2009年10月 2日 (金)

第12話 目指した場所でないとしても



角田光代

「昔さ」と、露天風呂の岩に頭をもたせかけ、中丸寛子が言う。

「昔って、何、いつごろ」のぼせてきた内海千夏は岩に腰掛け、足だけ湯につける。

「高校の修学旅行でさ、女湯だから女しかいないのに、みんな、バスタオル巻きつけてお風呂入ったよね」

「そういや、そうだった。何が恥ずかしかったのかね」

「ま、思春期だから」

「中年期になってよかったよね。バスタオル巻こうなんて思いつかなくてよかったよ」

「中年かな」

「中年でしょうよ、来年四十歳だもの」

「そうか、中年か。四十歳は中年か」

 でもさ、と千夏が言いかけたとき、がらりと戸が開いて女性客が二人、露天風呂にやってくる。五十代とおぼしき二人組で、おいしょ、おいしょ、とそれぞれ言いながら湯船に入り、あーいい気分、と声を揃える。千夏はなんとなく黙り、目隠し用らしき垣根の向こう、紅葉しはじめた山を見る。二人組は、極楽だ極楽だとしばらく言い合っていたが、「そういえばさ」とかしましく話しはじめる。どうやら共通の友人の、夫の話で、しかも悪口である。パチンコばっかし、いい年して女癖が悪い、食べかたに品がない、ものを知らない、と脈絡なく、とにかくけなしている。なかなかにおもしろかったのだが、なんとなく盗み聞きをしているようで居心地悪くなり、千夏はそろそろと風呂から足を抜き出す。寛子もゆっくり立ち上がる。

 熱海駅から急な坂をのぼりきったところにある温泉旅館は、どの部屋からも海が見えること、また各部屋にマッサージチェアがあることがウリであるらしく、インターネットで申しこみをしたときはマッサージチェアより口コミで人気の夕食に惹かれたのだが、いったん座って見ると、もう立つことができない。千夏と寛子は二十分交代でマッサージチェアに座り続けている。

「本当に中年だよねえ、こんなていたらくで」マッサージされている寛子の声は歪んで届く。

「本当だよ。十年前なら私たち、浴衣着て射的しにいってたよ」畳に寝ころんで千夏は言い、二十代の最後に二人でいった旅行を思い出す。

「やだ、本当に射的してたじゃん、十年前だっけ、あれ」寛子も同じことを思い出したらしい。

「たしか伊香保だったね」

 十年前、寛子が自称「駆け込み結婚」をする直前に、独身最後の思い出だと言って、二人で温泉旅行をしたのだった。実際は独身最後ではなかった。二十九歳で嫁いだ寛子は四年後に離婚し、独身に戻り、三年後に別の人と結婚し、そうして今また、独身である。どちらとも夫に好きな女ができて、離婚に至っている。

 今回は離婚慰安という名目で千夏が企画した温泉旅行であるが、本当は千夏自身が家事から解放されたかった。寛子より二年のちに結婚した千夏には、今年小学校に上がった娘がいる。この三連休、千葉に住む千夏の両親のところに泊まりにいっている。夫もつかの間独身気分を味わっていることだろう。

 自分たちの縁が切れないのはなんでだろうと千夏は考える。同じだったのは中学だけで、しかもさほど親しかったわけでもない。共通点があるわけでもなし、似ているわけでもない。寛子の二度の新婚期間や、千夏の娘がちいさかったころは疎遠だった。なのに、気がつけばこうしていっしょにいる。

 ねえ、最後に全力疾走したの、いつ? と、寛子が奇妙な質問をしたのは、「松茸懐石プラン」の料理がひととおり座卓に並び、ビールで乾杯したときだった。ゼンリョクシッソウ、が千夏の頭で漢字転換されるのに数秒かかった。全力疾走。

「何、その質問」ひとり用の卓上七輪に松茸をのせ、土瓶蒸しの器から猪口につゆを注いで口をつけ、「んまいっ」千夏は思わずうなる。

「大人って走らないじゃない。年々走らなくなるじゃない。私なんか、今走れば急行に間に合うってときでも、もう走らないもんね。うー、松茸、たまらんね」

「そうねえ、私は日奈子がいるから、走ること多いけど。仕事終わって学童保育に迎えいくとか。夕飯の買いものも小走りだし。でも全力疾走って感じじゃないわねえ」千夏は網の上で焼けた松茸をひっくり返す。癖のある香りがぷんと鼻を突く。

「でしょ? 走らないもんなのよ、大人は。うわ、やばいわ、焼き松茸」顔をゆがめ、しばらく無言で箸を動かし、はたと正面から千夏を見つめる。「でもさ、私、見たのよね。全力疾走する女。あれ、負けたと思ったわ」

「何それ」焼けた松茸にかぼすを絞り、口に入れ、千夏は目を閉じしばし堪能する。

「私離婚するつもりなかったの。だって私のほうが立場強いじゃん。妻なんだし。前とおんなじことくり返すの、もう嫌だったし。裁判でもなんでも起こして、別れたりするもんかって思ってたの。そんでね、相手の女を呼びだしてもらったんだよね、夫に」

「ええっ」千夏は大声を出す。「知らなかった。修羅じゃん」

「そうだよ、修羅どんとこい、だよ。喫茶店でさ、私がいることは言うなって言って、呼び出させたの。その子を。子、っつったって三十五だけどね」

「年まで知ってる」

「ガラスばりの喫茶店で待ってたらさ、二十分か三十分か、向こうからターッと走ってくる子がいるわけ。すぐわかった。あ、あの子だって。その子は私がいるなんて思わない、夫に会えるのがもううれしくて、子どもみたいに夢中で走ってくるわけ。信号赤になってんのにターッて全力疾走。それで夫見つけて、にこにこして、手ふって。向かいに鬼みたいな形相の妻がいるなんて気づきもしないでさ、笑顔でまだターッて近づいてくる。あ、なんかもう、だめだわ、と思った」

「え、じゃ、そこで斬った張ったにはならなかったの」

「ま、ちょっとはなったけど、私はもういいやって感じだった。だってさ、そのとき思ったんだよ、私はこの人のためにあんなふうには走れないって」

「でも、その三十五歳だって、いつか走らなくなるよ」

「そうなのかな。わかんないな。だって私、結婚したときだってあんなふうには走らなかった」

 寛子が黙り、なんとなく千夏も黙る。仲居さんがおひつを運んでくる。炊き込みごはんの甘くやわらかいにおいがいっぺんに部屋を満たす。よそってもらった炊き込みごはんに歓声を上げ、寛子と千夏は食べはじめる。

「でもね千夏、私、また走るよ。電車も信号も走らないけど、私を走らせる男をさがす」

 仲居さんがいなくなるやいなや、寛子が真剣な面もちで言うので千夏は噴き出してしまう。

「私を走らせる男をさがすって、いったいどんなフレーズよ。よく言うわ、中年が」

「中年だって走るんだよ。中年が走るとなったら、こりゃもう相当な本気だよ」

 笑いながら、千夏はこの長年の友の、謎の不屈さにひれ伏したいような気分になる。そうして思い出す。中学のときのマラソン大会で、泣きそうな顔をして走っていた寛子のことを。さぼって歩く生徒が多いなか、決して走るのが得意なわけでもないのに、寛子はくそ真面目に走り続けた。自分もまた、もう嫌だと思いながらもくそ真面目に走っていた。走っているのに、歩いている生徒と変わらないくらい速度は遅く、ならば歩けばいいと開きなおることもできないでいた。

「ま、中年を走らせたら、たしかに相当な男だわね」千夏は言って、笑いだす。似たところのない自分たちが、なぜいっしょにいるのかなんとなく理解したような気になる。「でもさ、もう披露宴はやらないでよ。ご祝儀詐欺って本気で言われるよ」

「たしかに二度目は会費制にすべきだったね。あー、食べ過ぎた。おなかがくちい」

 座椅子を押しやり、寛子はごろりと仰向けになる。千夏も真似をして横たわる。蛍光灯が白々と明るい。

「あー気持ちがいい。片づけなくていいなんて、夢みたいだ」

「落ち着いたらもう一風呂あびてこようね」

 嫌だ嫌だと思いながら走っていたころに思い描いたような場所には、どうやら私も寛子もいない、と千夏はひそかに思う。寛子は結婚離婚とも、二度もするとは思いもしなかったろうし、私は本気で料理研究家になりたかった。今いるところがかつて目指した場所ではないとしても、でも私たちは走りやめることができない。ゆるゆると、ときに泣きそうになりながら、ときに徒歩組に抜かされながら、ときに全力疾走を夢見ながら、どこかわからないゴールに向けて、足を踏み出し続ける。

「今度の温泉はいつだろうね」

「そりゃ、正真正銘、私の独身最後の夜でしょう」

「三度目の正直か」

 千夏はちいさく笑い、よっこらしょ、とわざと声に出して言い、起きあがる。障子を開け、窓を開け放って空を見上げると、こぼれるように星が瞬いている。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 10月 02日 見上げれば満天の星 |



2009年9月 4日 (金)

第11話 はんぱな空の下



角田光代

 坂下麻里子は柄本浩の学生時代の後輩で、卒業後も一年に数度はともに飲んでいて、本人に言ったことはなかったが、浩は麻里子をちょっと好きだった。だか ら、坂下麻里子と山田健太郎の連名で、寿のシールが貼られた白い封筒が届いたとき、何がなんだかさっぱりわからなかった。山田健太郎はやっぱり浩の学生時 代、同級だった男である。

 結婚式の案内だった。狭苦しいアパートの部屋で、浩は何度も何度も書かれた文字を眺めた。コンビニで買ってきたビールがとうにぬるくなり、あたためてもらった弁当も冷え切ったころ、書かれた文字の意味がようやく理解できた。麻里子は健太郎と結婚するのだ!

