第12話 目指した場所でないとしても
でもさ、と千夏が言いかけたとき、がらりと戸が開いて女性客が二人、露天風呂にやってくる。五十代とおぼしき二人組で、おいしょ、おいしょ、とそれぞれ言いながら湯船に入り、あーいい気分、と声を揃える。千夏はなんとなく黙り、目隠し用らしき垣根の向こう、紅葉しはじめた山を見る。二人組は、極楽だ極楽だとしばらく言い合っていたが、「そういえばさ」とかしましく話しはじめる。どうやら共通の友人の、夫の話で、しかも悪口である。パチンコばっかし、いい年して女癖が悪い、食べかたに品がない、ものを知らない、と脈絡なく、とにかくけなしている。なかなかにおもしろかったのだが、なんとなく盗み聞きをしているようで居心地悪くなり、千夏はそろそろと風呂から足を抜き出す。寛子もゆっくり立ち上がる。
熱海駅から急な坂をのぼりきったところにある温泉旅館は、どの部屋からも海が見えること、また各部屋にマッサージチェアがあることがウリであるらしく、インターネットで申しこみをしたときはマッサージチェアより口コミで人気の夕食に惹かれたのだが、いったん座って見ると、もう立つことができない。千夏と寛子は二十分交代でマッサージチェアに座り続けている。
「本当に中年だよねえ、こんなていたらくで」マッサージされている寛子の声は歪んで届く。
「本当だよ。十年前なら私たち、浴衣着て射的しにいってたよ」畳に寝ころんで千夏は言い、二十代の最後に二人でいった旅行を思い出す。
「やだ、本当に射的してたじゃん、十年前だっけ、あれ」寛子も同じことを思い出したらしい。
「たしか伊香保だったね」
十年前、寛子が自称「駆け込み結婚」をする直前に、独身最後の思い出だと言って、二人で温泉旅行をしたのだった。実際は独身最後ではなかった。二十九歳で嫁いだ寛子は四年後に離婚し、独身に戻り、三年後に別の人と結婚し、そうして今また、独身である。どちらとも夫に好きな女ができて、離婚に至っている。
今回は離婚慰安という名目で千夏が企画した温泉旅行であるが、本当は千夏自身が家事から解放されたかった。寛子より二年のちに結婚した千夏には、今年小学校に上がった娘がいる。この三連休、千葉に住む千夏の両親のところに泊まりにいっている。夫もつかの間独身気分を味わっていることだろう。
自分たちの縁が切れないのはなんでだろうと千夏は考える。同じだったのは中学だけで、しかもさほど親しかったわけでもない。共通点があるわけでもなし、似ているわけでもない。寛子の二度の新婚期間や、千夏の娘がちいさかったころは疎遠だった。なのに、気がつけばこうしていっしょにいる。
ねえ、最後に全力疾走したの、いつ? と、寛子が奇妙な質問をしたのは、「松茸懐石プラン」の料理がひととおり座卓に並び、ビールで乾杯したときだった。ゼンリョクシッソウ、が千夏の頭で漢字転換されるのに数秒かかった。全力疾走。
「何、その質問」ひとり用の卓上七輪に松茸をのせ、土瓶蒸しの器から猪口につゆを注いで口をつけ、「んまいっ」千夏は思わずうなる。
「大人って走らないじゃない。年々走らなくなるじゃない。私なんか、今走れば急行に間に合うってときでも、もう走らないもんね。うー、松茸、たまらんね」
「そうねえ、私は日奈子がいるから、走ること多いけど。仕事終わって学童保育に迎えいくとか。夕飯の買いものも小走りだし。でも全力疾走って感じじゃないわねえ」千夏は網の上で焼けた松茸をひっくり返す。癖のある香りがぷんと鼻を突く。
「でしょ? 走らないもんなのよ、大人は。うわ、やばいわ、焼き松茸」顔をゆがめ、しばらく無言で箸を動かし、はたと正面から千夏を見つめる。「でもさ、私、見たのよね。全力疾走する女。あれ、負けたと思ったわ」
「何それ」焼けた松茸にかぼすを絞り、口に入れ、千夏は目を閉じしばし堪能する。
