り継ぎ、実家に帰った。
 母親は、元気そうだった。まがりなりにも病人と診断されているのに、おとなしく寝ておくことができない。仕事をしないと逆に体がおかしくなるらしい。日帰りするからご飯の用意はいらないと伝えておいたのに、出前の寿司をとり、大量の天ぷらを揚げていた。いまでも息子は寿司と天ぷらが好きと信じていて、いまでも息子はいつも腹をすかせていると思っているのだ。きっと。

 こういう状況というのは、あまりロング・インタビューには適さない。このままいると余計な土産まで持たされそうなので、適当に切り上げて実家をあとにした。

 やれやれである。

 いったい僕が両親をロング・インタビューするような機会はいつ来るのだろうか。そして、そんな機会は本当にあった方がいいのだろうか。よくわからない。

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2008年 01月 25日 プロデューサーからの手紙 |



2007年12月28日 (金)

漢字三文字のクセものたち



中野伸二プロデューサー

『情熱大陸』は、ひとりの人物に焦点をあてて取材する番組である。だから当然、カメラは取材相手にピントを合わせているのだが、実はそこには、取材相手と ディレクターとの人間関係というものが避けがたく映りこんでいる。そして、それこそが番組のキモであると、僕は思っている。だから同じ人物を取材しても、 ディレクターが違えば、まったく違う番組になる。

 大島新(おおしまあらた)というディレクターがいる。彼はこれまでに10本近く『情熱大陸』を担当してきた。今年でいえば、編集者の見城徹篇と作詞家の秋元康篇がそうだ。偶然にも名前が漢字3文字のお二人だが、なにより両者いずれ劣らぬ当世きってのクセもの(失礼!)である。そして、その2人を取材した大島ディレクターも、名前が漢字3文字で、しかもこれまたなかなかのクセものなのである。

 なんというか、大島ディレクターは、濃~い。誰を取材しても、あるいは『情熱大陸』以外の番組を担当しても、手がけた番組は彼のものだとすぐにわかる。必ず大島ディレクターのニオイがぷ~んと漂ってくる。

 一般的にドキュメンタリーのロケは、取材対象になるべく<自然のまま>でいてもらうのが基本である。ディレクターやカメラマンは空気のような存在となり、いつのまにか取材対象に寄り添って、そこから垣間見える、あるいは、にじみ出る素顔を引き出す――というのが常道だろう。でも、大島ディレクターはちょっと違う。もちろんそういう取材スタイルはとりつつも、いつもどこかで、取材対象に真正面からガチンコ勝負を挑む。たとえば、秋元康篇などはその典型だろう。無機質なスタジオに秋元さんを呼び込んで複数のカメラで取り囲みインタビューを試みたことに始まり、30分を通して秋元さんvs大島ディレクターという静かなバトルをドキュメントしていたといっていい。大島ディレクターは、そういう<自然のまま>ではない、不自然な状況の中で、相手の本質を描きだそうとする。料理に喩えれば、少量の塩で素材のうまみを引き出すというよりも、大島新といういささか刺激的なスパイスを効かすことで、その素材のもつ新たな味を発見しようというような感じだ。そんなスタイルで大島ディレクターが映し出すのは、取材相手の「素(す)」というよりは、「地(じ)」といったほうがいいかもしれない。

 もちろん、そんな彼のやり方には批判もある。ディレクターが自意識過剰だとか、自分の演出手法に溺れているとか、視聴者が見たいのは秋元さんの日常であってディレクターの演出プランではないとか。

 それも、また、的を射ていると思う。

 今月、大島ディレクターが初めて監督をつとめたドキュメンタリー映画が公開された。主人公は、唐十郎さん。これまた漢字3文字の名前、そして、かなりのクセものである。きっかけは、大島ディレクターが『情熱大陸』で去年、唐さんを取材したことだった。番組放送後にはディレクターとしての達成感はあったものの、一方で、「これだけではないはず」だという気持ちが湧いてきたらしい。ひとことでいえば、唐さんというひとがテレビサイズに収まらないと感じたのだ。そして、30分という時間とか、子供からお年寄りまで楽しめるようにとか、ひらたくいえば視聴率とか、そういう枠組みから離れて唐さんを描いてみたいと思ったという。撮影は去年11月に唐さんが戯曲を書き始めるところからスタートし、およそ半年間。14人の劇団唐組がひとつの芝居を作り上げるまでをしつこいほど丹念に追った取材テープは180時間におよんだという。

 映画のタイトルは『シアトリカル~唐十郎と劇団唐組の記録』。【シアトリカル】とは①演劇的な②芝居じみた、という意味。映画の内容については観てのお楽しみ、ということでここでは触れないでおくが、大島ディレクターらしい仕掛けがいくつか施されていて、このタイトルがつけられた理由と、彼のドキュメンタリーに対する考え方がよくわかる。観た後に僕は、思わず「ニヤリ」としてしまった。

 ぜひ、多くのひとに見て欲しい――
 と、友人のひとりとしてこの場を借りて宣伝させていただきました。職権乱用お許し下さい。今回は映画なので視聴率もでないし、大島ディレクターも少しは気が楽かと思いきや、観客動員数によって、上映期間が変わったりするそうです。なにとぞ皆様のあたたかいご支援をよろしくお願いします。

 余談ですが、大島ディレクターのお父様のお名前も漢字3文字です。大島渚といいます。

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2007年 12月 28日 プロデューサーからの手紙 |



2007年11月23日 (金)

ガツンをあなたに



中野伸二プロデューサー

 放送局に就職し、テレビ番組の制作の仕事に携わってきたなかで、「役得だなぁ」と自分の幸運を神様に感謝したことが何度かある。

 そんな役得のひと つが、2000年の2月、オランダでのことだ。17世紀の画家、ヨハネス・フェルメールに関する特別番組のロケだった。アムステルダム国立美術館やフェル メールが眠るデルフトなど、オランダ各地を巡りフェルメールの作品やその生涯について取材をした。そして最後に、ハーグのマウリッツハイス美術館を訪れ た。フェルメールの最高傑作ともいわれる<真珠の耳飾りの少女>に逢うためだ。交渉の結果、幸運にも僕たちは休館日に撮影することを許された。

 いまもそのときのことは、鮮やかに思い起こすことができる。

 館内にお客さんはほかに誰もいない。撮影隊もまだ外で準備をしている。窓からさしこむ朝の柔らかな陽射しに包まれながら、僕は、ひとり、<少女>を見た。

 300年のときを超えて光を放ち続ける<少女>。

 その間、何億という瞳から見つめられてきた<少女>。

 その<少女>をひとりじめにした。

 奇蹟とか永遠とかってこういうことなんだ!と、心が震えた。 一生忘れることのできない至福のときだった。

 先日『恋するフェルメール』(白水社刊)という本を読んだ。著者の有吉玉青さんが初めてフェルメールの作品を見ようと思い立ったのは90年。留学先のボストンでイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館へ出向いたが、肝心のフェルメールは不在だった。ちょうど<合奏>が盗難された直後だったのだ。以来、17年。フェルメールのものとされる36作品を見るために世界各地(ニューヨーク、ワシントン、アムステルダム、ハーグ、パリ、ウィーン、フランクフルト、ベルリン、ドレスデン、ロンドン、ダブリンほか)へ足をのばしてきた。本書はいわばその旅の記録だ。綴られているのは、決して絵画鑑賞の手引きや解説ではない。36作品それぞれに対する著者の心模様だ。出会った友人や美術館や街の風景を細やかに織り込みながら、「この日、このとき、この場所での、私とフェルメールの間柄」が描かれている。

 これは、まるで恋人に会いに行く気分ではないか? 私はそのときに初めて、自分はフェルメールに恋をしているのだ、と思った。
 (中略)
 思いきって部屋に入ると、まず、<牛乳を注ぐ女>が目に飛び込んで来た。
 わ。
 印象は、それだけだ。その絵は、固く焼き締まっているように見えたが、あとはよく見る間もなく、その塊に、ガツンとやられた感じである。
 ガツン。こんな言葉でしか、そのときの衝撃を表現できない己が情けない。私はこのときの感動を表現したくて、それから読む本の中に、人の話の中に、言葉を探してきたのかもしれない。そして、この本を書いているのかもしれない。今なお、言葉を探すために。

(『恋するフェルメール』40ページ)

 読みながら、何度となくひとり頷いた。

 こんな言い方はまことにおこがましくて、有吉さんに失礼だとも思うのだが、その感覚、本当によくわかる。

 わ。なのだ、感動というやつは。

 ガツン。としか、言いようがないのだ。

 有吉さんは作家である。作家の仕事というのはそもそも乗り越えるのがとても困難な矛盾を抱えている。だって、言葉にできないような感動を、言葉にしなければならないのだ。言葉を書きながら、言葉にできないような感動を与えなければならないのだ。とてつもない挑戦だと思う。

 では、いったいテレビはどうなのだ。

 制作者は、自分たちが現場で感じた、「わ」や「ガツン」を、どこまで視聴者に伝えることが出来ているのだろう。伝えようとしているのだろう。

 とりあえず制作者はその場面を撮影する。その場面を編集する。その場面に音楽をつける。その場面にナレーションをつける。そしてこれで<感動を伝えた>ことになっていると考えている。しかし、だ。それはただ、自分が立ち会った感動を映像と音で【説明】しただけじゃないだろうか?

『情熱大陸』の制作スタッフというのは、役得にめぐまれていると思う。なにせ、普通ではなかなか出会うことの出来ない感動を、取材を通じて日々特等席で味わえるのだ。そのことをもっとかみしめないといけない。特等席に座ったものの使命を認識しないといけない。でないと、そのうちきっと罰(ばち)があたる――。

 ん?
 はて、僕はこの手紙を、いったい誰にあてて書いているのだろう。

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2007年 11月 23日 プロデューサーからの手紙 |



2007年10月26日 (金)

Oさんの歩いた道



中野伸二プロデューサー

 ディレクターのOさんとの付き合いは、10年ほどになるだろうか。

『情熱大陸』では「GLAY・TAKURO篇」や「ヴァイオリニスト・古澤巌篇」、最近では「陸上監督・川本和久篇」など、これまでに10本以上の演出やプロデュースを手がけてもらった。

 歳は僕よりも9つ上。ゴマ塩あたまにTシャツと半ズボンがトレードマークで、「あにやん」というニックネームのとおり多くの同業者の兄貴分的な存在だ。

 なんというか、ひょうひょうと、あるいは、のほほんとしたひとである。スタッフの神経がピリピリと張りつめたロケの現場でも、アイデアに煮詰まって沈鬱なムードが漂う打ち合わせの席でも、それは変わらない。「まいっちゃったなぁ」などと言いながらも、口唇の端からは状況を楽しむように笑みがこぼれている。

 出会った頃は、そんなOさんの風情が僕にはなんともユルく映った。のん気に思えた。僕はいまよりもずっと血気盛んだったのだ。番組の編集を終えた夜に、Oさんを赤坂の飲み屋に連れ出し「ドキュメンタリーとは何か?」といった青臭い演出論を振りかざしたりした。問いただしたりもした。 

 いま考えるとかなり恥ずかしい。きっと負けたくなかったのだと思う。なにより知りたかったのだと思う。こんなOさんのどこに業界屈指の敏腕ディレクターの秘密が隠されているのかと。

 Oさんは例によって、「まいっちゃったなぁ」などと言いながら、とぼけたような笑みをうかべて飲んでいるだけだった。それでいて僕の気が済むまで朝までつきあってくれた。いなされたような、はぐらかされたような――。ここしばらくは、一緒に飲みにいくことはなかった。

 先日、Oさんの自宅に初めてお邪魔した。

 夕方、地下鉄日比谷線・北千住の駅で降り地図をたよりにマンションへと向かう。
南口から出た。小さな飲み屋が数軒に、あけすけな電飾看板の風俗店がひとつ。常磐線とつくばエクスプレス、ふたつの踏み切りをわたると昔からありそうな商店街がある。部活帰りとおぼしき中学生がうろうろし、ヤンママが子供を前後にのせてチャリンコで疾走している。

 そうかぁ、と、ふと思う。

 Oさんは毎日こんな風景の中を歩き、家と仕事場を行き来していたのか。ずいぶんと長い間、親しく付き合ってきたつもりだけど、そういうOさんの【日常】とか【生活】とかって知らないものだと、実感する。 