 麻里子とは半年前に飲んだし、健太郎とは三カ月前に飲んだ。二人ともなんにも言っていなかった。交際しているとすら。と、いうことは、この三カ月に電撃的に恋に落ち、スピード婚というわけかと考え、そんなはずはないだろうと浩は自分につっこみを入れる。ごく自然に考えて、二人ともずっと前から交際していて、それを隠していたのだ。隠されていたことも傷つくが、こんなふうにいきなり招待状を送りつけられることもたいへんに傷ついた。水くさいし、腹立たしいし、だいたい非常識だ。

 浩はプラスチックの弁当箱をくるむラップを引きちぎり、弁当箱の蓋にはられたセロテープを引きむしる。その力が強すぎて弁当箱は斜めに傾き、メイン料理とも言える唐揚げが畳に転がり落ちる。が、動転しすぎていてそんなことはどうでもよく、畳に落ちた唐揚げに箸を突き立てて口に運ぶ。

 麻里子にも健太郎にも、ほかのサークル仲間にも決して言わなかったが、麻里子がサークルに入ってきたときから、いいなと思っていたのだ。なんだか恋人がいるようだったから本気で恋することはなく、浩もほかの女の子とつき合ったり別れたりしていたが、それでもやっぱり、坂下麻里子、いいな、と思っていたのだ。もし男の気配が消えたらコクってみようかな、なんて思いながら浩は大学を卒業し、食品会社に就職し、研修を経て営業部に配属になり怒濤の忙しさに突入し、思い出したように麻里子に連絡していっしょに飲み、麻里子にはやっぱり恋人がいそうだったのでコクることはなく、それから一年に数度飲むようになった。健太郎とはもっとしょっちゅう会っていた。健太郎は数年後に実家に戻って造り酒屋を継ぐべく、酒造メーカーに期限付きで入社していた。学生時代からなんとなく気が合って、卒業後もよく待ち合わせては、仕事や人間関係の愚痴を言いながら居酒屋で日付が変わるまで飲んだ。麻里子は大学を卒業すると希望していた玩具会社に就職し、浩が誘えば断ることもなかった。

 三カ月前にともに飲んだとき、いよいよ来年の春に実家に戻ると健太郎は言っていた。本当は三十歳まで丁稚奉公するつもりだったのだが、父親が脳梗塞で倒れたらしい。命に別状はないが未だ入院中で、早く帰ってこいとせかされたのだそうだ。健太郎の実家は新潟である。そんなに遠くないんだし、遊びにいくし遊びにこいよと、ある感慨を持って浩は言った。それなのに、そうか。麻里子を連れていくつもりだったのか。

 弁当に何が入っていてどんな順番に食べたのか、まったくわからないまま食事を終え、ユニットバスでじゃばじゃばとシャワーを浴び、「くそうっ」と浩は風呂場で低く吠える。

 くそう。いくもんか。結婚式なんていくもんか。馬鹿にしやがって。こそこそしやがって。麻里子、テメー仕事がたのしいって言ってたじゃんか。新潟なんていっていいのかよ。都内出身のおまえからしたら新潟なんて前人未踏の地くらいかけ離れたところだぞ。友だちもいないし、きっとすぐ健太郎父の介護だぞ。きっと離婚すんぞ。三十前で離婚すんぞ。ザマアミロ。そこまで考えるとようやく気分が落ち着き、というより、落ち着いたような気になって、浩は風呂から出た。

 裸電球に照らされた木目模様の天井を見上げ、はああとため息をつき目を閉じる。なかなか眠気は訪れない。少し開いた窓から風が入りこみ、夏場からつけたままの風鈴がわびしい音をひとつ、たてる。

 そうして今、浩は、子どものころにテレビで観た映画の、最後の場面を回想している。日曜日の午後にたまたま観ていた退屈な映画だ。映画の終盤、結婚式の最中にひとりの男が教会にあらわれ、花嫁を奪って走るのだ。二人は走って走って、たしかバスに乗る。バスに乗って見つめ合い、笑う。今、自分がそうすることを浩は夢想する。席を立ち、高砂席に座る麻里子の手を引いて、この披露宴会場を走り去っていくことを。会場を出たところにちょうどバス停がある。やってきたバスに、ドレス姿の麻里子と乗りこんで、くすくす笑う。

 もちろん夢想するだけで、浩は席を立つこともない。隣に座るかつてのサークル仲間と近況報告し、健太郎の親族が歌う長唄に顔をしかめ、コース料理のかたいステーキを咀嚼し、ワインをがばがばと飲み、白いドレスの麻里子とタキシードの健太郎を盗み見るように見遣る。

 麻里子を走って連れ出すわけがないことを、浩はわかっている。そんな大事を起こすほど愛し愛されていたわけではないし、忘れられない人でもないのだ。いいな、と思っていただけだ。そう、今までそんなに何かに夢中になったことが浩にはない。奪って走り去るほどほしいと思ったものはない。

 麻里子と健太郎はそんなふうに思ったのかなとちらりと考える。思ったんだろうな。だって新潟だし。健太郎に、ではなく、二人に対し猛烈な羨望を覚える。

 披露宴が終わったのち、浩は友人たちと会場を出る。二次会が、近くのレストランであるらしい。そんなに飲んだつもりはなかったのに、暮れはじめた道を歩き出したら、雲の上を移動しているようで、急激に愉快になる。浩は引き出物の入った馬鹿でかい袋を提げたまま、空いた手で隣を歩く同級生の手首をつかむ。おい、なんだよ、という声を無視して、手首をひっぱり走り出す。やめろよ、危ないよ、ひっぱられている友人は、臆病な子どものような声を出し、それがまたおかしくて、浩は空を仰いで笑う。空は、ピンクと水色の入り交じったような、中途半端な色だった。

 右手に提げた紙袋の角が、揺れてふくらはぎに当たって痛い。友人の手をつかんだ左手が汗ばんでぬるぬるする。飲んだ酒が胃で揺れ、食べたコース料理が喉元までせり上がってくる。愉快な気持ちは依然あるものの、なぜ走っているのかわからなくなる。それでも浩は止まらない。花嫁姿でもない、酔って赤い顔の同級生を引き連れて、ただ、止まる理由が見つけられずに走っている。

 いちばん面倒なのはこういうことだ、と、酔った頭で急に悟ったように浩は思う。本気になれないことだ。好きだと言えないような淡い気持ちを抱くことだ。自分で何も、決めないことだ。そういうのがいちばん楽そうで、いちばんたいへんなんだ。自分の力で終えることができないから。

 浩は友人の手を離し、電信柱の陰にまわりこみ、背を折り曲げて、吐く。

「馬鹿だなあ、何やってんだ、いい年して」

 息を切らしながら言い、友人は浩の背をさすってくれる。

 ほんと、何やってんだ、いい年して。

 なあ、この先、何かに夢中になれることがあるかな。走って奪いたくなる何かを、見つけることができるかな。背をさする友人にでも、麻里子にでも健太郎にでもなく、浩は胸の内で問う。答える声はしないが、問い続ける。

「どうする、二次会いくのやめて帰るか? タクシーつかまえようか?」友人に訊かれ、
「いや、いく」唾を吐き、浩は姿勢を正す。「おれ、まだおめでとうって言ってない」
奪えないけど、いく。おめでとうって言いに、いく。友人に向かって、浩はにっと笑ってみせる。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 09月 04日 見上げれば満天の星 |



2009年8月 7日 (金)

第10話 その何倍も



角田光代

 妻と娘があんまりにも泣くものだから、立花真一郎は泣けなかった。妻と娘があんまりにも落ちこむものだから、やっぱり真一郎は落ちこみ損ねた。新しい犬を飼えばユキのことなんて忘れるよ、と二人をなぐさめるために言ったのに、ものすごい形相でにらまれ、挙げ句、数日、口をきいてもらえなかった。

 同僚が、子どもが勝手に犬を拾ってきたがマンションでは飼えず困っていると言い、当時建て売りの一軒家を買ったばかりだった真一郎は、じゃあおれが引き取ると言い、そのようにしてユキは立花家にやってきたのだった。娘の由花はまだ四歳だった。ユキ、という名は妻のなり子がつけた。子どものころに見ていたアニメ番組の、山羊の名らしい。