「私離婚するつもりなかったの。だって私のほうが立場強いじゃん。妻なんだし。前とおんなじことくり返すの、もう嫌だったし。裁判でもなんでも起こして、別れたりするもんかって思ってたの。そんでね、相手の女を呼びだしてもらったんだよね、夫に」
「ええっ」千夏は大声を出す。「知らなかった。修羅じゃん」
「そうだよ、修羅どんとこい、だよ。喫茶店でさ、私がいることは言うなって言って、呼び出させたの。その子を。子、っつったって三十五だけどね」
「年まで知ってる」
「ガラスばりの喫茶店で待ってたらさ、二十分か三十分か、向こうからターッと走ってくる子がいるわけ。すぐわかった。あ、あの子だって。その子は私がいるなんて思わない、夫に会えるのがもううれしくて、子どもみたいに夢中で走ってくるわけ。信号赤になってんのにターッて全力疾走。それで夫見つけて、にこにこして、手ふって。向かいに鬼みたいな形相の妻がいるなんて気づきもしないでさ、笑顔でまだターッて近づいてくる。あ、なんかもう、だめだわ、と思った」
「え、じゃ、そこで斬った張ったにはならなかったの」
「ま、ちょっとはなったけど、私はもういいやって感じだった。だってさ、そのとき思ったんだよ、私はこの人のためにあんなふうには走れないって」
「でも、その三十五歳だって、いつか走らなくなるよ」
「そうなのかな。わかんないな。だって私、結婚したときだってあんなふうには走らなかった」
寛子が黙り、なんとなく千夏も黙る。仲居さんがおひつを運んでくる。炊き込みごはんの甘くやわらかいにおいがいっぺんに部屋を満たす。よそってもらった炊き込みごはんに歓声を上げ、寛子と千夏は食べはじめる。
「でもね千夏、私、また走るよ。電車も信号も走らないけど、私を走らせる男をさがす」
仲居さんがいなくなるやいなや、寛子が真剣な面もちで言うので千夏は噴き出してしまう。
「私を走らせる男をさがすって、いったいどんなフレーズよ。よく言うわ、中年が」
「中年だって走るんだよ。中年が走るとなったら、こりゃもう相当な本気だよ」
笑いながら、千夏はこの長年の友の、謎の不屈さにひれ伏したいような気分になる。そうして思い出す。中学のときのマラソン大会で、泣きそうな顔をして走っていた寛子のことを。さぼって歩く生徒が多いなか、決して走るのが得意なわけでもないのに、寛子はくそ真面目に走り続けた。自分もまた、もう嫌だと思いながらもくそ真面目に走っていた。走っているのに、歩いている生徒と変わらないくらい速度は遅く、ならば歩けばいいと開きなおることもできないでいた。
「ま、中年を走らせたら、たしかに相当な男だわね」千夏は言って、笑いだす。似たところのない自分たちが、なぜいっしょにいるのかなんとなく理解したような気になる。「でもさ、もう披露宴はやらないでよ。ご祝儀詐欺って本気で言われるよ」
「たしかに二度目は会費制にすべきだったね。あー、食べ過ぎた。おなかがくちい」
座椅子を押しやり、寛子はごろりと仰向けになる。千夏も真似をして横たわる。蛍光灯が白々と明るい。
「あー気持ちがいい。片づけなくていいなんて、夢みたいだ」
「落ち着いたらもう一風呂あびてこようね」
嫌だ嫌だと思いながら走っていたころに思い描いたような場所には、どうやら私も寛子もいない、と千夏はひそかに思う。寛子は結婚離婚とも、二度もするとは思いもしなかったろうし、私は本気で料理研究家になりたかった。今いるところがかつて目指した場所ではないとしても、でも私たちは走りやめることができない。ゆるゆると、ときに泣きそうになりながら、ときに徒歩組に抜かされながら、ときに全力疾走を夢見ながら、どこかわからないゴールに向けて、足を踏み出し続ける。
「今度の温泉はいつだろうね」
「そりゃ、正真正銘、私の独身最後の夜でしょう」
「三度目の正直か」
千夏はちいさく笑い、よっこらしょ、とわざと声に出して言い、起きあがる。障子を開け、窓を開け放って空を見上げると、こぼれるように星が瞬いている。