 マンションに着いた。とても綺麗でまだ新しいようだった。インターホンを鳴らすと、奥さんがドアをあけて迎えてくれた。話には聞いていたけれど、とても美人の奥さんだ。
「はじめまして」と挨拶すると、「よく主人からお名前は伺っておりました」と返ってきた。

 そうかぁ、と、また思う。 

 僕も、Oさんの【日常】とか【生活】のなかに少しは含まれていたのか。なんだか照れくさかった。

 Oさんに挨拶をする。ダイニングの隣、和室の部屋に敷かれた布団の上で、Oさんは静かに眠っていた。 

 そっと白い布をとり、顔を拝ませてもらう。少し口をあけて、のほほんと寝ているように見えた。僕がよく知っているOさんのままだ。どこかとぼけているみたいに安らかだった。

「突然いびきとかかくんじゃないかと、いまも思うんですよ」と奥さんが呟く。

 深夜に届いたケータイのメールを見ても、信じられなかった。二週間前に入院したのは知っていた。けれど、快方に向かっているとも聞いていた。いつお見舞いに行こうかな、などと考えていた。 

 奥さんに話をうかがいながら、Oさんと向かい合った。会話の合間に窓の外をいくつもの電車が行きかう。そのたびに、奥さんも僕も、ちょっと大きな声をだす。そのたびに、鼻の奥にある栓がぎゅっとしまる。ぎりぎりのところで、こぼれずにすんだ。
手をあわせて、別れを告げる。

「とにかく、おつかれさまでした」

 マンションを辞す。日はもう暮れている。駅へと戻る。 

 Oさんがいつも歩いていた道を、その同じ道を、いま僕も歩いている。ただそれだけのことだけれど、不思議な気持ちになる。そして不意に、この道をOさんが歩くことはもうないのだということをお前はどう受け止めるつもりだ、と誰かに問われた気がして、うろたえてしまう。

 気持ちを落ち着けようと上を向いて歩くことにする。星はまだ出ていなかった。

「まいっちゃったなぁ」と、真似してひとりごちてみた。

 Oさん。

 さっき、ケータイの発信履歴と着信履歴をスクロールして、大久保邦孝という名前を探しました。でも、やっぱり、もう残っていませんでした。

 最後に話をしたのはいつでしたっけ? 
 そのとき何の話をしましたっけ? 
 思い出せません。
 最後になるなら、話しておきたいこと、聞いておきたいこと、ちゃんとあったのに。たくさんあったのに。
 悔しいです。

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2007年 10月 26日 プロデューサーからの手紙 |



2007年9月28日 (金)

昨日、今日、明日



中野伸二プロデューサー

「最近なんか面白いことない?」

 挨拶がわりにそう問うひとがいます。けれど、実際のところ、テレビみたいに面白いことは日々の生活にはそうそうありません。今日はだいたい昨日と同じで、明日もおおむね今日と同じ。それが【日常】というものでしょう。

 『情熱大陸』はヒューマンドキュメンタリー番組です。ディレクターはそれなりの時間を取材対象のそばで過ごし、そのひとの日々を見つめます。とはいえ24時間365日べったりと監視カメラのように張り付いているわけではありません。何かイベントがあるときなどポイントを選びながら取材に出かけます。なにかコトが起きそうなときを選ぶわけです。しかし、そう頻繁にコトというのは起きません。ならばと、こちらからコトを起こすというのでは、もはやドキュメンタリー番組ではありません。

 ですから撮影するのは、基本的にはそのひとの【日常】ということになります。そこにはテレビ屋が欲しがる衝撃映像や劇的瞬間、疾風怒濤に波乱万丈はありません。もちろん幸運にもそれらをカメラに収めることができる可能性はあるにはあります。けれど、それを前提に番組を制作しようとするひとは楽観主義者というより無謀なバクチ打ちでしょう。つまり、取材現場で撮影するほとんどは、平々凡々に淡々と過ぎてゆく時間です。 

 ディレクターは不安になります。こんなテレビ的にテンションが低い、テレビ的に見せ場のない、テレビ的にユルい、そんな映像ではたしてテレビ的に面白いのか――。

 プロデューサーである私は、あえてそれでもいいと思っています。テレビ的とされるものに縛られないで欲しい。【日常】の中に、従来のテレビ的な面白さを毎週毎週追求するのは、はっきりいって無理です。無茶です。それを強迫すれば必ず破たんします。 

 さらにいえば、テレビ的に面白い番組は他にもいくつもあります。ならば『情熱大陸』はそうではなく面白いテレビでありたいのです。矛盾したような言い回しですが、テレビ的ではないけれど面白いテレビを作りたい。テレビの仕事に就こうというような人間は、たいがいが天邪鬼でひとと同じことはしたくないはずでしょ?

 では、【日常】の中に何をみれば面白いのか? ひとことでいえば、機微です。ぼんやりしていると見過ごしてしまいそうな、ささいで、ささやかなもの。その機微をディレクターはきっちりとすくい上げて欲しい。その機微の中に、これまで語られなかった新しい物語を見出して欲しい。そう思っています。

 そもそも【日常】が――昨日も今日も明日も同じであることが、つまらないと決めつけなくてもいいではありませんか。毎日がいつものようになにごともなく変わらずに過ぎてゆく。そのことを、有難いことだとしみじみ感じ入ることだって、そう悪くないのではないでしょうか。

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2007年 09月 28日 プロデューサーからの手紙 |



2007年8月24日 (金)

ディレクターKさんについて



中野伸二プロデューサー

 女性ディレクター――と、わざわざ女性という修飾語をつけると、今ではかなり保守的なオジサンあつかいされるだろう。『情熱大陸』も多くの女性がディレクターを担当している。そして、こんな言い方をすると男性陣に怒られるかもしれないが、女性は、ホント強靭である。

 Kさんというディレクターがいる。いま36歳で、どこの会社にも所属していないフリーのディレクターである。彼女は基本的になんでもひとりでやる。取材に出かけるときには自分で移動手段を手配し、自分で宿をさがし、自分で取材相手と交渉し、自分でカメラを回す。取材のあとの編集も自分ひとりでする。ディレクターとはそういうものだ、というのが彼女の持論である。

 『情熱大陸』では7月22日に放送した医師・村上智彦編を手がけたのがKさんだ。

 この取材のために、北海道・夕張へ3月から通い始めた。まだ毎日のように雪が降り積もり、朝はマイナス10度まで冷え込む鈍色のまち。クルマがなければどこにもいけない。宿から最寄りのコンビニまでは歩いて30分かかった。さらに、村上先生はいわば「時のひと」だった。財政破綻した病院を地域医療の第一人者がどうやって建て直すのか。地元の新聞・テレビを中心に大勢の取材陣がつねに周りを取り囲んでいた。そんななか、東京から小型のカメラを手にヨソモノおんながひとりで乗り込んだのである。立ち向かう困難は想像に難くない。
 でも、彼女はめげなかった。口では「寒すぎだよー!」とか「カメラがいっぱいいてぜんぜん撮れねーよ!」とか「サイアクだー!」などとブーたれてはいるが、陥っている状況を心のどこかで楽しんでいた。その逆境をバネにして、あるいはネタにして、こつこつと夕張での自分の居場所を広げていった。

 彼女の持ち味は、ことばは悪いがシツコさである。とにかくシツコいのだ。徹底的に現場主義。現場にいて、いろんなものを見ようとする。聞こうとする。知ろうとする。感じようとする。夕張のロケでも、途中からは食事に出かけるのがもどかしいと院内で病院食を買い求めるようになった。さらには寝泊りまで病院でするようになった。おかげで地元テレビ局がニュース番組で村上先生を取り上げると、その画面に幾度も彼女が映りこんでいたらしい。そのシツコさに村上先生がまず、半ば呆れながらも、ほだされた。続いて病院関係者のみなさん、やがて本来はライバルでもある同業者までもがなにかと世話を焼いてくれるようになった。

 たぶんこういうことではないだろうか、と推測する。ジャンルや立場は違うけれど、村上先生も病院関係者も同業者もKさんも、ワーカホリックはみなワーカホリック同士として、ワーカホリック同士だから、分かり合える――ワーカホリック=一生懸命。

 放送の翌日、Kさんに番組の反応をたずねた。取材でお世話になったひとたちから彼女に電話やメールで続々と感想が寄せられていた。面白かったというひともいれば、物足りなかったというひともいたという。
 そのひとつ、村上先生本人と彼女とのメールのやり取りを見せてくれた。
 (両人の了解のもと、一部を紹介させていただきます)

<村上先生からKさんへ>
 お疲れ様でした。沢山の皆さんからメールをいただきました。
 一つの作品を仕上げていくのは、大変だと思いましたが、良い物を作り上げた達成感や充実感を味わう事が出来る人は限られていると思います。本気で取り組むと、やりがいが生まれて楽しくなり、仲間が集まり、誰かに助けられて来るものだと思います。これを機会に、北海道と縁を持って下さいね。またお会いして仕事をするのを楽しみにしております。

<Kさんから村上先生へ>
 先生。いろんな人からメールや電話があって、返信遅くなってすみません。放送後すぐに名古屋で医師をやっている父から電話がありました。実は父は今まで先生の番組を全部見ていたらしいのですが、嬉しいことに、私のカメラに先生が一番打ち解けてリラックスして本音に近いことを話していた気がする、と言ってくれました。そして、私が「患者さんに対する姿勢とか、お父さんに似てると何度も撮影中に思ったよ」と言うと、「ぼくはあそこまでの信念を持ってない。彼はほんとにすごい」と言っていました。
 それからちょっと面白かったのは、父は医師法を習ったことがなく、初めてちゃんと読んだと言っていました。
 そうだったんだ・・・私ももう暗記しちゃいましたよ、第一条。

<村上先生からKさんへ>
 良かったですね。お父様によろしくお伝え下さい。
 貴女が一生懸命だから、私も取材を受けていて楽しかったですよ。貴女の仕事はきっと沢山の人に夢ややる気を起こさせますよ。多分それが貴女のエネルギーの元なのでしょう。
私もそうしていきたいです。

 取材する側とされる側の関係について、どのようなスタンスが適切かを判断するのはとても難しい。肉薄を求めてフトコロに飛び込めば馴れ合いの誘惑は増し、客観性を求めて距離をとればピントは合いづらく体温も感じられなくなる。
 だから、このようなメールを取材者と取材対象がやりとりすることについて、さらにはこうした場で紹介することについて、少なからず批判があることは承知している。

 それでも、だ。このふたりの人と人とのふれあいを、僕は「いいなぁ」と素直に思ったのだ。みなさんに知って欲しいと思ったのだ。一生懸命は、伝染するんだなぁ、と。

 Kさん。小林潤子さん。というか、コバジュン! きょうはどこの現場ですか? またシツコく取材してますか?