 真一郎はユキをべったりかわいがっていたわけではない。そもそもユキがきたときから、かわいがりすぎないように真一郎は自分に言い聞かせていたのだ。子どものころに猫を飼っていたから知っている。こいつらは人間より短命なのだ。あんまり深入りすると死んだときにとてつもなくかなしむ羽目になる。真一郎は、それをなり子にも由花にも言って聞かせた。が、もちろん無駄だった。なり子も由花もユキに夢中になった。

 ユキがやってきてから十五年。新築だった家はだいぶくたびれ、由花は大学生になり、金沢に住むなり子の父も母も亡くなり、千葉に住む真一郎の母も亡くなった。ユキがぼけはじめたのは去年だった。名前を呼んでも反応しなくなり、部屋の隅にうずくまって吠えたり、ぐるぐるまわるようになった。犬の痴呆だと動物病院で聞かされて、なんの予備知識もなかった真一郎は犬もぼけるのかと驚いた。投薬とフードで治療をはじめ、一時的によくなったものの、今年に入ってからは眠ってばかりいるようになった。

 梅雨入り宣言の出た一カ月ほど前、もうほとんど家族の呼びかけに返事をしなかったユキが、なり子の呼び声に「キャン」と答えた。また一時的にせよよくなるかも、と家族みんなが思った矢先、眠るように息を引き取った。かわいがっていたつもりはないのに、やっぱりこたえた。どうしたってユキは家族の一員だったのだと、真一郎は思い知らされた。

 もう一カ月もたつのに、家のなかは灯が消えたような状態が続いている。真一郎が仕事を終えて帰ると泣き腫らした目のなり子と由花がしょぼくれて食卓におり、その食卓にはほとんど手のつけられていない出来合いの総菜が並んでいる。真一郎だって泣きたかった。でも、一家三人で泣き暮らしているわけにもいかないではないか。父親が率先して泣き出すわけにもいかないではないか。それで「新しい犬」案を、張り裂けそうな気持ちで出したというのに。

「夏の旅行、キャンセルするか」その日、ビールを飲み、出来合いの総菜をつまんでいた真一郎は、思いきって言った。夏の旅行は半年前から予約してあった。犬も泊まれる伊豆のペンションで、これがユキとの最後の旅行になるかもしれないからと、とうの昔に家族旅行に参加しなくなった由花も参加表明をしていた。「ほかの宿泊客は犬連れできているんだろうし、見るのもつらいだろう。明日キャンセルの電話をしておこうか」また無視されるかな、とちらりと思ったが、
「いく。ねえ、いこうよ」由花が顔を上げ、真一郎となり子を交互に見て、言った。

 ◇ ◇ ◇

 南伊豆のペンションの宿泊客は、予想通り犬連れの家族ばかりだった。犬連れでないのは真一郎たちだけだった。ペンションの広大な庭はドッグランと化し、大小種々さまざまな犬が長短の毛をなびかせて走りまわっていた。見ればかなしくなると決まっているのに、なり子も由花も、ペンションに併設されたカフェの屋外席から、それをじっと眺めている。真一郎が風呂に浸かって出てきても、まだ同じ位置に座っている。犬連れもOKなカフェの喫茶店に、ユキはいないのではなくて、そこにはユキの不在があった。ユキの不在は実際のユキよりよほど馬鹿でかく、なり子と由花の真ん中にどっかりと腰を下ろしていた。

 真一郎は唐突にいたたまれない気持ちになり、犬が走りまわる広大な芝生へと躍り出ていた。ビーチサンダルを脱ぎ捨て、風呂上がりの短パンとTシャツ姿で、犬のように走り出す。そんなことはしたくないのに、気持ちと裏腹にじっとしてはいられないのだった。遮二無二芝生を走りまわる男に向かって何頭かの犬が吠え、何頭かの犬が尻尾をふりながら追いかけてくる。走っているうち、真一郎はまざまざとかなしくなってくる。かわいがらないと決めていたユキの、それでも愛くるしい表情や仕草、やわらかさやあたたかさ、顔にかかる鼻息や目と目のあいだの太陽のにおいが次々と思い返されてくる。人の目も犬の目も気にせずに真一郎はひたすら走る。かなしみから逃れるように、かなしみを引き離すように、走る。

 このくらい早く走れるって思った、その何倍も早く走れた。ふと、真一郎の胸の内でだれかがつぶやく。このくらい思い切り走れるって思った、その何倍も思い切り走った。このくらい気持ちがいいって思った、その何倍も気持ちよかった。だから、ありがとうね。

 ユキだ! 走りながら真一郎は気づく。ユキがぼくにのりうつってユキがぼくの心んなかでつぶやいているんだ! おい、なり子! 由花! おれ、今、ユキだぞ!

 走りながら真一郎は、カフェに座る妻と娘に向かって両手を大きくふってみる。二人はぼんやりした顔つきで真一郎を見ている。キャンって泣いた、あの最後の声は、痛いでも苦しいでもかなしいでもない、ありがとうだったって、わかった? ねえ、わかった? おい、なり子、由花、聞いてるか、ユキが、ユキが。真一郎はまっしぐらに妻と娘の元に駆けていく。なあ、今、おれ、ユキだぞユキ。無我夢中で走り、彼女たちのテーブルにたどり着いてゼエゼエと荒い呼吸をする。声が出ない。表情のまるでなかったなり子と由花の顔に、ゆっくりと笑みが広がる。それを確認するやいなや、真一郎は仰向けになった。もう、いい年して何馬鹿をやってるの。恥ずかしいよ、みんな見てたよ。なり子と由花は口々に言う。真一郎も笑った。頭上に広がる雲ひとつない青い空に、ゆっくりゆっくり、ユキが駆け上がっていくのが真一郎には見える。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 08月 07日 見上げれば満天の星 |



2009年7月 3日 (金)

第9話 ときどき休戦



角田光代

 福丸豊子が走るのは、週に三日のランチタイムと決まっている。豊子の勤める印刷会社の昼休みは、きっちり十二時にチャイムが鳴る。十二時前に席を立って も上司に叱られることもないが、みんなチャイムが鳴り終わるまで席にいるので、豊子もじっと座っている。キンコンカンコン、の、コンが長く響くなか、豊子 は素早く立ち上がって、走る。

 エレベーターはこの時間混んでいるから、三階ぶんの階段を駆け下りる。会社の敷地を走り、門を出て走り、商店街を走る。走る豊子を見かけたことがある人は、一様に口を揃えて「すごい」と賞賛する。「あんなに速く走れるなんて、本当にすごい」と。

 実際速いわけではない。ただ豊子は、就職してこの二十五年で、何の因果かぴったり勤続年数と同じだけキロ数を身につけたから、「見かけにしては速い」という判断だろう。

 速くもなるわ、と豊子は思う。だって一目散にいかないと、大和屋の天むす弁当が、とられてしまうんだもの。

 このあたりは会社が多いので、商店街の食堂ばかりでなく喫茶店も居酒屋も総菜屋も、ランチを出したり弁当を売ったりする。弁当を買う人、ランチメニュウをのぞきこむグループで、商店街はにぎわっている。人波に邪魔されるのがいやで、豊子は車道に下りて走る。クラクションを鳴らされてもかまわず走る。そして向こうに、ああ、やっと大和屋が見えてくる。

 大和屋はカウンター席だけの天ぷら屋で、夜しか営業していなかったのが、つい最近、週に三日だけ天むす弁当を売るようになった。えび天の入ったおにぎり三つに、卵焼き、野菜の煮物、お新香がついて七百円。卵焼きも煮物もおいしいが、天むすは唖然とするほどのうまさなのだ。それが千円しないのである。豊子は週に三日、大和屋まで走っている。それだって天むす弁当を入手できるのはせいぜい週に一度。うまさに唖然としているのは豊子ばかりではないらしい。十一時半から昼休みだったり、好きな時間にランチに出られたりする会社の人たちが、豊子がたどり着くより先に買っていってしまうのである。

 店先のワゴンに、たったひとつ天むす弁当が残っているのが数十メートル先から見て取れる。ああよかったと思ったその瞬間、逆方向からやっぱり走ってきた紺の制服姿の女が、それを手に取ってしまう。その手の上に視線を移すと、やっぱり。やっぱりそうだ。狐女。名前も会社も知らないが、すらりと背の高い痩せた女で、しょっちゅうこの時間に大和屋の前で出くわす。彼女の会社も十二時ジャストに昼休みになるらしく、彼女もいつも走ってくる。品切れのこともあるし、見知らぬ人に先を越されることもあるけれど、五回のうち二度は、豊子はこの女に負けている。切れ長の目につんと上を向いた鼻、自分と正反対の彼女に、狐女と豊子はこっそり命名している。

 弁当をとられたショックに立ち尽くす豊子を、狐女はちらりと見遣る。そんなはずはないのだが、ニヤリと勝利の笑みを浮かべた気がし、豊子の体からさらに力が抜ける。

 弁当を買って去っていく狐女の背をいじましく見送って、豊子はとぼとぼときびすを返す。何を食べるかさんざん迷って混乱し、そんなに食べたくもない冷やし中華をコンビニエンスストアで買って会社に戻る。

 豊子ははっきり狐女に敵意を持っている。天むす弁当を五回のうち二度奪われているからではない。五年前、離婚の原因になった女とよく似ているのである。長身、細身、狐顔。なぜ知っているかといえば、持ち出された離婚話に豊子がうんと言わないでいたら、話し合いの席に夫が連れてきたのである、この人といっしょになりたいのだと。狐顔の女はずっとうつむいていた。ごめんなさいと蚊の鳴くような声で言った。私が太らなかったら夫は浮気しなかったかなと、考えても詮無いことを考えて、離婚を承諾した。狐顔の女は、喫茶店のテーブルに額がつくほど頭を下げて、豊子はなんだか彼女が気の毒になった。そんなに頭を下げるほどの男ではないよと、教えてあげたかった。

 自分で想像していたよりダメージは少なかった。子どもはいなかったし、結婚前から続けている仕事もある。久しぶりのひとり暮らしはたのしかった。女友だちと時間を気にせず飲める。気兼ねなく温泉旅行もできる。かつて結婚していたことを、ときどき忘れそうになる。

 それなのに、昨今、思い出すのである。あの狐女に残りの弁当をとられるたび、思い出すのである。別れた夫の声も顔もおぼろげだというのに、何かたいせつな、いやたいせつだと信じているものを、近しいと思っているものを、自分の一部のように思いこんでいるものを、毎回毎回、横取りされている気分になる。馬鹿げているとわかっている。だって狐女は知らない人だし、彼女は横取りどころかじつに正統的に弁当を買っているだけなのだし、そもそも、彼女が手にしたのは男でも夫でもない、天むす弁当なのだ。

 なんとなく狐女と天むす弁当を争っているのがいやになって、梅雨入りで雨続きなのも手伝って、二週間ほど豊子は弁当を持参していた。が、二週間後、まるで中毒のように天むす弁当が食べたくなり、昼休憩のチャイム終了とともに席を立ち、傘をさして商店街を走った。
「品切れでしたよ」急に声をかけられ、あまりに驚いて豊子は傘を落としてしまう。傘を拾って差し出すのは、あの狐女である。「大和屋さんでしょ? 今日は品切れ」と言って、笑っている。財布しか持っていないのを見ると、狐女も買えなかったのだろう。「どうですか、お昼、ごいっしょに」突然言われ、豊子はぽかんと口を開けて狐女を見上げる。「おいしい定食屋があるんですよ。天むす弁当には及ばないけれど」狐女は笑う。笑うと目が細くなって、きつく見える顔立ちが観音さまみたいになると豊子は思う。

 定食屋のカウンターで並んで、豊子は狐女に勧められた生姜焼き定食を食べる。生姜焼きも、小鉢の煮物もサラダも味噌汁も、たしかにおいしい。何よりごはんがきりっと立っていて、ほのかに甘くてすばらしい。おいしい、と思わずつぶやくと、「でしょう」得意げに狐女は言った。
「私がおいしいと思うものは、きっとあなたもおいしいと思ってくれると思ったの」と、ちいさく言い、恥ずかしそうに笑った。たしかにそうだ。天むす弁当を必死に争っている二人なんだから、味覚が似ていて当然だ。「生姜焼きの次のお勧めは鰺フライ定食なの。こんど試してみて」

 壁に貼ってある黄ばんだお品書きを眺め、豊子はうなずき、うなずいたとたんに片目から水滴がぽとりと落ちる。そのことに豊子も驚いたが、狐女はさらに驚いたようで、
「ごめんなさい、いきなり誘ったりして。びっくりするわよね」あたふたと言う。
「ちがうの、あの、おいしくて」豊子は言って、笑おうとする。もう片目から水滴が落ち、泣き笑いになる。

 本当はこんなふうに話したかったんだと、ふいに豊子は理解する。五年前だ。深く頭を下げた細身の女と。ねえ、この人のどこが好き? あらそう、私はそういうとこ苦手。あなたって痩せっぽちなのにおおらかね。そうね、彼の楽観的なところは私も好き、救われたこともあったわね。そうそう、そういうところは、ちょっとどうかと思うくらい傷つきやすいわよね、大人なのにね。そんなふうに話して、そうして豊子も頭を下げたかった。この人をどうぞよろしくね。うんとたいせつにしてあげてね。そう言って、彼女に負けないくらい深々と頭を下げたかった。だって、二人ともおんなじくらい好きになった人なんじゃないか。そう、気の毒に思ったなんて、せいいっぱいの強がりだったんだ。豊子ははなをすすり上げ、隣に座る狐女に笑いかける。

「こんど、私のお薦めの店も案内するわ。もし、天むすにあぶれて、またばったり会ったら」
「そうね、たのしみにしてる」狐女は言った。

 べつべつに勘定を払い、名乗らないまま店の前で別れた。別れ際、これからも本気で闘いましょうと言おうとして、言わなかった。そんなこと言わなくとも、彼女は全力で走ってくるだろうと思った。私だって全力で走る。ほしいものにまっすぐ手をのばして。雨があがっていることに気づいて、豊子はあわてて傘を閉じる。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 07月 03日 見上げれば満天の星 |



2009年6月 5日 (金)

第8話 走ること、走らないこと



角田光代

 ホームに続くエスカレーターに岩井智世が乗ったとき、二番線に電車が参りますとアナウンスが聞こえてきた。ああ、電車、きたんだと思いながら、智世は動 くことをせず、そんな自分にびっくりする。昨日まで、人の立っていない右側に移動し、一気にエスカレーターを駆け上がった。いや、昨日までエスカレーター すら使っていなかった。右側に人の列ができてちんたらとしか進まないこともあるから、アナウンスや電車の音が聞こえると階段を一段抜かしで駆け上がってい たのだった。

 走れば間に合うと思いながら、体が動かない。昨日までの自分のような人たちが、エスカレーターの右側をひょいひょいと駆け上がっていく。電車がホームにすべりこむ音がする。走ろうよ、と自分に言ってみるが、智世の足は動こうとしない。

 ホームにたどり着くと、ちょうど電車が走り出すところだった。智世はホームに突っ立って、走っていく電車を見送る。そういえば、こんなふうに見送るのは、はじめてだなと気づく。

 ほしいものは自分の手でつかむしかないと、智世は弱冠五歳のときから思っていた。その年に弟が生まれたのだった。相手が察してくれたり、問題解決してくれるのを待っているだけでは何もならない。何かほしいときは大声でほしいと言い、聞き入れられなければ声を張り上げてほしいと泣き叫ばねば、何も手に入らない。幼少時からずっとそう思ってきたし、実際智世は、ほしいものはそうして手に入れてきたのだった。ほしいもの――それはときには親の関心であり、物品であり、進学先であり、親友であり、恋人であり、貯金であり、仕事である。何から何まで手に入ったわけではないが、でも、友人にせよ恋人にせよ進学先にせよ就職先にせよ給与にせよ、今手元にあるものは、偶然降ってきたものでもなければ運命的にそうなったのでもない、ほしいとのぞんでみずから手に入れたものだと、二十九歳の智世は信じている。

 砂に埋めた旗は、だれよりも速く走っていかないと、自分のものにはならない。それが智世の信念だった。昨日まで。

 智世の勤める子ども服メーカーでは、異動の内示は三月にある。智世は内示を受けなかったので自分とは無関係だろうと当然思っていた。けれど四月も半ばを過ぎた昨日、突然、商品管理部への異動を通達された。商品管理部。耳を疑った。社員たちはその部を陰で「隔離病棟」と呼んでいる。仕事ができるとは言い難い社員や、定年間近な老社員たちばかりで構成された部で、仕事といえばひたすら、発注された商品の数と卸した商品の数をコンピュータに打ちこみ、間違いがないかを確認するのみ。他の部署とのつながりもなく、社外に出向く用事もなく、そこだけ隔離されたように孤立する、地味でさえない部なのである。営業部にいた智世の成績は、自身で客観的に見ても決して悪くはなかったし、大きなへまもしていない。物理的にも精神的にも、走って、走って、走ってきたのだ。夏に人事部の上司にランチに誘われたとき、商品企画部で働くのが夢だと熱く語り、上司は智世の働く姿勢を褒めてくれた。なぜいきなり隔離病棟なのか。もしかして、上司、「商品企画部」と「商品管理部」を聞き間違えたのか。

 五時半の終業を待って、智世は人事部の上司の元にいった。無礼を承知で異動の理由を訊くために。

「まだ若いんだし、いろんなことを体験するのもいいと思って。とくにきみは、いつもあわてすぎだから、ああいうのんびりしたところは学ぶことも多いよ」と、上司はメロンパンを食べながら言い、「昼めし、取り損ねちゃって」と照れくさそうに笑った。

 帰り道ですでに走る気力がなかった。隔離病棟。老いた社員と役立たずに囲まれて隔離病棟勤務。いったいなんのために走ってきたのか。だれよりも速く、と自分に言い聞かせてきたのか。恋人に電話をして愚痴ろうかと思ったが、そうする気力もなかった。