 CMのコピーでこんなのがありました。
「女の胸はバストといい、男の胸はハートと呼ぶ」
 でも、コバジュンの胸は絶対にハートだね。いやいや、別に深く考えなくていいから(笑)

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2007年 08月 24日 プロデューサーからの手紙 |



2007年7月20日 (金)

情熱大陸スペシャルライブへのお誘い2007



中野伸二プロデューサー

 年に一度の夏祭りの日。
 電車に乗る。
 周りを見渡す。目的地が同じだと思われるひとがたくさん乗っている。でも、みんなうつむいている。うつむいて、じっと一点を見つめている。手の中のケータ イに、打ち込んでいる。彼や、彼女の世界はその小さな液晶画面の中がすべてかのようだ。近ごろの世の中はかようにデジタルに支配され、なんとも寒々しい ――などとひとりごちてみる。

 電車を降りる。
 駅からはき出されたひとの波に流されるまま歩く。流されるまま会場に向かって歩く。
 すこしずつ音が聞こえてくる。ちょっと駆け足になる。チケットを渡して入り口を通り抜ける。ひとの波から解き放たれる。なんだか空がいっぺんに広がったような気がする。
 席に着く。ごはんを食べる。ビールを飲む。ステージが始まる。
 からだがリズムを刻む。いっしょに歌をくちずさむ。音楽が、楽しい。

 ジリジリと太陽が肌を灼いていく。降り出した雨が髪をずぶ濡れにする。まいったなぁ、と思う。まぁいいか、と思う。
 みんなはどうなんだろう、と周りを見る。隣にひとがいる。前にもひとがいる。後ろにもひとがいる。立ち上がって見渡せば、ひとがいっぱいいる。みんな前を向いている。ちょっと上を向いている。いい顔してる。
 そうそう。やっぱこういうアナログな感じでなくっちゃ。
 夜になる。ステージが終わる。帰路につく。駅へと向かうひとの波に流されるまま歩く。
 電車に乗る。
 周りを見渡す。みんなまた、うつむいている。彼も、彼女も、また液晶画面を見つめ続けている。でもその顔は、行きの電車で見たのとは全然違うように感じる。
 確かに手の中にあるのはデジタルなツールだけれど、親指で急いで込めた想いはそんじょそこらのアナログよりも、いまこの瞬間、ずっとずっと心に響くはずだ。そう思う。そして、そのメッセージを勝手に想像する。

「今日はメチャ×②楽しかった~  また誘って欲しいかもッ  ていうか来年もゼッタイ一緒に行っちゃうからねぇ

 というわけで、今年も夏祭りをやります。『情熱大陸スペシャルライブ~サマータイムボナンザ2007』。
 横浜で、大阪で、お会いできるとうれしいです。m(_ _)m

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2007年 07月 20日 プロデューサーからの手紙 |



2007年6月29日 (金)

拝啓、ナンシーさま



中野伸二プロデューサー

 この仕事をはじめてから、一度でいいから取材したいと思っていたひとがいる。そのひとは無類のテレビ好きだったにもかかわらず、ほとんどの番組出演のオファーをかたくなに断っていた。『情熱大陸』でも2001年に取材の打診をしたことがある。21世紀の最初の1年を、そして翌年の日韓ワールドカップの喧騒ぶりを、そのひとの傍で過ごすとどんな風景に見えるのだろう――そんなふうな企画意図だったのだけれど、やはり実現することはできなかった。

 もっとも、仮に取材のOKを貰ったとしても、そのひとの仕事ぶりをどう撮影するのかはかなりの難問だった。なにせほとんど一日中部屋の中でじっとしているらしいのだ。普通に取材すれば退屈な映像がながながと続くきわめて地味で静かな番組になるに違いなかった。それでも一度、ぜひ一度、お会いしてお話を伺いたかった。
 だが、その願いはもう叶わない。ナンシー関さんが亡くなって、5年がたった。

 週刊誌などに連載されていたナンシーさんのコラムをいつも楽しみにしていた。ワイドショーであれ、事件報道であれ、ドラマであれ、バラエティであれ、ドキュメンタリーであれ、ナンシーさんは、いまテレビが映し出しているものにお茶の間の人々が感じているであろう【えもいわれぬ違和感】を、的確に指摘し、鮮やかに斬ってみせた。ターゲットにされたひとからは恨みを買ったこともあっただろう。でも、おそらく、ほとんどのテレビマンはその見識と感性に拍手と喝さいを送っていたと思う。

 ナンシーさんは、高視聴率番組もそうでないものも、高尚といわれるものも低俗とされるものも、使命のあるものもないものも、みな中立的に等しい距離を持ちながら見てくれていた。そして、ただの【好き/嫌い】【古い/新しい】【有意義/無意味】ではコメントしなかった。バカバカしいテレビとお茶の間をバカにしたテレビを正確に明確に見極めていた。そして、視聴者を甘くみているテレビ番組に、「いいのかよ、それで」と容赦のない鉄槌を下した。作り手の考えが浅はかでテキトーでヌルくてユルくてさもしい番組が、ナンシーさんは我慢ならなかったのだと思う。めったにはなかったけれど、真摯な作りのテレビには、それが3分番組であっても優しいまなざしでエールを送ってくれた。だから、テレビマンの多くはナンシーさんのコラムに戦々恐々としながらも、心のどこかで自分の番組にもコメントして欲しいと思っていた。と、僕は思う。少なくとも、僕自身はそうだった。 

 いまもナンシーさんのコラムを読み返すと、おかしさでお腹がよじれる。同時に辛らつささで背筋が伸びる。

<『ドミノ倒し』「一生懸命」の自己満足(95年4月)>

 世の中、「一生懸命」とか「努力」に対して絶対的に好意的である。一生懸命を否定なんかしようもんなら袋だたきだ。しかし私は、この「一生懸命」に「努力」しただけのこの番組を否定する。なんだよこの番組。よく2時間も放送したな。不愉快ですらあったわ。

 あまりにも安易である。人間の限界を超えた過酷な条件「期間1ヵ月、ドミナー40人、目標個数200万個」っつうけど、てめえで勝手に決めたんだろうが過酷に。ま、それを言ってちゃ番組始まらないだろうから、そこは私も大人になるが。でもその自ら設定した過酷に酔っちゃってるのが気持ち悪い。

 過去のドミノ番組から逸脱することのない範囲で「過酷な条件、不測のアクシデント、襲いくる不安と絶望、傷つけ合いそして助け合う仲間、でもやるっきゃない、最後は精神力、奇跡を祈るしかないかもしれません、さあいよいよスタートです、わぁー、大成功! 感涙、人間ってすばらしい、世界記録よりも仲間が宝物です!」ちゅうシナリオがあるわけだね。不測のアクシデントだって起きてくれないと困るのである。(中略)全てがお手盛りなのである。

(『何もそこまで』 ナンシー関著 角川文庫刊 110~112ページ)

 ナンシーさん。あちらの世界でもずっとテレビをご覧になっていますか?

 この5年間、いろんなことがありました。サッカーのワールドカップは2回もありました。総理大臣も新しくなりました。ヤワラちゃんは谷でも金メダルを獲り、えなりかずきはすっかり大人になり、モリシゲさんはまだご健在でいらっしゃいます。ホリエモン、ヨンさま、騒音おばさん、アネハ建築士、ハンカチ王子――テレビの中でさまざまなキャラクターが登場し、退場していくさまを観ながら今もしょっちゅう考えます。

「ナンシーさんなら、これってどう思うんだろう?」

 とまぁ、そんなこんなの世の中です。プロデューサーのわたくしといたしましては「いいのかよ、これで」と自問自答を繰り返し、「なんだかなぁ、情熱大陸。」とナンシーさんに言われないよう頑張ってまいりたいと思います。

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何もそこまで 何もそこまで
ナンシー関

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2007年 06月 29日 プロデューサーからの手紙 |



2007年6月 8日 (金)

少年のいる風景



中野伸二プロデューサー

 僕はおそらく記憶力が悪いと思う。昔のことは、ほとんど覚えていない。担任の先生の名前とか、自分が何年何組だったとか、いま、全然思い出せない。遠足や 運動会や卒業式など「あのひととあの場所であんなことをした」というような具体的なエピソードをひとに話すことができない。

 ただ何もかもすっかり忘れているかというとそうではなくて、あの頃に抱いていた気持ちというか、「心の匂い」や「心の色合い」みたいなものは胸のどこかの引き出しにしまわれている。普段はそんな引き出しの存在すら意識していないのだけれど、何かの拍子で引き出しの把手に触れてしまうことがある。そのはずみで引き出しが少し動く。すると、中から匂いが立ちのぼってくる。色が染み出してくる。引き出しの中身を確かめなくても、もうそれだけで切なくなってしまう。

 重松清さんの新刊『小学五年生』を読んだ。17の短編からなるこの作品に、心の中にある引き出しが、そっと、揺らされた。

 主人公は、みな少年――小学五年生の男子である。17編にそれぞれ別の少年が登場し、いろんな心模様が描かれる。

 転校していった女子に再会するため同窓会を企画したり(『葉桜』)、目の手術を控えた弟に海を見せてやろうと二人乗りで自転車をとばしたり(『おとうと』)、転校先でせっかく仲良くなったともだちに前の学校のことを自慢っぽく話したら気まずくなったり(『友だちの友だち』)、水泳の授業を見学するうち女子の水着姿に反応して自分はヘンタイかもと焦ったり(『もこちん』)、お見舞いに行くのにバスの回数券を買い続ける限りお母さんは永遠に退院できないんじゃないかと不安になったり(『バスに乗って』)、年賀状をくれた女子からバレンタイン・チョコを貰ったらどうしようとひとり舞いあがったり(『どきどき』)―――と、とりたてて劇的ではないお話の数々。何かをうたい上げるでもなく、さしたるクライマックスもない。

 学級委員なんてなりたくないのに、学級委員に選ばれたい。できれば当選したあとで「俺、絶対にヤだから」と断ってみたい。
 (中略)
 人気者になりたい――のとは、違う。勝ち負けというのとも、微妙に、違う。
 ただ、どきどきする。むしゃくしゃする。胸の奥で小さな泡が湧いて、はじけて、また湧いて、はじけて……。
 俺だけなのかなあ、とつぶやいた。
 こんなこと考えてるのって、クラスで俺だけ、なんだろうか。みんなはもっと余裕で、全然楽勝で、へっちゃらで、選挙のことなんて気にしていない、のだろうか。
 こんなこと考える俺って、じつは死ぬほどヤな性格の、ヤな奴、なんだろうか。
(『正』 217~218ページ)

 読んでいて途中でおそろしくなった。このなんでもない少年たちは、みな、どれも僕自身だった。もちろん僕は転校したこともない。母が入院したこともない。17篇のエピソードは絶対に僕が体験したものではないのだけれど、間違いなく僕のことを描いている。そう思わせる。それは、少年たちの「匂い」や「色合い」を、確かに僕も持っていたからだ。そして、あれから30年もたったのに今もそれを持っているからだ。

 きっと10歳のころだったのだ。あのころ、言語化はできないけれどずっと考え続けていたのだと思う。自分は、自分以外の他者とどう折り合いをつければいいのか。自分は、他者たちの中でどんな位置づけにあり、その場所はどうすれば必要とされ、どうすれば保障されるのか。そんなこんなをひとり孤独に、さびしいけれどさびしいと口に出してはいけないのだと勝手に決心し、自意識過剰に闘っていたのだ。闘っていた――とは、いま思えば深刻にすぎるけれど、少年の僕にとっては毎日が死ぬか生きるか大勝負の連続だった。

 会議室はにわかに騒がしくなった。
 少年も席を立ったものの、どこのグループに入ればいいのかわからない。「入らない?」と誘ってくれるグループもない。みんなは同じ学校から来た同士でくっついて、二人組や三人組の子も、「一緒にやる?」「こっち来る?」なんて気軽に声をかけあって……ツネちゃんさえいれば、そんなふうにできたのに。一人と二人は全然違う。一人しかいないと、「どうする?」と相談する相手もいない。
 みんながグループにまとまって席についたあとも、少年はどこにも入れないまま、とほうに暮れてその場にたたずんでいた。世界中から嫌われて仲間はずれになったような気がする。恥ずかしい。ひとりぼっちになっているということよりも、ひとりぼっちになっているのをみんなに見られているというのが、たまらなく恥ずかしかった。
(『プラネタリウム』118ページ)

 物語はすべて主語を「少年は――」として、書き進められている。その少年を見つめる距離感が、心地いい。映像でいえば、ミドルサイズからルーズショットで被写体をとらえるイメージだ。画面の中には少年だけではなく、少年のいる風景が必ず写しこまれている。少年しか写っていない写真は、ただその少年個人の写真でしかない。けれど、少年と少年のいる風景は、個人や時代や空間を越えて普遍的な写真になるのだと思う。そして、人物ドキュメンタリーもきっとそうなのだ。描くのはただ単体の人間ではなくて、その人とその人以外との関係なのだ。

 というわけで、以下、おもに番組スタッフへの業務連絡です。

 取材対象を撮影するときむやみにクローズアップを多用するのはやめませんか? 

 クローズアップはたしかに被写体との距離を詰め肉薄していく気分になるかもしれません。けれどその分、他のものが画面に映らなくなってしまいます。ときに画面の中心以外にこそ、番組にとって大切なことが実は映っている――そう思うのです。

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小学五年生小学五年生
重松 清

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2007年 06月 08日 プロデューサーからの手紙 |



2007年4月27日 (金)

分かりにくい、ということ



中野伸二プロデューサー

 番組を観たひとから、「今回の放送は、いったい何がいいたいのかよく分からなかった」と評されることがあります。そんな「分かりいくい」番組になってしま うのは、ひとことでいえば、僕を含めた制作スタッフの編集や構成技術がつたないからです。あれもこれもと取材したのはいいけれど、どうにもこうにも30分 間にまとめきれない。結局、とっちらかってしまって作っているほうも「何をいいたいのか分からない」状況に陥ってしまう。ならば、あれもこれもと取材しな ければいいのですが、あれもこれもと取材したくなるのはテレビマンの性(サガ)でして。すみません。

 でもね。と、思うのです。

 開き直るようですが、分かりにくくてもいいじゃないですか? テレビ番組は「分かり易い」ものじゃなきゃ、ダメですか?