 いつもより十分ほど遅く、会社の最寄り駅に着く。大勢の乗客とともに自動改札をくぐり、智世は会社へと歩き出す。数十メートル先で青信号が点滅していても、智世はもう走らない。

 横断歩道の前で信号待ちをするのもずいぶんひさしぶりだった。道路沿いに植えられた木々の緑が、いつのまにかずっと深くなっている。おだやかな風にあおられて、白い葉裏を笑うようにのぞかせている。横断歩道を渡ったところに、新しいドーナツ屋ができていることに気づく。始業までまだ余裕はあるし、ドーナツ、食べていこうかな。好奇心やわくわく感というよりは、やけばちな気分で思う。

 青になった信号を渡り、窓際にカウンター席のあるドーナツ屋に入る。カウンター席には女の子がひとり座っているだけだった。雑誌を読みながらドーナツを食べている。ドーナツとアイスティを買い、智世もカウンター席に座る。ガラス戸から信号待ちをする人たちが見える。もっちりした生地のドーナツを食べながら、智世は信号を待つ人たちを見るともなく見る。青になると、最前列にいた数人が競歩のような早足でこちらに向かってくる。うらやましい、と彼らを見て智世は思う。この人たちには急ぐ用がある。急ぐ理由がある。

 のんびりしたところで何を学ぶのか、智世にはわからない。ちんたら歩いていたら、砂に立てた旗はだれかにとられちゃうじゃないか。

 ドーナツを食べ終え、アイスティを飲み、智世は席を立つ。実際に異動するのは連休後だが、なんだか最後の一滴までやる気はしぼりとられたような気分だ。

 店を出たとき、横断歩道を渡る人々のなかに、見知った顔を見つけた。昨日智世が異動の理由を訊きにいった、例の上司である。ずいぶんのったりと信号を渡っている、と思った矢先、彼のかたわらに小柄な老婦人がいることに智世は気づく。大勢が足早に信号を渡るなか、上司は老婦人の手を握り、彼女の速さに合わせて歩いているのだった。あんまり真剣な顔をしているから、上司は貴婦人をエスコートする少年みたいに見えた。

 すべての人が信号を渡り終え、老婦人と上司だけが横断歩道上に取り残される。青信号は点滅し出すが、二人はちょうど真ん中の中央分離帯を過ぎたばかり。店を出たところで立ち止まり、智世ははらはらしながら二人を見守る。速く、速く、速くしないと赤になっちゃう。智世は胸の内で叫ぶが、老婦人はゆっくりゆっくり歩を進め、上司もそれに合わせてそろそろ歩いている。

 信号は赤になってしまう。一台の車がクラクションを鳴らし、すると上司は眉間にしわを寄せ下顎を突き出して、その車の運転手にガンを飛ばしている。クラクションがやむ。木々の緑が風に揺れている。智世の足元で、木々の影がレース模様を作っている。やわらかい午前中の風に、ドーナツの甘いにおいと、それとはまったく種類の異なる、何かの花のあまやかな香りが混じっている。

 ようやく二人は横断歩道のこちら側にたどり着く。二人の背後で車が走り出すのが、スローモーションのように智世には思えた。老婦人は丸い背をさらに丸く折り曲げて上司に向かって幾度も頭を下げ、ドーナツ屋の前を、ゆっくり、ゆっくり通りすぎていく。

 おはようございます、と、智世はにやにや笑いで上司に声をかける。おう。短く答えて歩く上司に歩を揃える。

 もういいや。智世は唐突にそう思う。もう走らない。走ってなんかやるもんか。ずっと歩いてやる。ずっとちんたら歩いてやる。そうすることでしか手に入らないものも、きっとあるはずなんだ。

「そこのドーナツ、意外においしかったですよ」隣を歩く上司に声をかけると、
「京都から取り寄せたおからを使ってるからな」真顔で返されて、智世は思わず笑い出す。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 06月 05日 見上げれば満天の星 |



2009年5月 1日 (金)

第7話 十四歳



角田光代

 変装は、駅のトイレですませた。芳恵がトイレを出ると、夫の幸泰もちょうど男子トイレから出てきた。ストローハットにサングラス、ラッパズボン。へんす ぎる。そのことを指摘すべきかどうか芳恵は迷い、結局言わないことにする。金髪かつら、花粉用でかマスク、ミニスカートの自分だって、へんすぎるはずなの だ。幸泰と芳恵は真顔でうなずきあい、トイレを背に歩き出す。

 コースはずっと先のはずだが、駅前ロータリーからすでに人でにぎわっている。ボランティアスタッフが配っている無料地図を受け取り、それを見ながら幸泰と芳恵は人混みをくぐり抜け、先へと進む。

「もうスタートしたわね」腕時計を確認し、芳恵は重々しく言う。

「計画通り、まず十キロ地点に向かおう」幸泰は地図を指さす。

 ゴールデンウィークも半ば過ぎた今日、この町ではマラソン大会が行われている。そうして幸泰・芳恵夫妻のひとり息子である亮太が、出場しているはずなのである。彼が嘘をついたのでなければ。

 駅から桜並木が続いている。地図によると、地元の小学校グラウンドからスタートするコースは、駅から直進すること約一キロ、川を渡ったところで右折するあたりが十キロ通過地点になっている。町をあげてのお祭りなのだろう、とうに桜の散った桜並木はコースでもないのに、商店街の屋台が並び、応援客でにぎわっている。ビールにも、イカ焼きのにおいにもつられることなく、幸泰と芳恵は黙々と歩く。

 亮太が学校にいかなくなって九カ月になる。去年の一学期までは、ごくふつうに通っていた。ところが、中学に上がってはじめての夏休みが終わると、学校にいかなくなった。最初は腹が痛い頭が痛いと仮病を使っていたが、そのうちそんなことすらもしなくなった。学校にいきなさいと幸泰や芳恵が言うと、うん、と言う。教師や同級生が訪ねてくると、意外なことににこにこして相手をする。明日はくるよな、と言われれば、うん、とうなずいている。けれど次の日、自室から出てくることはない。そのくりかえし。

 最初こそ、説得を試みたり対策を練ったり、夫婦で額を合わせて話し合っていたが、冬休みが近づくと、亮太が家にいることに慣れてしまった。暴力をふるうわけでもない。食事の席につかないことも多かったが、部屋に食事を運べばきれいに平らげる。話しかければ短くではあるが、答える。そんな亮太に慣れることはたやすかった。芳恵もちいさな広告会社で働いていたから、亮太の昼食を準備して、さっさと仕事に向かった。

 二年に進学するときは、さすがに夫婦そろって学校に相談にいった。けれど新担当と旧担当の教師は、神経科にかかることを勧めたり、フリースクールへの転校をほのめかしたりするだけで、とくべつ効果的なアドバイスはしてくれなかった。なんなの、あの人たち。要らないものは即排除か? 腐ったみかんじゃあるまいし。あれでも教師? 二人で口々に学校と教師を罵りながら、学校から駅へと続く道を歩いた。桜が満開だった。真新しい制服を着た新一年生が、陽射しみたいな笑い声をあげて通り過ぎていった。学校にいけなくなった亮太を見捨てようとする教師と、自分たち両親だってそう変わらないことに、芳恵は気づいた。

「逃げてたね、仕事に。私もあなたも」そう言うと、うん、と幸泰は、二十代のころを思い出させるような顔つきでうなずいた。

 逃げまいと、いろいろやってみた。話し合おうともした、交換日記もメール交換もやってみようとした、せめて一日一食は家族で囲もうとした。けれどことごとく失敗した。失敗したと、思っていた。すっかり葉桜になるころ、フルマラソンに出ると亮太が言いだすまでは。

 十キロ地点にようやくたどり着く。ここも、人、人、人である。まだ第一走者の姿も見えないと言うのに、天使やナース、パンダや禿げ親父の仮装をした人々が、出場者の名を書いた横断幕や旗をふり、太鼓を鳴らしている。自分たちの奇妙な変装が、まったく目立たないことに芳恵は安堵し、人と人の隙間をぬって最前列へ出ようとする。

「あんまり出ると、見つかるぞ」

「そうだけど、見失ったら困るじゃない」

 そう言いつつも、芳恵は半分はまだ疑っていた。おれフルマラソンに出るよと、声変わりした太い声でぶっきらぼうに言った亮太は、家を出たものの、いやになって会場へはいかなかったのではないか。今ごろ、駅近辺のゲームセンターで遊んでいるのではないか。そうなることを自分でも予想していて、だから、でもぜったいに見になんてくんなよ、とものすごい形相ですごんだのではないか。

 応援がいっそう激しくなり、顔を上げると、第一走者とそれに続く数人が走り抜けていくところだった。なんと速いのか。サングラスを額に押し上げ、芳恵は目を見開いてランナーたちを見送る。十五分ほど過ぎると、走る人の姿は一気に多くなり、応援はさらにヒートアップする。芳恵は目を凝らして亮太の姿をさがす。いない。いない。いない。通過するランナーはどんどん増えていく。

「見つけたら教えてよ」隣に立つ幸泰に言う。「おまえもな」幸泰も真剣な声で返す。

 だんだん走る人の数は少なくなってくる。腕時計を確認すると、スタートから一時間十五分経過したところだ。たしか、二時間以内にここを通過できないと、制限時間切れで棄権しなければならない。間に合うか。間に合うか、亮太。芳恵は幸泰の手をかたく握りしめる。幸泰の手は汗で濡れている。いや、汗ばんでいるのは自分の手か。亮太が走っていることを露とも疑っていない自分に気づく。そうだ、あの子は、やると言ったことはやる子なんだ。

 ほとんど歩いているような老人、仮装したものの衣装が重すぎるらしいピンクのうさぎ、いやいや出場しているようなメタボ中年たちが、よろよろと十キロ地点を通り過ぎていく。応援客は次の応援地点に向かったらしく、ほとんどいなくなっている。そんななか、芳恵と幸泰はかたく手を握りしめて、じっとその場に突っ立っていた。あと二十分で制限時間になってしまう、と芳恵が思ったそのとき、向こうから走ってくる亮太の姿が見えた。Tシャツに、寝間着代わりにいつも着ているジャージ。だんだん近づいてくる。首が上がり、肩はいかり、フォームはめちゃくちゃで、それでもまっすぐ前を見据える目にはまだ力があることが、芳恵には見て取れる。汗で頭髪はぐっしょり濡れ、Tシャツは上半身にはりついて、乳首が透けている。ああ、亮太が走ってる。そう思ったとたん、走る亮太の姿が霞む。涙がぼたぼたと頬を伝って落ちる。わああああん。懸命に堪えても声が出る。わああああん。芳恵は両手で涙を拭いながら声をあげて泣く。「見つかるぞ、おい」と言う幸泰も、すでにしゃくり上げている。

 何をするにも遅かった。クレパスでみんな絵を描きはじめても、クレパスをじっと眺めている。みんなが描き終わるころ、ようやくそろそろと画用紙に向かうのだ。手を洗う順番だって、人に譲ってばっかりで、いつもビリ。ゆっくりゆっくり石鹸を泡立てて、リョウちゃんもういいからね、って保母さんが困ったように言っていたっけ。ブランコからいつまでも降りてこないから、早くしなさいって思わず怒鳴ったら、足元に蟻がいるから降りられないと言って、泣いたのだ。地面に足をついて蟻を殺すなんて、あの子はできなかったのだ。そういう子なのだ。やさしくて、時間がかかって、ひとりきりで静かに何かと闘って。

 十四歳。私もそうだったと芳恵は思い出す。学校へはいっていた。けれど何もかも嫌いだった。親も友だちも先生も。そして何より、自分自身がいちばん嫌いだった。でもそういう時期がなければ、私たちは脱皮できないんだろう。あまやかな子どもの殻は、もがいて脱ぎ捨てるしかないのだ。変装した夫婦の前を、彼らには目もくれず汗まみれの十四歳は通り過ぎていく。よたよたと格好悪く、たよりないが、それでも着実に前へと進んでいく。静かに、静かに、闘っている。

 わあああああん。ミニスカートをはいていることも忘れ、芳恵はその場にしゃがみこみ、道路に突っ伏すようにして泣く。おい、ほら、立て、と、やっぱり泣き声の幸泰が芳恵を立たせる。抱き合って泣く。がんばれがんばれ亮太。抱き合ったまま、もう声も届かないだろう後ろ姿に向けて、思い出したように声援を送る。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 05月 01日 見上げれば満天の星 |



2009年4月 3日 (金)

第6話 彼女のうしろ姿



角田光代

 JRの駅からふた駅、いつも地下鉄を使う近藤恭子が、その日バスに乗ったのは、さほど空腹ではなかったからだった。いつもはJR駅に降り立つと、気が遠 くなるほど腹が減っていて、地下へ続く階段を、行き交う人をなぎ倒す勢いで走り下り、三分間隔でやってくる地下鉄に飛び乗る。信号待ちや気まぐれな渋滞 で、ちんたら進むバスになど、到底乗っていられないほどの空腹なのである。

 しかしその日は余裕があった。四時ごろ、出張から帰ってきた同僚から、饅頭の差し入れがあったのだ。バスは空いていて、恭子はなかほどの席に座り、すっ かり陽の暮れた窓の外を眺める。商店街の明かりがはじけている。帰宅途中の会社員や、レジ袋を提げた女たちが歩道を行き交う。こんなふうなのもいいな、と 恭子は窓ガラスに額をつけて思う。腹減った腹減ったと、呪文のように胸の内でくり返しながらぎゅうぎゅうの地下鉄に乗るのではなく、こんなふうにのんびりバスに乗るのもいいな、と。

 バス停を三つ過ぎ、商店街の切れ目にさしかかったあたりで、バスは渋滞に巻きこまれ、のろのろとしか進まなくなる。それでも恭子は苛つくこともなく、ほとんど見慣れない車窓の景色に見入っていた。そうして、日暮れの道を走る女を見た。若くもなく、かといって老いているのでもない。四十代半ばくらいだろうか。住宅街のほうから走ってきた女は、そのまま商店街へと向かう。恭子は振り向いて女を目で追った。人にぶつかっても気に留めることもなく、まっしぐらに走っていく。バスが走り出すより先に、走る女の背は人波にまぎれて消えた。

 知っている人ではなかった。恭子が振り向いてまで凝視してしまったのは、走る姿が異様だったからだ。商店街を全速力で走っている人なんてまずいない。しかも女は手ぶらで、カーディガンにスカート姿、足元はサンダル履きだった。四月も間近とはいえ、夜はまだ冷える。

 なんで走ってたんだろ。恭子は考える。自分が走る理由は、空腹が耐え難い、くらいだが、そんなわけでもなかろう。さらに、走る女の表情には、葱を切らしたから買いにいかなくちゃ、とか、さっきの店で釣り銭をもらい忘れたわ、とか、そんなような日常的用事とは無関係の切実さがあった。

 バスが走り出す。それを合図のように、ちらりと記憶が視界をかすめる。忘れ去られ、埃をかぶったように淡い記憶。

 あのとき私は何歳だったのだろう、と恭子は考える。四歳か、三歳だったか。昼間で、家に母といたのだから、幼稚園にはまだ通っていなかったのだろう。記憶は、音のない細切れの映像である。電話をしている母の後ろ姿、スカートからのびた白い脛、後ろでひとつに結んだ黒髪。しゃがみこみ、幼い娘に短く話しかける母の顔。髪をとき、食器棚のガラスを鏡がわりに口紅を塗り、そうして母は、小走りに玄関に向かう。恭子はあとを追う。ゆっくりと閉まる玄関の扉の向こうに、走っていく母のうしろ姿がある。ああ、置いていかれたと感じたことを恭子は思い出す。火がついたように泣いたことも。

 飴玉を舐めるように思い出していくうち、細切れの映像からは埃が払われ、母のうしろ姿も、ゆっくり閉まる玄関の戸も、次第に鮮明になる。そして恭子は、住宅街を走るバスのなかで、あたらめて疑問を抱く。あのとき、母はあんなにちいさな子どもを置いて、どこにいったのだろう? 何をするために、あんなにあわてて出かけていったのか? 父が事故にあったようなことはないはずだし、それこそ、葱や醤油が切れたから買いにいく、というような顔つきでもなかった。さっきの女とよく似た切実が、母の顔にははりついていた。

 ただいまあ、と言いながら玄関の戸を開けると、揚げもののにおいが鼻を突く。今日の晩ごはんは天麩羅らしい。おかえりい、と台所から母の声が返ってくる。

 父のまだ帰らない食卓で、母と向かい合って食事をはじめる。ねえ、あのとき、走ってどこにいったの、と恭子は幾度も訊こうと思うが、言葉はうまく出てこない。母はいつもの通り、今日あったことを数珠繋ぎ的に話している。煮魚にしようと思ったんだけどカレイが高くて、鰺なら安かったんだけど塩焼きっていうのもどうかと思って、そしたら八百屋の店頭に山菜が並んでいたから天麩羅にしたの、それで八百屋を出たところで高松の奥さんにばったり会って、そしたら羊羹一本もらっちゃって……。

「今日ね」果てしなく続く母の話を、恭子は思いきって遮る。「今日バスに乗ったらね、全速力で走ってる女の人見た」

「へえー、よっぽど何か火急のことがあったのねえ」母はごはんを口に運びながらのんびりと言う。

「火急のことってどんなこと? お醤油きれた、とか、そういうんじゃないふうだったんだけど」

「そりゃいろいろあるでしょ。たいへんな忘れものをしたとか、身内が事故にあったとか、トイレを我慢してたとか」母は言い、アハハハハ、と天井を仰いで笑う。さっき思い出した母の顔が重なる。今より髪はつややかに黒く、皺も少なく、頬のふっくらしていた若き日の母。そして恭子ははっとする。あんなに急いでいたのに、母は口紅を塗っていたのだ。食器棚のガラスに自分を映して。