 『情熱大陸』は、毎週ひとりの人物を取材し、そのひととなりを伝える番組です。この30分をみればそのひとのことが“分かる”番組として楽しみにされている方もいらっしゃると思います。その期待に応えるようスタッフは努力しています。しかし、です。たかだか30分でそのひとのこと全てが分かるわけは絶対にありません。せいぜいほんの少しだけ、分かる。あるいは分かったような気がする、だけです。プロデューサーがこんなことをいうと身も蓋もありませんが、どれだけ長い間取材を重ねても、取材対象という人間を完璧に<理解する>なんてできません。そんなことができると思っていたら大間違い、というかゴーマンでしょう。

 よく僕は感情が読み取りにくいひとだといわれます。何を考えているか分かりにくくて、喜怒哀楽がはっきりしないとも。でも、喜怒哀楽という単純な感情におさまりきらないことは日々いっぱいあります。むしろそういう曖昧であやふやな気持ちのほうが、日常のほとんどを占めています。僕だけでなくて、ことほどさように、人間というのはみんな分かりにくいものだと思うのです。それなのに、観ているひとが判別をつけやすいようにと喜怒哀楽ばかりを選んで編集すると、たしかに分かり易い物語にまとまりますが、曖昧であやふやで微妙なニュアンスはどんどん端折られてしまいます。逆に、喜怒哀楽以外にこそ本質があるかもしれないと、何気ないディテイル、はっきりとしないシーンばかりを淡々と積み重ねていくだけでは、30分の鑑賞に堪えるような物語が紡がれるはずもありません。その頃合いに制作スタッフは悩み続け、時に「何がいいたいのか分からない」ような番組になってしまうのです。

 ただ、30分の番組を見終えるや、分かった/分からない、面白い/つまらない、好き/嫌いと、すぐに判定を下してしまうのはもったいないテレビの見方のような気がします。「いまはなんだかよく分からないけれど、そのうち分かるかもしれない」と、ゆっくりと時間をかけて結論を出すのもアリじゃないかと。ひとの人生も、世の中のしくみも、それはそれはとても込み入っていて、テレビを観ただけではモノゴトはそう簡単に分かりませんから―――と、テレビのプロデューサーが言っちゃぁオシマイかもしれませんが。

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2007年 04月 27日 プロデューサーからの手紙 |



2007年3月30日 (金)

ご機嫌よろしゅうございます



中野伸二プロデューサー 人と会うときついつい「おはようございます」と挨拶してしまう。朝だけではなく、昼でも、夜でもだ。このギョーカイ独特のヘンな慣わしである。相手によっ ては「おはようございます」ともはっきり言わず、「オァウィーッス」という感じだったり。一般社会では通用しないと知ってはいるのに、お恥ずかしいクセで ある。

私事だが、3年前からお茶を習い始めた。流派は茶道裏千家。これまでいわゆる習いごとの経験はなかった。こどもの頃に塾に通ったこともないので、学校以外では人生初となる先生が、お茶の先生である。こんな歳だから随分と物覚えの悪い生徒だが、先生から何か新しいことを教えてもらうという行為はとても新鮮で刺激的だ。
お稽古は週に一度。先生のお宅へ伺う。日中はお構いなしに鳴る電話や詰め込みすぎた打ち合わせに追われるように慌しく時間が過ぎていくが、いざ先生宅のお茶室に入ると、その時間の流れが変わる。
襖をあけて、まず、先生にご挨拶。

「先生、ご機嫌よろしゅうございます」
そして、先生から―――「はい、ご機嫌よろしゅうございます」

この挨拶でお稽古がスタートする。「ご機嫌よろしゅうございます」なんて、お茶を始めるまで口にしたことなどなかった言葉だ。でも、この挨拶で、さっきまでケータイに早口でまくし立てていたがさつな時間は、ゆったりとスローダウンする。バタバタと自分の周りで舞っていたホコリが静かにおさまっていくように、このひとことで気分が落ち着く。
お稽古は、ほかの生徒さんが点ててくれたお茶を頂くお客さんの役と、自分がほかの生徒さんにお茶を点てて差し上げる亭主の役の両方をするのが基本。会社帰りのOLさんにまじって畳の上で慣れぬ正座をして、先生のお話に耳を傾け、お軸やお花を拝見し、季節のお菓子を頂戴して過ごす。
お茶の作法について何かを語るなんておこがましくてできない。ただ、最初は煩雑でチンプンカンプンに思えたお点前の所作が、習っていくうち、実に巧みに無駄が省かれたもので、かつ美しく見えるよう計算されているかが分かってきた。挨拶に始まるあらゆる所作はただの<形式>ではなくて、長い時間をかけて洗練が尽くされた心配りの反映なのだ。きっと。
1時間半ほどで、お稽古はおしまい。残念なことにほとんどの場合、再び仕事に戻らないといけない。
先生に最後のご挨拶をする。

「先生、本日はお稽古ありがとうございました。お先に失礼いたします」
すると、先生から―――「お気をつけて」

その「お気をつけて」のおかげで、いつも清々しい気分でお茶室を辞することができる。曲がっていた背筋がすっと伸びたように思うのは気のせいだろうか。
先生のお宅を出て、カバンにしまっておいたケータイを取り出し、切っておいた電源を入れる。二つの時間を行き来するたびに、澱んでいた何かが取り除かれて、すり減っていた何かが充填される。
また、新しい時間がはじまる。

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2007年 03月 30日 プロデューサーからの手紙 |



2007年2月16日 (金)

面接という名のインタビュー



中野伸二プロデューサー

 いま、ちょうど大学三年生は就職活動のシーズンらしい。この歳になると会社から入社試験の面接官を命じられるようになる。
 もともと仕事柄、ひとから話を訊くのは苦にならない。むしろ好きである。【面接】という学生さんへのインタビューは刺激に満ちている。ただ、なるべく多く の学生さんの顔を見て話したいので、どうしてもひとりあたりの時間は短くなってしまう。せいぜい5分ほどしかない。たったそれだけの時間で、彼ら彼女らに 点数をつけなければならないのは、本当に心苦しい。
 みなさん、ごめんなさい。

 先日の面接は、学生さんと1対1。小さな机をはさんで向かい合う。短い時間の中で人生の思い出やこれまでに蓄えた大量の知識を披露してもらうのはなかなか難しい。会話の中のなにげない言葉に、そのひとのものの捉え方のセンスみたいなものを感じ取れればいいなぁと思っている。

「好きなテレビ番組は『情熱大陸』です」
 そんな学生さんがいた。僕がその番組のプロデューサーだとは知らないだろう。聞いていてとてもコソバユイ。ここが面接会場でなくて居酒屋ならば「まぁまぁ一杯どうかね」とビールを注ぎたいところである。続けて彼は放送局への志望動機を話した。
「私はひとに大きな影響を与える仕事がしたいです。視聴者に夢と感動を与えたいと思います」。
 その言葉が心にひっかかった。天邪鬼な面接官はついついへそ曲がりな質問をしてしまう。
「【与える】って言葉は変じゃない?」

 彼の考えはとても純潔である。と同時に、申し訳ないけれど、とても無邪気である。 
 彼は、自分がひとに大きな影響を与えるにふさわしい人間たりうることに躊躇がない。夢や感動は与えられるものだと疑いがない。自分の立ち位置について無自覚に【与える】という言葉を使っている。
 それは、傲慢である。と、僕は思う。
 でも、そんな彼の物言いは、どこかで聞いたことがある。なんのことはない就職活動をしていたころの自分自身だ。
 あれから20年。いまの僕は、学生の彼よりも、ある意味ずっと自信がない。自分が「正しい」と思ったことが、別のひとから見れば必ずしも「正しい」とは限らないことがあることを知った。「正しい」と思っていたことが、あとになって「正しくない」ことに変わってしまうことがあることも知った。たとえば「赤」という色にしてみても、僕が頭に描く赤色と、誰かが頭に描く赤色が同じとはかぎらない。というか、きっと違うのだ。そんなことを思うと、自分が見た・聞いた・感じた世界を番組にして放送することが、少なからず怖くなる。それが世にもたらす影響の大きさに、身の震える思いがする。
 なにより、感動や夢を誰かに【与える】なんて、おこがましいことだと思う。その言い草の中には、「夢を与える仕事をしているオレ達って素敵でしょ」という自己満足というかスケベゴコロが透けて見えるような気がする。
 これまで番組でいろんなひとを取材させてもらった。そして何度も感動した。心が揺さぶられた。けれど、取材対象は誰も、感動を与えてやろうとか夢を与えてやろうとか、考えていなかったと思う。ただ、自分のやるべきことにやるべき方法で懸命に取り組んでいただけだ。その姿に、“勝手に”僕たちは感動をもらったのだ。そして、そこに僕たちの仕事があるならば、その姿をなるべく丁寧に誠実に、テレビを観ているひとに届けることでしかないとも思う。

 そんなこんなで、面接は予定の時間を大幅にこえてしまった。学生の彼よりも、自信のないプロデューサーの方が、ああでもないこうでもないと思うことを喋っていた。面接官としてはいかがなものか、である。でも、だ。こんな短時間に僕からいろいろな話を聞きだすとは、彼はディレクターとしてインタビューの才能がかなりあるのかもしれない。
 いい面接だった。

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2007年 02月 16日 プロデューサーからの手紙 |



2007年1月26日 (金)

カントク&ディレクター



中野伸二プロデューサー

 まことに恐縮なのですが、この場をお借りして先日試写会で見た二本の映画を紹介させてください。どちらも、それほど有名な監督の作品ではありません。

 ひとつめは『神童』。主人公はピアノの“神童”ともてはやされながらその才能をもてあましている孤高の天才少女。そんな彼女がひょんなことから落ちこぼれ の音楽大学受験生と出会い、音楽の真の喜びとひとのあたたかさに目覚めていく姿を描いた作品です。原作はさそうあきらさんのベストセラー漫画。いまちょっ としたブームとなっているクラシック音楽の名曲が全編を通して流れています。

 もともとがコミックですから、物語としてはかなりアリエナイ話です。主人公がいきなり大舞台に抜擢されるなど「そんなバカな!」といった展開が目白押しです。でもその演出は、ヒットしたドラマ『のだめカンタービレ』のようにマンガチックでもなくコミカルでもありません。禁欲的と思えるほどに煽らない。ドラマを盛り上げない。
 監督は萩生田宏治さん39歳。萩生田監督はこの作品の企画をもらうやいなや、近所のピアノ教室に通い始めたといいます。そんな実直で愚直な性格が映画にもにじみ出ています。とても静かで、清潔で、澄んでいる。監督は音楽に耳を澄ますようにこの映画を観て欲しいのだと思います。

 もうひとつは『NARA:奈良美智との旅の記録』 。こちらは不機嫌そうな少女の絵で知られるアーティスト・奈良美智さんを追いかけたドキュメンタリー映画です。ソウル、NY、ロンドン、バンコク…カメラは奈良さんとともに世界を巡りました。その旅の終着点は、奈良さんの故郷・青森県弘前市で去年の夏に開かれた展覧会『AtoZ』。この展覧会の運営にはのべ13,000人のボランティアスタッフが参加し、奈良さんと一緒に架空の街をつくりました。これまでずっと“ひとりで”創作を続けてきた奈良さんが、はじめて“誰かと一緒に”つくる。そのときアーティストは何を思うのか。そのシャイネスからどんなことばが紡がれ、どんな作品が生まれてくるのか。
 監督は坂部康二さん33歳。これが映画初監督です。取材はおよそ500日間。“ひと嫌い”とまでいわれるアーティストにこれほど近く、これほど長く寄り添うことができる監督はそうとうな度量の持ち主です。そして映画の最終盤に奈良さんからこんな言葉をひきだします。
「ひとと関わることが多くなってきて、むかし描けなかったものが描けるようになってきているのは確か。でも、むかし描けたものが描けなくなっていることも確か。それが、いいことかどうかはわからないけれど、同じものを描き続けているより変わっていったほうがいい」
この映画は、奈良美智というアーティストの第一章のエンディングかもしれない。あるいは、第二章のオープニングかもしれない。いずれにせよ、とてもせつない。それは、朝陽が昇るのを見ても、夕陽が沈むのを見ても、同じようにせつなくなってしまうのに似ています。