「好きな人に呼び出されたりとか?」ふと思いついたことを、恭子はおそるおそる口にする。この母に父以外のだれかが? まさか。でも。あり得ないこともない、と、恭子は静かに思う。しゃがみこみ、すぐに帰ってくるからと自分に言い聞かす母の顔は、若いせいばかりではない、やけに美しかった。あのとき自分が泣いたのは、ひとりで取り残された不安もあるが、母がこわかったせいもあると恭子は思い出す。あのときの母の美しさは、見たことのない種類のものだった。

「あんたもねえ、もう二十五なんだから、好きな人に呼び出されて走って出ていくくらいのこと、しなさいよ。毎日毎日、腹ヘッターってまっすぐ帰ってきて。料理のひとつもできないし。ほんの少し前まではねえ、二十五過ぎの女はクリスマスケーキって言われたんだから」

「時代錯誤なこと言わないで」

 玄関の鍵が開く音がする。あ、おとうさん。ちいさくつぶやくと母は箸を置き、おかえりなさーい、と高い声をあげて玄関に小走りで向かう。

 たぶん、私が真相を知ることはないだろうな、と思いながら、恭子は味噌汁を飲み干す。だってぜったいに訊けないもの。箸を置き、席を立つ。廊下でコートを脱いでいる父に「お帰りなさい」と言い、コートを受け取る母に「ごちそうさま」と言い、自室のある二階へ向かう。

 だれかに会うために走る日が、いつか私にもくるのかな。部屋の明かりをつけ、恋人いない歴を更新中の恭子はため息をつく。窓から隣家の桜の木が見える。まだつぼみは開く気配もないけれど、窓を開けると、やわらかい花のにおいが部屋に入りこむ。窓から外を見下ろし、今日見かけた走る女を、恭子は思い描く。いつしかそれは母のうしろ姿になる。だれも彼もいつか、そんなふうに走ってどこかにいって、そして本来の場所に帰ってくるのかもしれない。記憶のなかの走る母の背は、父を迎えるために小走りで玄関に向かう、母のそれに変わる。薄く笑って、恭子は深く息を吸いこみ、春の気配で体を満たす。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 04月 03日 見上げれば満天の星 |



2009年3月 6日 (金)

第5話 パンク・ミドルエイジ



角田光代

 やばい、と中谷啓介は鏡の前に立ち、今までになく深刻に思う。これではやばすぎる。二十代のときに買った細身の革パンは、一応入るには入ったが、ミシミ シ音がしそうなほど窮屈である。しかも、チャックが閉まらない。ぴっちりしたTシャツを着ていないのに、腹がぽっこり出ているのは一目でわかる。隠しよう がない。加齢を、隠しようがない。

「ちょっとパパー、なんで鍵なんかかけてるのお? ミーちゃんをお風呂に入れたいんだけど」

「あっ、ごめんごめん」啓介は返事をし、あわてて革パンを脱ごうとするが、肌にはりついたようになって脱げない。じたばた動きまわった挙げ句、派手に転んだ。

「ちょっと、どうしたのっ」洗面所のドアを妻の藍子が騒々しく叩き、太股まで脱ぎかけの革パン姿で転んだまま、腕をのばして鍵を開ける。

「きゃーっ、どうしたのパパ」藍子はあわてて啓介を抱き起こすが、そうしながら大声で笑い出した。母親の後を追って洗面所にきた四歳の娘、未来もいっしょになって笑う。このごろの未来の癖で、いったん笑い出すとそんなにおかしくもないのに笑い続け、やがて金切り声の馬鹿笑いになる。笑わないでよー、という自分の声が情けなく耳に届く。

「なーに、来月のライブで着ようと思って昔の服を引っぱり出したの?」
「ジッパーがしまんなかった」
「ああ、そういうときはね、寝転がってしめるとしまるのよ」

 脱ぎかけの革パンを腿まではいたままの啓介にかまわず、藍子は未来の服を脱がせはじめる。ときどきガハハッと天井を仰いで笑い、その都度、未来までキャアキャアとわめく。「でもジッパーがしまったとしても、そりゃないわね、そりゃないわよ」笑いながら言い、自分も服を脱ぎはじめる。革パンをひっかけたまま啓介は洗面所を出、リビングにいって苦労して革パンを脱いだ。まだ肌寒い三月のはじめだというのに、Tシャツは汗でびしょ濡れだ。

 うーん、痩せるか、と革パンを目の前にかざし、啓介は思う。いろんなスーパースターが死んだ二十七歳という年齢で、おれは死ななかった。死なずに二十八歳になったとき、決めたもんな、こうなったら一生パンクだって。その後メジャーデビュー寸前までいったバンドは解散し、三十直前で遅蒔きながら就職し、三十一歳で藍子と出会い、翌年日本閣で結婚式を挙げ、三十三歳のとき未来が生まれて父親になった。就職以後は、十六歳のとき思い描いていたパンク人生とは一見ことごとく対極だが、でも心はいつでもパンクだった、と啓介は思っている。

 二年前、かつてバンドを組んでいた仲間たちと再開し、月に一度集まってスタジオにこもるようになった。ベースもギターもドラムスも、みな結婚していた。ドラムスは三人の子持ちで、ギターはマンションのローン返済に追われ、ベースは不妊治療の結果、ようやく妻が身ごもったとうれしそうに語った。みな啓介と同じようにふにゃりと腹が出ていて、ギターに至っては頭頂部が禿げていた。それでも練習後に安居酒屋にいき、語る言葉は十年前と変わらず熱い。おれたち、終わっちゃねえよな、とりあえず会社に属してるけど魂までは売っちゃねえよな、最近のガキどものさわやかパンクはいただけねえよな、などと、酎ハイを片手に息巻いてしゃべる。

 再結成ライブをやろうと啓介が言いだしたのが昨年夏、その直後に下北沢のライブハウスを予約した。二十代のときよく出演していたライブハウスで、オーナーは啓介からの連絡を懐かしがり、だからデモCDの審査は必要なかった。その記念すべき再結成ライブは、いよいよ来月である。月一だった練習は、今や週に一度になった。ああ、それなのに、革パンがぱつんぱつん。

 風呂から出てきた藍子に、「明日、おれ、六時に起きるから、もし目覚まし止めて寝てたら蹴飛ばしてでも起こして」と啓介は頼む。

「えー、一時間も早く起きてどうするの」
「走るんだ」
「走るって……」藍子は言葉を切り、先ほどの無様な啓介を思いだしたのか、また笑いだす。着ぐるみパジャマを着た未来も笑う。笑え笑え、啓介は思う。今のうち笑っておけ。来月のステージを見てぶったまげるぞ。パパってこんなにかっこよかったのって、涙浮かべて思えばいいさ。


 しかし翌日、啓介は起きられなかった。目覚ましの音は聞こえなかったし、幾度か藍子に揺さぶられた気がするが、はっと気づくと七時十五分、いつも起きる時間を十五分過ぎていた。起こしてって言ったじゃない、と言いながら食卓につくと、
「甘えんな」ごはんと味噌汁を並べながら藍子は太い声で言う。「小学生の息子じゃあるまいし、自分で走るって決めたなら人に頼らず自分で起きろ。私はあんたの目覚ましじゃない!」なぜかひどく機嫌が悪い。「ほら、ミーちゃんごはんで遊ばない!」未来にもとばっちりである。

 駅までの十二分の道のりを、大勢の勤め人たちとともに啓介は歩く。せめて駅まで走ろうかな、と思ってみるが、革靴では走りづらいだろうし、今日まわる予定の取引先に汗くさいと思われても困る。結局、走らない。

 啓介は文房具会社の営業部で働いている。ほぼ一日営業車に乗って得意先をまわり、注文品を届け新たな注文を取り、サービス商品を紹介したり新製品を売りこんだりする。営業なんてぜってえ向かねえ、と配属された当初は思っていたけれど、啓介は得意先の人間になぜか好かれ、個人商店では必ず引き留められてお茶を出される。今日も午前中、畑中文具店で大福餅を、文具のミツイケでシュークリームを、松田商店で羊羹を、お茶とともにいただいた。せっかく出してくれてるんだから残せねえよな、と思いつつ、そのすべて、啓介はたいらげた。それだけ食べたのに十二時近くにはきちんと腹が減る。もり蕎麦程度にしておくかな、と思いつつ、気がつけばラーメン屋のカウンターで「背脂多めで」と言っている。

 明日こそ走る。明日こそ走る。明日こそ。毎日そう思いながら眠り、けれど一度として起きられない。ようやく啓介が目覚ましの音で起きられたのは、ライブが二週間後に迫った月曜だった。よし、走る。啓介はジャージに着替え、首にタオルを巻き、台所で朝食の準備をしている藍子に「走ってくる」と凛々しい表情で告げる。えー、ほんとに起きたのー、という藍子の声を聞きながら玄関に向かい、シューズを履いて猛然とおもてに出る。