 さて。この2本の映画を紹介したのには理由があります。『神童』の萩生田監督、『NARA』 の坂部監督、ともに情熱大陸のディレクターでもあるのです。
 萩生田監督は写真家の鬼海弘雄さんやタレントの小倉優子さんを、坂部監督は棋士の谷川浩司さんや女優の小西真奈美さんなどをそれぞれ手がけています。奈良美智さんについては坂部監督は『情熱大陸』でも取材していて、映画『NARA』はいわばその完全版ともいえるものです。
 映画とテレビ。それは媒体の違いにすぎません。どちらの方が格上かなどというのはナンセンスだと考えています。けれど、映画を演出するひとのことはカントク、テレビの場合はディレクターと僕は呼びます。呼んでしまいます。そこに映画への【憧れ】があることを完全には否定できません。だからこそ、映画というフィールドに出た二人にはなんとか成功して欲しい。30分番組では収まりきれないその才能を、なるべくたくさんのひとに見てもらいたい。そう思うのです。なにより「情熱大陸のディレクターは映画を監督してもなかなかイケてる」なんて評価されると、番組プロデューサーとしてはうれしいじゃありませんか。
というわけで、宣伝です。
 萩生田監督の『神童』は3月下旬から渋谷シネマライズとシネ・リーブル池袋で、坂部監督の『NARA』は2月に渋谷のライズXで、それぞれ公開の予定です。こんなことを僕がいうのもなんですが、どちらも大ヒットしそうな映画ではありません。ただ、とても誠実に作っています。それは確かです。
 監督になりかわりまして、何卒よろしくお願いいたします。

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2007年 01月 26日 プロデューサーからの手紙 |



2006年12月22日 (金)

カッコいい大人になる方法



中野伸二プロデューサー

 ふだんはひとを取材する仕事をしていますが、たまに取材を受ける側にまわることがあります。そのほとんどはテレビ雑誌で、番宣(バンセン)というものです。これは、番組の企画意図や見どころなど、日々、仕事の中で考えていることをしゃべればよいので、それほど頭を悩ませることはありません。
 ただごくまれに、『情熱大陸』のプロデューサーという仕事に興味をもち取材をさせて欲しいと申し込まれることがあります。こちらは、ちょっとやっかいです。

 取材にこられる方が『情熱大陸』という番組にもっているイメージと、その番組のプロデューサー、つまり僕という人間とのギャップが心配なのです。
 自分でいうのも何ですが、『情熱大陸』という番組は、なかなかイイです。毎週毎週、世の中には、いろんなところで、いろんなふうに、いろんなやり方で頑張っているひとがいるものだと思い知らされます。その才能や努力、そしてなによりその情熱に畏れ入ります。しかしそれは、あくまで取材対象が素晴らしいのであって、番組の作り手ではありません。だから取材にきたひとから「プロデューサーとして、その情熱を語って下さい」などといわれると、困ってしまいます。「だからぁ、みなさんの心を揺さぶるような情熱の持ち主は僕じゃないんですって」と。なんとも分不相応なこの感じがとても気持ち悪いのです。
 この秋、ひとつ取材をうけました。リクルート社の『就職活動スタートブック』。いわゆるシュウカツを控えた大学3年生を対象にした会社案内です。2007年版の巻頭を飾るのが<カッコいい大人の新基準>と題した企画でそのカッコいい大人の代表として、番組で取り上げたひとたちを紹介したいというものでした。なるほど、たしかにみなさんカッコいい大人に違いないなぁ、とその企画の趣旨には賛同したのですが、またしても、そんなカッコいい大人を毎週見てきている番組プロデューサーから話をききたいということになりました。ついては、『情熱大陸』プロデューサーが考える「カッコいい大人になる方法」を教えて下さい―――。
 これは、かなりの難問です。ツマラナイことはいえません。その答えのせいで僕個人がツマラナイひとだと思われるのはいた仕方ないとして、そんな<カッコいい>で番組のラインナップが決まっているのかと思われてしまっては、これまで取材でお世話になった方々に申し訳ない。そもそも、です。カッコいい大人になる方法なんて、こちらこそ教えてほしい。
 そんなとき、一冊の本を読みました。タイトルは『子どもは判ってくれない』。神戸女学院大学の文学部教授でフランス現代思想が専門の内田樹さんが、ご自身のブログを中心にいろんなメディアで書いたエッセイを選りすぐって集めたものです。全編を通して「大人のものの考え方」というのはこういうことではないかという推察がなされているのですが、実に、腑に落ちるのです。目からウロコ、なのです。なかでも「自立のために知っておくべきこと」として書かれた一文に思わず膝を連打しました。

自立というのは、ある意味では単純なことだ。
それは要するに「バカな他人にこき使われずにすむ」ことである。
(中略)
「どうしたらバカな他人にこき使われずにすむか?」という問いを切実なものとして引き受け、クールでリアルな努力を継続した人間だけが、他人にこき使われずにすむ。
~『子どもは判ってくれない』(内田樹著・文春文庫刊)より

 自分が学生のときに、こんなことばで<カッコいい大人>になる方法を諭されたかった。そう思いました。取材の日。この内田さんからの受け売りを僕が一生懸命に話したことはいうまでもありません。ライターも編集者も大きく頷いてくれました。
   
 先日。出来上がった『スタートブック』が、手元に届きました。巻頭の記事を見てみると、取材のときに喋った<プロデューサーが考えるカッコいい大人になる方法>の部分は、完全にボツになっていました。いやはや。ひとの受け売りなんかでカッコつけても、しょせん分不相応なのですね、やはり。
 あ、もちろんこれは、取材をボツにした編集者への怨みつらみを書いているわけじゃありません。取材というのはそういうものです。いつもの自分の立場になればよくわかります。それに、子どものころ親によく「ひとのせいにするな!」と叱られました。せめてそれくらいは守らねば、カッコいいかはともかく、大人のハシクレにもなれません。

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子どもは判ってくれない 子どもは判ってくれない
内田 樹

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2006年 12月 22日 プロデューサーからの手紙 |



2006年11月17日 (金)

アシスタント・ディレクターTさんについて



中野伸二プロデューサー

 『情熱大陸』が始まったのは1998年。当時、高校生だったひとは、もう大学を卒業して社会人になっている。うれしいことに、『情熱大陸』を見てこの業界に入ったという若いテレビマンに会うことがたまにある。
 この秋、一緒にパリへロケに行ったTさんもそのひとりだ。兵庫県出身の女性で、いま26歳のアシスタント・ディレクター(AD)である。

 彼女は大学4年生のときに『情熱大陸』の「唐沢寿明篇」を見てビビッときた。
「わたしは絶対にこの番組を作りたい!」
 大学を1年留年したTさんは、「唐沢寿明篇」を担当した制作会社を調べてその門を叩いた。入社試験では履歴書と一緒に『情熱大陸』の企画書も提出、見事合格した。

 とはいえ、そこは社会人(あるいはカイシャ人)の常。すぐにやりたい仕事をやらせてもらえるわけではない。彼女も、まずはADとして休日午後の旅番組やBSチャンネルの料理番組などで経験を積んだ。そして「そろそろ…」と思っていたら、ゴールデンタイムでいま人気絶頂のバラエティ番組の担当となった。テレビマンとしてはたいへん光栄なことだ。けれど、Tさんにしてみれば、ますます『情熱大陸』から遠ざかる気がした。しかも、大ヒット番組のADはかなりの激務である。だが、彼女は元柔道部。そういう状況になるとよけいに燃えるタイプなのだ。ド根性でやり遂げるのである。おのずと、さらにその番組にとって必要不可欠なスタッフとなっていく。このままバラエティ番組で頑張るのがディレクターへの近道だろう。でも、彼女はやっぱり『情熱大陸』をやりたい。となると、自分で『情熱大陸』の企画を考え、それを通すしかない。Tさんは通常のAD業務の合間を縫って企画書を書き続けた。何度も何度も書いた。どれもこれもプロデューサーにボツにされた。

 ある日、雑誌で見つけたひとりの女性に惹かれた。パリで活躍する女性のパティシエだった。夢中で企画書にした。ただケーキが美味しそうだったからではない。美食の国フランスで日本人が、しかも女性が、自分の信念と決断で道を切り拓いてきた――その生き方に、Tさん自身が勇気をもらったからだ。

 10月22日放送の長江桂子さんの取材はTさんの企画書から実現した。
 Tさんは初めての情熱大陸にADとして参加した。ディレクターは、あの「唐沢寿明篇」の担当ディレクターだった。
 ロケの最中のTさんは、それはそれは必死だった。『情熱大陸』の制作過程を特等席で体験しているのだ。いま、自分の目の前で起きていること全てを吸収したい。ディレクターはなぜここでこんなインタビューをするのか。カメラマンはなぜここでこんなカットを撮りたがるのか。そして、もし自分がディレクターならどうするのか。いったい自分はどういう番組にしたいのか。深夜、パリのホテルでその日のロケを振り返りながら考えていると、いつの間にか朝になっていた。
 帰国してからの編集も、また必死だった。1週間ほど徹夜して取材テープのすべてをノートに書き起こした。なかでも長江さんのインタビューは暗唱できるくらい繰り返し見た。そして、その言葉にあらためてTさんは勇気をもらった。

 放送当夜。オンエアが終わってしばらく、Tさんの携帯電話は休むヒマがなかった。自分が関わった番組でこんなに多くのひとから感想をもらうのは初めてだった。なかでも故郷の友達はみな我ことのように喜んでくれた。
「夢が叶ったね、ユキちゃん」
 お父さんからも電話があった。10歳で母を亡くし、男手ひとつで育ててくれた。ワガママをいい、ひとり東京に出て行った娘がやっと褒められた。
「いい仕事させてもらってるなぁ。みんなに感謝せんといかんで」
 『情熱大陸』の「長江桂子篇」は、冒頭のエッフェル塔の実景からはじまり、全部で179のカットで構成されている。Tさんは、そのすべてのカットを完璧に憶えている。なにせ、オンエア後もかれこれ20回以上は見ているのだ。番組の中盤で長江さんは、自らのシェフ・パティシエへの道についてこんな話をしている。
「階段を駆け昇ったつもりもないし、跳び段して昇ったつもりもない。自分の中では徐々に、徐々に、昇っていっているんです」
 Tさんが、今回の番組でもっとも勇気をもらい、そして、多くの人に届けたかった言葉だ。

 Tさん。竹本有希さん。というか、タケモト!
 バラエティ番組の仕事は相変わらず忙しそうだけど、元気か?
 『情熱大陸』をやり終えて、さぞ自信がついたかと思いきや、こんなことを言ってたよね。とても印象に残っている。
「なんだかディレクターをやることが怖くなりました。そのひとの何をどう切り取って番組にするのか。私にはまだ、そんなことをやるのが、おこがましいような気がします」
 その不安、よくわかります。僕だって、いまでもそうです。
 階段を駆け昇るでもなく、跳び段するでもなく、一歩一歩踏みしめながら前に進みましょう。これからもタケモトが「作りたい!」と思うような『情熱大陸』であり続けるよう、僕もプロデューサーとして精進します。

 とりあえず。
 次の企画書、はやく出しなさい。もちろん、つまらなかったらボツだからね。

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2006年 11月 17日 プロデューサーからの手紙 |



2006年10月13日 (金)

明日、どこかで出会う



中野伸二プロデューサー

 初めて会ったのは1年半前。直木賞受賞を記念してのサイン会場だった。
 作家・角田光代さんは、とても恐縮しながら僕の名刺をうけとった。
 「すみません、わたし名刺ないんです、すみません、頂戴します、すみません」
 僕より一つ年下なだけ。緊張しすぎのように見えた。けれど、おどおどしているというわけではない。ちゃんと目を見ながら話をする。ただ、この場に自分がいることの違和感に戸惑っている、そう感じた。
 『情熱大陸』で取材したひとは、その多くが強烈な個性の持ち主である。なかにはそのひとの周りの空気が光の粒でできているかのような被写体もいた。だが、角田さんは違っていた。よく使われる表現でいえば、【オーラ】がない。そして、自分でもそのことを認識していた。

 角田さんはそもそも取材を断ろうと思っていたらしい。『対岸の彼女』が直木賞にノミネートされた時に取材交渉をはじめたのだけれど、「もし直木賞を受賞しなくても、角田さんを取材したい」というスタッフの言葉にほだされたという。
 取材は2ヶ月あまり続いた。これほど取材に協力的なひとはいないんじゃないかと思うくらい、角田さんは真摯に番組に向き合ってくれた。
 そして、僕たちの最大のワガママ――番組のためにエッセイを書き下ろして欲しいというリクエストにも快く応えてくれた。
 エッセイのタイトルは、『旅先三日目』というものだった。

 「旅先三日目」
 旅に出る。見知らぬ町に着く。幾度も迷いながら歩きまわり、だいたい三日目に、自分が、まるごとその町に溶けこんでしまったような錯覚を抱く。体が急に軽くなる。仕事も名前も年齢も、私はなんにも持ち得ない、持っていたとしてもここではまったくの無用だと気づく。それはちっともさみしいことではなくて、むしろすがすがしい気分である。
 旅から帰ってくると、つい、何か持っているような気になってしまう。仕事、家、友、約束、銀行口座、名前、年齢。実際私たちはそうしたものを背負って日々よろよろと暮らしていて、ひとつでも失うとなんとはなしに不安になる。けれど実際のところ、本当には、私はなんにも持っていないんじゃないか。持っている気になっているものすべては、思いこみとか、一時的に預かっている何かなんじゃないか。そのことを忘れそうになると、私はいつも、あわてて旅に出る。旅先三日目のあの空っぽな気分を思い出すために。

 この400字のエッセイは、角田さんの【オーラ】に対する答えだった。
 存在感とは、なにも、強い光を放つことや、いかなる場所にいても周りを自分の色に染め上げることではない。そこにいることが当たり前すぎて、ふだんは見過ごされてしまうけれど、ひとたびそれが失われてしまうと「風景」がいっぺんにアンバランスなものになってしまう――そんな存在もまた、絶対的なものなのだ。そしてそれが、同世代の彼女や彼がいる「風景」を描いてきた角田さんの【オーラ】なのだ。

 先日、久しぶりに角田さんにお会いした。角田さんの大好物である「肉」を一緒に食べましょう、と誘った。炭火焼にした短角牛は、それはそれは、美味しかった。その席でまたワガママをお願いした。角田さんは、また快く引き受けてくれた。
ありがとうございます。

 さて、お知らせです。
 来月から、番組ホームページで角田さんの連載小説がスタートすることになりました。毎月一話読みきりの極小短編。タイトルは『明日、どこかで出会う』。どんな内容になるかは、お楽しみですが、街のどこかで見かけそうな何気ない日常の光景に、角田さんの【オーラ】が淡く満ちている――そんなお話です。

 ちなみに、ジーニアス英和大辞典では【aura】の項にこう記されています。

 【aura】…ギリシア神話のアウラ《微風の女神》。

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2006年 10月 13日 プロデューサーからの手紙 |



2006年9月22日 (金)

同級生



中野伸二プロデューサー

 『情熱大陸』プロデューサー、中野伸二。40歳――といった具合に、そのひとを紹介するときに番組では、肩書き・名前とあわせて、必ず年齢も明らかにするようにしています。
 年齢をテレビで大々的にアナウンスするのは、特に女性に対しては失礼にあたると考えるかたがいらっしゃるのは承知しています。でも、番組を観るうえで、そのひとの年齢がいくつかということは、とても大切な指標になると思うのです。

 テレビの前にいる自分とテレビの中にいる彼(あるいは彼女)。そこには、性別、職業、出身地など様々な違いがあるけれど、年齢の違いというのは数字で示される。その差を計れる。そして、多くの方がそうだと思うのですが――違っていたらゴメンナサイ、少なくとも僕は、そのひとが自分よりいくつ年上か年下か、あるいは同い年かが、気になります。そのひとの年齢を知ると、自分との距離がわりと正確につかめるからです。そして、そのひとが自分と同じ年か近い年齢だとわかると、途端にその距離が近くなる気がします。
 <同級生>意識とでもいうのでしょうか。そこにはクラスメートに抱いた親近感と、ちょっとしたライバル心が入り混じっています。
 たとえば、今年6月11日に放送したクライマーの山野井泰史さんは、僕と同い年です。山野井さんと僕は、同じこの国で生まれ、おそらくだいたい同じようなものを食べ、同じようなニュースをみて、同じような教科書で勉強し、同じような時間に寝起きしていたはずです。「長嶋茂雄の引退試合」とか「給食の先割れスプーン」とか「ノストラダムスの大予言」とか、自分たちの世代ならではの話題も共有できているでしょう。<同級生>意識という同じモノサシを持っている。
 なのに、です。僕と山野井さんは、いま、ぜんぜん違うところにいます。かたや事故で何本もの指を失いながらも“世界最強クライマー”の称号にふさわしい不屈の精神力でヒマラヤの氷壁を目指しつづけている。かたやこちらは……。いつの間にこんなことになったのだろう。どこにどんな分かれ道があったのだろう。それを知りたくてたまらなくなる。山野井さんと僕は<同級生>だったはずで、かつては同じスタートラインにいたはずなのに。
 <同級生>のいまを観ることで、いまの自分の位置を知る。
 もしも神様がすべての<同級生>がいまどのように生息・分布しているかを示す地図を持っているならば、自分はそのどのあたりにいるのか。そして、彼と自分はどれくらい離れているのか。その間にはどんな山があって谷があって、その険しい道のりを彼はどうやって乗り越えてきたのか。そんなことを、番組を通じて知ることができる。
 そのときには、羨望とか嫉妬とか焦燥とかを少なからず感じてしまいます。けれど、彼と自分が<同級生>として同じ地図に載っていることを誇らしくも思うのです。
 こんなことを書くと、<同級生>じゃなければ取材対象への興味が薄れるのかといわれそうですが、決してそんなことはありません。ひとの想像力は、誰とでも<同級生>になることを可能にします。
 たとえば、女優の蒼井優さんを観るとき。いまの彼女と、まだ何にも考えていなかった20歳の頃の自分とを比べてみます。あるいは、ロボット工学博士の山海嘉之さんを観るとき。すでにロボットスーツの開発にとりかかっていた40歳のころの山海先生と、いまの自分を比べてみます。
 ホント、こんな<同級生>には、参ってしまいます。自己嫌悪に陥るくらいです。と同時に、思うのです。「オレもちゃんと頑張らなきゃヤバいんじゃない」。
 確認ですが、山野井さんも、蒼井さんも、山海さんも、当然のことながら僕のことを<同級生>だとは思っていません。思っているはずがありません。僕が勝手にクラスメートだと妄想し、仲間意識とライバル心を抱いているだけです。でも、こういうクラスメートが僕の生活を豊かにしてくれます。明日への奮起を促してくれます。妄想ではあるけれど、素敵な<同級生>と同じ時代を生きていることに、感謝です。

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2006年 09月 22日 プロデューサーからの手紙 |



2006年8月25日 (金)

拝啓 情熱犬陸殿



中野伸二プロデューサー

 その夜は次から次へと携帯電話に連絡が入った。
「いま10チャンネルみてますか?」「やるって知ってたんですか?」「あんなの許していいんですか?」―――などなど。新聞のテレビ欄にはこう書いてあった。「爆笑 青木さやかの情熱○陸!?密着60日ドッキリ取材…海…仕事…歴史的オチ」。
 8月8日夜9時から放送されたテレビ朝日『ロンドンハーツ』である。

 所用で外出していたので、録画したものをあとで観た。そして驚いた。『情熱大陸』のようなドキュメンタリーを真似てのドッキリ企画かと思っていたのだが、違っていた。そんな手垢のついた演出ではなかった。『ロンドンハーツ』は、勝手に『情熱大陸』を騙って青木さやかさんにウソの取材をしていた。仕事の現場からプライベートまで2ヶ月にわたってカメラをまわしたという。そしてそれを30分に編集して番組をつくり、日曜の夜11時から青木さんの楽屋限定で放送していたのだ。
 このニセ番組、写真と自筆の署名をコラージュしたオープニングのタイトルCGもそっくりに制作し、葉加瀬太郎さんのテーマ音楽ももちろん使っていた。完全な『情熱大陸』のパロディである。新聞のテレビ欄では「情熱○陸」となっていたが、オンエアされたニセ番組には『情熱犬陸』というタイトルがつけられていた。
 『情熱犬陸』である。イヌなのである。しかも『ロンドンハーツ』からはこちらに事前のことわりも事後の報告も何もないのである。あちらのやりたい放題である。こちらのやられ放題なのである。
 ―――というと、怒り心頭に達していると思われるかもしれない。けれど、決してそんなことはない。別に懐が深いと思われたくて強がっているつもりもない。
関係者の中には「こんなオチョクリは相手にしないのがオトナの対応ですよ」と言う人もいる。でも「あの番組をみて『情熱大陸』の制作スタッフはどう思ってるんだろう」と知りたいひともいるだろうから(僕が視聴者なら知りたい)、番組プロデューサーが代表して感想を記しておこうと思う。

『情熱犬陸』は、なかなか面白かったです。はい。

 テレビ朝日を代表するゴールデンタイムの人気バラエティ番組でパロディの対象にされるというのは、ある意味、同業者として名誉なことかもしれない。『ロンドンハーツ』のスタッフの皆さんありがとう、とはさすがに言わないけれど、憤怒激昂などという感情とはほど遠い。
 それよりも、だ。なんだか悔しいのだ。それは、『情熱犬陸』が良く出来ていたから。撮影や編集の方法、そして、ナレーションのタッチ…。『情熱犬陸』は『情熱大陸』を実にうまくマネしていた。青木さやかさんは、取材中のインタビューの受け方についてこう話していた。「『情熱大陸』ってこんな感じじゃん」。
 悔しいのは、そこだ。
 番組がマネされるというのは、その番組にマネできる型というかパターンがあるということである。今回の『ロンドンハーツ』でパロディにされたのは、それなのだ。そのパターンを笑われたのだ。
『情熱大陸』は毎週毎週違う人物を、違うディレクターが取材し編集し構成する。だから出来上がった番組は、十人十色のはずである。これまでの放送回数を考えれば“四百人四百色”のはずである。なのに『情熱犬陸』は『情熱大陸』っぽかったのである。おそらく観たひとの多くが「これって『情熱大陸』っぽいよね」と思っただろう。番組プロデューサーでさえ、そう感じたのだ。
 はっきり言って、これはヤバイ。
 なにがヤバイって、それは、いつのまにか制作スタッフまでもが「『情熱大陸』ってこんな感じじゃん」と自分たちで番組づくりのパターンを勝手に決めていたということかもしれないからだ。しらないうちに過去の『情熱大陸』にとらわれてそれをマネしていたかもしれないからだ。『情熱大陸』が『情熱大陸』であるために必要なのは、取材や編集のパターンでは決してないのに―――。
 以上、主に『情熱大陸』制作スタッフへの業務連絡とプロデューサーの自戒のことばでした。

 ともあれ、どんなジャンルでもモノを作る人間は、いったん自己模倣に陥るともう新しいモノは生みだせない。それは『情熱大陸』も、そして『ロンドンハーツ』も同じだと思う。
 『ロンドンハーツ』制作スタッフの皆様。
 お互いに今後とも番組づくりに精進していきましょう。負けないように頑張ります。
 ところで、『情熱犬陸』は第二弾も予定されているのでしょうか? 先日、あるディレクターからロンブーの淳さんを『情熱大陸』で取材したいと企画の提案を受けたものですから。

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2006年 08月 25日 プロデューサーからの手紙 |



2006年7月21日 (金)

情熱大陸スペシャルライブへのお誘い



中野伸二プロデューサー

 今年も『情熱大陸スペシャルライブ』が間近に迫ってきました。

 葉加瀬太郎さんをいわばコンダクターにして、番組で取材したミュージシャンを中心に様々なジャンルの音楽を聴きながら真夏の一日をみんなで楽しもうと始め たこのイベントも、この夏で5回目になります。“季節の風物詩”として楽しみにしてくれているお客さんもいるようです。本当にありがたく思います。

 さて、いきなりこんなことを言うのもなんなのですが、別に、みんなで集まらなくてもいいんですよね、本当は。音楽を聴くということだけなら。HMVやタワーレコードにでも行ってCDを買えばいいし、200円ばかりでケータイにダウンロードをしてもいい。みんなで同じ場所に集まって聴く必要などないんです。会場には屋根もないし、雨に降られるかもしれない。はっきりいって音もコンサートホールの方がいい。

 でも、みんなで聴くとやっぱり楽しいですよね。
 わざわざ、でかけるのがいい。わざわざ、ビニールシートを持っていくのもいい。
 暗いホールの中でひとり舞台上のアーティストを見つめるのではなく、隣にはまぶしい日差しを浴びてはしゃぐ明るい笑顔がある。
 それが、仲のいい友達であれ、大好きな恋人であれ、たまたま隣になった初対面の人であれ、きょう、いま、この時間を、同じ空のもとで、同じ音楽を聴きながら、もしかしたら同じものを食べながらすごすというのは、ちょっとした奇蹟です。
 そう思うと、仲のいい友達となんだか肩でも組みたくなる。大好きな恋人を強く抱き寄せてしまいたくなる。たまたま隣になった人にも「どうも」とビールをかかげてしまおうかとも・・・。
 こういうの、平和です。

 だから、もし、ご都合がつけば、会場にお運びください。そして思い思いに真夏の一日をお過ごしください。5回目となる今年も、とりたてて目をみはるような演出も、一瞬たりとも見逃せない斬新な仕掛けも、たぶん、ありません。いつもどおり、ゆるーい感じで進行してきます。
 おなかが空いたら、食べてください。のどが渇いたら、飲んでください。素敵なリズムが刻まれたら、踊ってください。お気に入りの曲が奏でられたら、歌ってください。
 もし、すごく、すごく、心地よくなったら、眠ってください。かまいません。
 そんなことがこの夏の一番の思い出になってくれるとうれしいです。

 それでは、大阪で、横浜で、お会いできるのを楽しみにしています。

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2006年 07月 21日 プロデューサーからの手紙 |



2006年6月30日 (金)

放送400回に寄せて



中野伸二プロデューサー

 まずは、お礼から。
 いつも『情熱大陸』をご覧頂きまことにありがとうございます。おかげさまで、去る5月28日に『情熱大陸』は放送400回を迎えました。すべての番組関係者の皆様、そして誰よりも、毎週日曜よる11時からテレビの前で30分という貴重な時間を頂戴している皆様に心よりお礼を申し上げます。

 400回といっても5月28日当日の放送で何か特別な趣向を凝らしたわけでもありません。オープニングCGの小西真奈美さんの署名の下に小さく#400と 記されていただけです。視聴者の方のほとんどはお気づきにならなかったと思います。もっともそれはプロデューサーとして、そうでありたかったからです。 399回目も、401回目も、制作スタッフの番組や取材対象への気持ちにかわりはありません。だから400回目もいつもの日曜よる11時のままである。そ れが、この番組のありようなのだと思っていました。

 さらにいえば、別に400回を目標に番組を続けて来たわけでもありません。「通過点に過ぎない」なんていうのもなんだかカッコつけ過ぎですし、通過点とい うからには番組が目指すべき終着点があるはずです。けれどそんなものもプロデューサーはまだ持ち合わせていません。毎週毎週イッパイイッパイでやってき て、気がついたら400回になっていた。そういうことです。

 こんな言いかたをしていると、「お前は400回がうれしくなかったのか」と思われそうですが、そんなことはありません。そうとう感慨深いものがありました。
つくづく思うのは「こんなにもたくさんの様々なジャンルの人たちがよく番組の取材に応じてくれたものだ」ということ。

 ここ数回の顔ぶれをみてもそうです。リリー・フランキーさんの次が、20歳のトライアスロン選手・上田藍さん。マタギ親方の大滝国吉さんに続いて「紅テン ト」の唐十郎さん、野生動物専門の獣医・溝口俊夫さん。そして第399回はカツオ船の漁労長・明神学武さん。400回は女優・小西真奈美さん。次ぐ401 回目はクライマー・山野井泰史さんで、翌週が落語家・立川談志さん。<幅が広い>と重松清さんから「読む情熱大陸」で評されましたが、むしろ 「無節操」や「無茶苦茶」と言われても仕方がないと自分では思います。 

 でも、ご理解ください。番組ディレクターたちのひとへの興味が「無節操」で「無茶苦茶」なのです。型にはまりたくないのです。番組をつくるこちらが勝手に<縛り>をきめて、自分たち自身の視野を狭くすることはしたくないのです。

 そしてまた、400回を過ぎてこうも思います。「まだこれだけの人しか紹介できないでいるのか」と。

 毎日のように多くのディレクターたちが、このひとを取材したい、あのひとを番組にしたいと、熱い思いを企画書にしたためてやってきます。それを判断するのがプロデューサーの役割ですが、残念なことに番組は週に一度しかありません。その企画書のほとんどは実現しないのです。 

このひとも、あのひとも、みんな素敵なひとです。すごいひとです。少なくとも机の上で企画書を見ているにんげんよりも…。

 そんな畏れ入るばかりのひとたちの企画書を眠らせてしまうプロデューサーにできることは何か。それは、彼らに恥ずかしくない番組をつくるということ。番組 制作能力に未熟さや稚拙さがあるとしても、いつも、フェアでありたい。伝えたいとこがきちんと伝えられているのか臆病なくらいに自問自答を繰り返しても、 決して卑怯にはなりたくない。そう思っています。そしてそれは、テレビの前のすべてのひとに真摯であるということにつながっているはずです。 

 なんだかすこし無駄に力が入ってしまいました。記念すべき400回を超えたことで、知らないうちに高揚してしまったようです。お恥ずかしい限りです。

 さて7月2日も記念すべき第404回の放送です。漫談家の綾小路きみまろさんです。

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2006年 06月 30日 プロデューサーからの手紙 |



2006年5月26日 (金)

カメラマンS君について



中野伸二プロデューサー

 番組の制作スタッフのなかで、もっとも肉体的に過酷なのはおそらくカメラマンだろう。基本的には取材中、ずっと重さ10キロのカメラを担いでいる。車が使えないような場所では、さらに他の機材も抱えながら移動する。移動しながら撮影したりもする。
 それに比べればディレクターなんぞは、現場でやることなどほとんどない。取材が始まってしまえばカメラマンの撮るに任せるしかない。ドラマと違ってカット 割りなどない。そもそもカメラの前でこれから何が起きるかは誰もわからないのだ。もちろん、事前に想定とか想像はする。けれど物事がそのとおりに行くとは 限らない。むしろ思わぬことが起きることが、こうした取材の醍醐味である。いいカメラマンは、いまこの瞬間に何をどのように撮影するのがベストなのかを的 確に判断してくれる。
 そしてもうひとつ、いいカメラマンは場の空気を作ることができる。取材される側が撮られていて気分がよくなる。嬉しくなる。そしてますますいい表情になる。それはカメラマンの技術ではない。人間力ともいえるものだ。

 Sくんというカメラマンがいる。
 番組でも数多くの撮影を担当している彼は、無尽蔵のスタミナとおそろしく軽いフットワークを持つ。
 たとえば、マラソンの高橋尚子選手を取材したときのこと。練習中の走っている高橋さんの表情を間近で撮りたいと、自分も一緒に走りだした。しかも途中からは、正面の顔を撮りたくなり、高橋さんの前に回り込んで背走しながら撮影しはじめた。
 はっきりいって、アホである。
 さすがの高橋さんもこれには驚いた。あるいは呆れた。そして走りながら、Sカメラマンによる単独インタビューに答えてくれた。
 とにかくSくんはひとを撮るのが好きだ。何かに必死で取り組んでいるひとを、自分も必死で撮りたいのだ。取材していたアスリートが試合で負けたといっては競技場で泣く。女優がアカデミー賞をとったといっては授賞式で泣く。撮影中のSくんの顔をみると面白い。被写体が苦しそうだと、撮っている彼も苦しそうにしている。相手が笑っていると、彼も笑っている。撮る側と撮られる側の気持ちがシンクロしている。こんなカメラマンに取材相手がシンパシーを感じるのは当然だろう。
 だから取材現場では、ディレクターよりもSくんの方が取材相手との関係が近くなることもある。ディレクターがなかなかインタビューで訊けないようなことを、時にカメラマンの領分を逸脱しながらSくんは訊く。
 美輪明宏さんを取材したときのこと。取材最後のインタビューがひととおり終わり、ディレクターが撮影終了の声をかけようとしたところで、Sくんはいきなりこうきりだした。
「あのぅ、美輪さんにひとつ訊きたいんですけど。いままでに、ひとを殴ったことはありますか?」
 アホである。
 けれど、美輪さんはにこりとこう答えた。
「ありますよ。灰皿で。わたし、弱い者イジメするひと大ッ嫌いなの」
ディレクターとしては、悔しい。悔しいくらいにいいコメントだった。だからそれがそのまま番組のラストシーンになった。

 そんなSくんがアクシデントに見舞われた。
 2年前のことだ。別の番組で南米奥地のロケにいき、そこで正体不明の虫に刺されて足が奇妙に腫れはじめた。Sくんは人一倍責任感が強い。他のスタッフに迷惑をかけたくないと、無理をしながら撮影を続けた。ふくらはぎの化膿はおさまるどころか、ついには電信柱ほどまで腫れてしまった。日本に緊急帰国し病院に運ばれた。あわや切断かというほどのひどい状態だった。ふくらはぎからはステーキ3枚分ほどの筋肉を切除された。どんな後遺症がでるかもわからなかった。
 見舞いの電話をかけたときのことをよく覚えている。あのSくんとは思えないほど落ち込んだ声だった。
「オレ、もうダメかもね。重いもの持って走り回ったりできないよ、たぶん。カメラ以外なんにもできないんだけどなぁ」
 どうやって彼を力づけていいのかわからなかった。なるべく普段どおりに話そうと思うと、頓珍漢なことばしか出てこなかった。
「まぁSもさぁ、ひとばっかり撮らないで、これを機会に三脚たてて風景とか絵画とか撮影する練習すれば?」
 アホなプロデューサーである。そんなことしか言えなかった。
 けれど、そんなことしか言っておかなくて良かった、といまは思う。
 Sくんは、その後、びっくりするくらいのスピードで回復したのだ。当初こそ恐る恐るおとなしいカメラワークだったが、いまではすっかり元通り。いや、それ以上かもしれない。この春もベトナムに眼科医の服部匡史さんを追い、俳優・唐十郎さんは銭湯の中まで素っ裸になって追いかけた。
 あいかわらず、アホである。

 Sくん、桜田仁くん。これからも、ずっとアホなカメラマンでいてください。悔しいくらい、それがカッコいいと思います。でも、三脚たてて撮影する練習はやっぱりしたほうがいいよ。

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2006年 05月 26日 プロデューサーからの手紙 |



2006年4月28日 (金)

おいしくお茶を淹れるということ



中野伸二プロデューサー

 とある番組の収録前。出演者を交えての打ち合わせの席でのことだ。
 テレビプロデューサーとして大先輩のSさんが、突然、不機嫌になった。そして、若いアシスタントディレクターを叱り始めた。
 理由は、お茶がまずい。
 アシスタントディレクターの彼が淹れたお茶がまずい。
 そのお茶はたしかに、味が薄くて、しかもちょっとぬるかった。けれど、いまこの場で、それほど叱責されなければならないものか。そもそも、お茶を淹れるために、彼もテレビの世界に入り、アシスタントディレクターをやっているわけじゃあるまいし。と、彼ならずとも僕もそのとき思った。

 けれど、大先輩のSさんはこういう。
 「出演者とスタッフが気分よく打ち合わせができる状況を作るために、お茶というものは出すんでしょ。そしてそれがいまの彼の役目なんだ。誰よりも美味し いお茶を丁寧に淹れて、みんなに喜んでもらおうと思わないのか。しかも、お茶は相手の口にいれるものだぞ。自分の手で淹れたものが直接、相手の体の中に 入っていくんだ。そんなとても大事なことを、あまりに適当にやっていないか、ってことだよ。いま、目の前にいるひとの気持ちも考えずに平気でまずいお茶を 出すようなヤツは、いつまでたってもテレビを見ているひとの気持ちなんかわかるわけない」
 そのとおりである。
 大先輩にはいつも教えられる。
 そして同時に、どんな世界であれ、思考錯誤を繰り返した末にたどり着くのはほぼ同じ道理だと思う。
 この春、番組でお世話になった三人の先達の言葉にも思わず身が引き締まった。
 69歳、劇画家のさいとう・たかをさんはこう言った。
 「劇画というのは、何でもなさそうに見えるところにも惜しみなく手間ひまをかける。けれど、読者にその苦労が伝わってしまったらダメなんです。それは失敗なんです」
 81歳、料理家の辰巳芳子さんはこう言った。
 「私たちは幸せなことに、物と物事に向かっていくときに、自分というものを引っ込めなきゃならない。 物に従っていくんだから。ということは、だんだん、料理人は我が落ちるはずなんです。そして、我が落ちるとだんだん幸せになります。料理人が進むべき道 は、どうしても、いい人にならざるをえないような道ではないかと思うのです」
 66歳のジャズシンガー・与世山澄子さんはこう言った。
 「いままで、満足した演奏なんてありません。私たちの世界は満足なんてしたらおしまいですから」

 『情熱大陸』は放送開始から、8年がたった。これまで取材してきた400人近いひとたちの言葉を想い起こすと、いまの自分の仕事に、そして、あらゆる仕事にもそのまま当てはまるものがたくさんある。それはとどのつまり―――ひとつひとつ丁寧に、ということ
 シンプルだけど、それでしかない。

 ところで、お茶がまずいと怒ったSさんは『世界ウルルン滞在記』のプロデューサーでテレビマンユニオン社長の白井博さんである。『ウルルン』はこの4月に番組開始から12年目を迎えた。日曜の夜、ずっとその背中を追いかける大先輩である。

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2006年 04月 28日 プロデューサーからの手紙 |



2006年3月24日 (金)

プロデューサーからの手紙#3



中野伸二プロデューサー

前略。与座聡先生。

 先日の打ち上げ、お忙しいところお時間を頂戴しありがとうございました。新宿の百人町はさすがリトルソウル。お店で頂いたチャプチェ、チジミ、プルコギ、どれも美味しく、スタッフみんなとても楽しい夜でした。

 あらためまして、本当にお世話になりました。おかげさまで2月19日の放送を無事に終えることができました。

 きっかけは去年の秋に見た新聞記事でした。パリに本部を置くNGOが世界の紛争地や極貧国で進める医療ボランティアの話題。顔などに傷跡や先天性の変型が あるひとたちに手術をして笑顔を取り戻してもらおうという〝スマイル作戦〟に、日本からひとりの医師が参加している。それが、与座先生でした。

 この記事。妙に心にひっかかりました。それは、与座先生のこんな言葉です。

――〝スマイル作戦〟に参加するのは<使命感や博愛精神からではない><手術を必要とする人がいて、自分の技術を磨くことにもつながる>からだ。(2005年9月11日付 読売新聞)

 さらに調べると、普段の先生は美容整形の開業医だとわかりました。しかも病院の場所は新宿・百人町。
 ますます、心にひっかかりました。
 かたや、地平線の果てまで絶望が広がる貧困の地で銃弾によって砕かれた足を再生し、かたや、欲望が渦巻く猥雑な都会の隘路でガングロコギャルの二重瞼をつくる。表現は適切ではありませんが、いずれにせよ、ミスマッチに思えてなりませんでした。

 番組の取材はおよそ3ヶ月。新宿からはじまって先生のご実家・宮古島、〝スマイル作戦〟の舞台ニジェールに、西国分寺のご自宅まで。しつこい番組スタッフのわがままの数々。あらためて、すみませんでした。ただ、先生が僕たちのことを、まったく違う世界に住む珍獣のように面白がってくれたことがとても嬉しかったです。

 全ての取材が終わったとき、番組スタッフはひとつの結論に達しました。
――与座先生は、ただ手術が好きなのだ。

 取材中も何度となくこんなことを聞いたと思います。あるときは陳腐な言葉で「世界中の恵まれない子供たちを笑顔にして幸せにしたいんですよね」とか。またあるときは意地悪に「鼻を高くしたいとか、あごを小さくしたいとか、美容整形というのは贅沢とエゴに満ちていて、それを望む若者に世界の厳しい現実を知らしめて説教のひとつでもしたくないですか」とか。

 でも、先生の答えはいつも「いいえ」でした。きっぱりと「いいえ」。自分は手術をやってみたい、うまく手術をやってみたい、ただそれだけだと。

 そして、打ち上げの席。先生はこぼされていました。
「僕は全然いいひとなんかじゃないんですよ。テレビを見ている人たちを勘違いさせたみたいで申し訳ないです」

 でもね、先生。あえて反論させてください。

 先生はやっぱり、いいひとです。

 ひとは、いい人間になりたい、他人の役にたちたいと一生懸命に仕事せずとも、自分のやりたい仕事を一生懸命にしさえすれば、おのずといい人間になり、そして、ひとの役にたっているのです。
 と、カッコいいこと言いましたけど、これは料理家・辰巳芳子さんの受け売りです。でも、本当にそう思います。そう思いませんか?

 放送が終わってから先生のもとには多くの手紙やメールが届いていると聞きました。そのすべてに目を通し、ひとつひとつ丁寧に返事を書いているとも。中には、医師にはどうにもできない人生相談みたいなものまであるのに、それでも、ちゃんと先生は向き合う。

 やっぱり、先生は、いいひとです。

 最後になりましたが、くれぐれも奥さまによろしくお伝えください。打ち上げの席で初めてお会いし、奥さまあっての先生だと確信しました。突然「来週、南極に行ってくるよ」なんて言い出す好奇心旺盛にもほどがある先生を、黙って送り出してくれるのですから。
 これからも、いいひと、はともかく、いい夫、ではいてください。どうぞ奥さまへの〝スマイル作戦〟も忘れずに。

草々

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2006年 03月 24日 プロデューサーからの手紙 |



2006年2月24日 (金)

プロデューサーからの手紙#2



中野伸二プロデューサー

 番組の最後には、いつもスタッフロールが流れる。必ずその冒頭に「演出」としてクレジットされるのが、担当したディレクターだ。情熱大陸はひとりの人物 を、ひとりのディレクターが取材する。スタッフの誰よりも、ディレクターは取材対象と多くの時間を過ごす。だから番組は、取材対象とディレクターの人間関 係を映したものといえなくはない。

 T君というディレクターがいる。彼が手がけてきた人物は、バラエティに富む過去のラインナップの中でも特に色合いが変わっている。たとえば、町工場の社長。たとえば、マグロ漁師。たとえば、国際紛争解決人。世の中にこんなすごい人がいるのかと、T君にはいつも教えられる。そして、そういう人たちの胸襟を開かせるその取材力に驚かされる。別にT君が特殊な方法を用いているわけではない。洋服や髪型に頓着しないその風貌は、お世辞にも女性にモテるとはいえない。そして、これは一般的にディレクターとしては致命的なことなのだが、かなりの口下手だ。T君から番組の企画意図や構成プランを説明してもらっても、ほとんど要領を得ない。なのに、町工場の社長は彼のために、企業スパイが泣いて欲しがる門外不出の板金技術を見せてくれた。マグロ漁師はひと月の間、毎日舟に同乗を許し仕掛けの妙を披露してくれた。国際紛争解決人は緊張が続くアフガンで、拳銃を携えた軍閥たちとの交渉に同行を許してくれた。

 彼よりも編集や構成が巧みなディレクターはいる。けれど、こんなことは彼だからできた。彼しかできなかったと思う。

 常套句でいえば、取材対象のふところにうまく飛び込む、ということなのだろう。たしかにT君は人懐っこい笑顔の持ち主ではある。口下手だけど、その朴訥な語り口からは実直さが伺えたりもする。けれど、そんなことだけで、取材対象の心をつかむことはできないはずだ。 

 そう確信したのは、T君が、東京大学先端科学研究センターの福島智助教授を取材したときだ。福島先生はバリアフリー研究の第一人者で、彼自身が障害者である。9歳で視力を失い、18歳のときに聴力を失った。全盲で全聾。いまは、何も見えない。何も聞こえない。取材交渉もインタビューも簡単にはいかない。ディレクターの言葉は、「指点字」という両手の指先を点字タイプライターに見立てた特別なコミュニケーション技術を持つ介護者を通してしか伝えるすべはない。だから、T君が人懐っこい笑顔を浮かべたところで福島先生には意味がない。そのおしゃべりの朴訥さも指点字では翻訳されない。己の存在を福島先生に認識してもらい、やりたいことを分かってもらう困難さは、考えただけで気が遠くなる。でも、福島先生は彼のことを信用してくれた。信頼してくれた。そして、ほとんど受けたことがないというテレビ番組の取材を受けてくれた。

 T君はこういった。
「福島先生が立ち向かっている困難に比べれば、どんな苦労もたかがしれてます」

 取材テープに、福島先生のマンションの前で帰宅を待つシーンが写っていた。道を歩いている福島先生夫婦。途中、奥さんがT君に気づきそのことを指点字で先生に伝える。すると福島先生がT君の方に微笑みかける。 

 もう一度いうが、福島先生は目も見えないし、耳も聞こえない。だからT君の外面は知らない。顔も、声も、知らない。なのに、ちゃんとT君がわかる。もてる神経の全てを集中してT君を認識する。そして、内面しか知らない、内面だけを知っている彼の方を向き、笑みを浮かべる。

 とても不思議だった。とても嬉しかった。こういう人と人の人間関係がそのまま番組になっているということが。

 いま、T君はアメリカにいる。日本を離れ、そしてテレビの世界からも離れてしまった。理由は聞いていない。聞いても、口下手の彼はうまく説明してくれなかったと思う。

 元気ですか、T君。いま、どうしていますか、高橋伸征くん。

 また、いつか。そして、きっと、また。

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2006年 02月 24日 プロデューサーからの手紙 |



2006年1月27日 (金)

プロデューサーからの手紙#1



中野伸二プロデューサー

この曲と出会えてよかった。ほんとうにそう思います。

『情熱大陸』のエンディングテーマ「Etupirka(エトピリカ)」のことです。放送開始からおよそ8年、番組はミュージシャンやアスリート、俳優、女優、料理人、ファッションモデル、エンジニア、脳外科医、作家、画家、書家、棋士、漁師など380人をこえる様々な人々の“情熱”を描いてきました。

 制作スタッフは、取材の現場で、彼あるいは彼女を前にいつもこう考えています。

「この人の情熱はどこからあふれてくるのだろう」

 番組作りはいわば【情熱の源泉】を探りあてる作業です。しかしそれは、ただインタビューをすれば聞き出せるというものではありません。何日も何週間も何ヶ月もカメラを回しつづける中で、彼らがふと見せた表情——たとえば、本番を前にした緊張の面持ちだったり、ひと仕事を終えたあとの会心の笑みだったり、思いがけず流された涙だったり——が、ときに何よりも雄弁な答えになるのです。

 そして、そんな瞬間にめぐりあったとき、ディレクターやカメラマンの頭の中で「Etupirka」が流れはじめます。もちろん、そんなにうまくいく取材ばかりではありません。でも、現場で「Etupirka」が聞こえると、番組はあらかじめこのシーンを撮るべく神様に定められていたのではないかとさえ感じ、鳥肌がたちます。

——『情熱大陸』という番組はこの曲に導かれ、つくられているのかもしれない。

先日、夜の10時過ぎ、コンビニで中学生のふたり組をみかけました。おそらく塾の帰りなのでしょう、宿題の問題集などを手に熱心に話しています。

「おまえ将来何になりたいの?」
「お医者さん。」
「パパと同じじゃん。家継ぐの?」
「いや、それじゃあダメなの。
ただの医者じゃなくて、情熱大陸に出る医者になりたいの。」

 そのとき、その男の子の携帯電話がなりました。着メロは「Etupirka」でした。そして、僕の頭の中でも「Etupirka」が流れました。

 毎日、どこかで、そのひとの『情熱大陸』が、うまれているんじゃないか。

 そんな気持ちで、番組のホームページでは、毎日更新のインターネット新聞「情熱大陸タイムズ」をはじめました。気楽に、気長に、楽しんでください。よろしくお願いします。

毎日放送『情熱大陸』プロデューサー 中野伸二

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2006年 01月 27日 プロデューサーからの手紙 |