 マンションのエントランスで、よし、と自身に発破をかけ、啓介は走りだす。三月半ばの早朝はまだ肌寒い。縮こまるようにして走る。体が重いことに啓介は驚く。全身に鉛をくくりつけて走っているみたいだ。それでも足を止めない。二十代の自分の姿を思い出す。コンパスみたいに細かった足、硬かった尻。髪をかためたデップのにおい、ライブハウスの暗がり、女の子たちの黄色い声。そう、あのころは出待ちするファンだっていたんだ。下心見え見えで打ち上げに紛れこむ女の子だっていた。藍子も未来もそんな自分を知らないけれど。

 むぎゃ、と声をあげて啓介は転ぶ。右足がいきなりつったのである。犬の散歩をしていた老婆が「ちょっとあんた、だいじょうぶ? 救急車呼ぶ?」と声をかけてくる。右足は信じがたいほど痛み、起きあがれないが、救急車ほどではない。いや、だいじょうぶッス、と無理に笑顔を作り、啓介は必死に右足をのばす。

 ようやく立つことができたが、もう走る気にはなれなかった。とぼとぼとマンションに向かう。腕時計で確認すると、啓介が走ったのはたった五分弱だった。


 客席はそこそこ混んでいた。けれど多くが直前に演奏したバンドのファンだったらしく、啓介たちがステージに出ると、すでに客は半分に減っていた。しかもほとんどが知り合いである。ドラムスの三人の子どもたちと未来が暗いフロアを走りまわり、ドラムスの妻がそれを追いかけている。前のほうで風呂敷を敷きちょこんと座っている老夫婦はベースの両親だ。営業部の後輩たちが、後ろのほうで早くも酔っぱらっているのが見える。藍子はステージに出てきた啓介には目もくれず、ギターの妻と夢中で話している。

 結局、今日までに走ったのはあの五分弱だけである。体重は一キロたりとも減っていない。革パンは諦めた。啓介はユニクロで買ったブラックジーンズをはいている。ウエスト部分に腹がのっている。二の腕のぽっちゃり感を隠すため、ワンサイズ大きいロングTシャツを、これまたユニクロで買った。ドラムスははっきりとメタボ体系だし、痩せ体型のベースも腹だけは出ており、ギターは禿げている。

 でもいいんだぜ。啓介は思い、スタートの合図をドラムスに送る。スティックが鳴り、続けてギターの大音量が鳴り響く。これがおれたちのパンクだ、中年パンクだ、文句あっか。生き残ったんだ、二十七で死ななかったんだ、だったら生きてくしかないんだ、家庭を持って働いて、スーツ着て頭を下げて、ラーメン食って禁煙して、生きてくしかないんだぜ。

 啓介はマイクに飛びつきがなるようにうたいはじめる。頭のなかが真っ白になる。自分の年齢も体重も一瞬でぶっ飛ぶ。マイクに食らいつくようにしてうたう啓介は、重力なんかぜんぜん感じず、飛ぶように風を切って走っている。その快感を存分に味わっている。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 03月 06日 見上げれば満天の星 |



2009年2月 6日 (金)

第4話 冬の日のサイクリングロード



角田光代

 日曜日、午前七時に瀬戸内由子の目覚まし時計は鳴る。秋口はまだよかったけれど、冬場は起きるのに多大な気力が要る。布団から出るのにはさらに多大な根性が要る。

 でも、歯を食いしばり拳に力を入れて、由子は起きるのである。

 自室のクローゼットからジャージを引っぱり出して着こみ、階下にいく。台所で朝食の準備をしている母親が、「あら、ちゃんと起きられたのね」と驚いた顔で言う。由子がこの時間に起きるようになって半年になるというのに、母親は、毎回毎回きちんと驚く。よほどの根性なしと思われているらしいと、由子はそれで知った。

 歯を磨き、顔を洗い、寝癖のついた髪をひとつにしばり、のそのそと玄関に向かう。

 ああ、いやだ。ああ、いやだ。ああ、本当にいやだ。そう思いながら、シューズをはき紐を結び、母の「いってらっしゃい」の声に見送られ、由子はおもてに出る。

 五分ほど歩くと、川に沿って続くサイクリングロードに出る。東の方角にずっと走っていくと、広大な公園がある。その公園の入り口までが3㎞、公園の奥までいくと6㎞。半年前から、この道を由子はずっと走っている。

 今日は、3㎞と6㎞、どっちにしよう、と思いながら由子はストレッチをする。3㎞コースならば往復で6㎞。6㎞コースならば往復で12㎞である。12㎞を続けて走れたことは、まだない。6㎞走ったところで休憩し、また6㎞走って帰ってくるのである。

 ま、いいや、公園入り口まで走って、まだ走れそうだったら6㎞コースにしてみよう。いつもと同じ結論を出し、由子は走りはじめる。

 そもそも昨年走りはじめたのは、切実に痩せたいからだった。小学生のときは痩せっぽちだった由子は、中学入学とともに太りはじめ、高校に入学した去年、自己最高記録を叩き出した。高校は女子校だったから、気になる異性の目もなく、毎日のように数人で甘味屋やケーキ屋に寄り道して帰るようになり、この一年、記録は更新されっぱなしである。朝食抜きやら炭水化物抜きやら、レコーディングやら夕食控えめやら、今年に入ってさまざまなダイエットを試したものの、それがきくのかどうかわかるより先に、空腹に耐えられなかったり面倒になったりで、やめてしまう。

 走る、といういちばんシンプルなダイエット法にいきついたのは、同じクラスの弓恵がそれで痩せたからである。弓恵の言葉を信じるならば、週に一回走り続けただけで、炭水化物を抜かずともおやつを我慢せずとも、五キロ減ったそうである。「気持ちいいよ、走るの。最初は長く走れなくても、だんだん走れるようになるから」と、たしかに輪郭のすっきりした弓恵に言われ、よっしゃ、と由子は奮い立ったのである。よっしゃ、これだけは三日坊主にはすまい。痩せるまで続けてやる。

 もともと運動が苦手で、体育の成績はつねに二、よくて三、という由子は、最初1㎞も走れなかった。もうだめ、もう死んじゃう、と足を止め、その場にしゃがみこんだ。サイクリングコースには公園からの㎞数が表示されていて、それによると、由子が走ったのはたった300mだった。

 それでも由子は日曜の七時に起き、サイクリングロードを目指した。300m走っては歩き、500m走っては歩き、をくり返していたのだが、弓恵の言うとおり、一カ月目には1㎞続けて走れるようになった。その次の週には2㎞。その二週間後には3㎞。おお、走れる、という純粋な驚きはあったが、しかし走ることは由子にはただただ苦痛なばかりだった。雨が降っていれば小躍りしたいほどうれしかった。いやだ、いやだ、と、痩せたい、痩せたい、を心のなかでせめぎ合わせて、1㎎ほど「痩せたい」が勝って、玄関を出るのである。

 しかしながら、二カ月間、毎日曜、走っても体重は変化しなかった。走った直後はほんの少し数字が減るが、しかし翌日には元通り。

 なんだか走るのって私には向かないダイエットなのかも。もう、やめちゃおっかな、と思いはじめた矢先、由子は恋をしたのである。相手は、住宅街に新しくできたパン屋で働く若きパン職人である。このパン屋はレジの後ろの厨房がガラス張りになっており、由子がいついっても、彼はガラスの向こうでせっせとパン生地を練っている。細身なのにたくましい腕、パン生地を見つめる真剣な目、誠実そうな横顔、そして彼の作るこの上なくおいしいパン。学校帰りに由子はパン屋に寄ってはパンを買い、「あの人の作ったパン」と思いながら食べた。「あの人が私のために作ってくれたパン」と思いながら、夕食前に。

 由子の恋は由子を3㎏太らせた。だから、走ることをやめるわけにはいかなくなった。運よく、三カ月が終わるころ、新たに増えた3㎏は減り、四カ月がたつとさらに2㎏減った。体脂肪は3パーセントも落ちた。走ることは依然としてたのしくはないが、しかし成果が数字で見えるとやる気は出る。四カ月目、6㎞休まず走れるようになっていた。風が冷たくなってきても走った。新年を迎えても走った。新学期、はじめて友人に「由子、痩せたんじゃない?」と言われた。もし12㎞走れるようになったら、告白なんかしちゃおっかな。あなたのパンが大好きです。あなたのことはもっと好きです。そんなふうに? いや、手紙かな。携帯番号を書いた手紙とかかな。走りながら由子はにやついて考えるのだった。

 ところが、である。つい三日前、パン屋の若きパン職人に身重の妻がいることを、由子は知ったのである。パン職人は由子には非常に若く見え、だからてっきり、彼は雇われ職人で、店主はべつにいるのだろうと思っていたのだが、どうやらパン職人自身が若きオーナーであるらしかった。その日、店内には数人の客とおなかの大きな女の人がいて、客のひとりであるおばさんが、親しげに妊婦に話しかけていたのを由子は聞いたのである。
「春には生まれるんですってねー、たのしみね、生まれてくる子はしあわせね、パパのおいしいパンが毎日食べられて。でもてっちゃん、独立して店出して、よかったわよね、こんなに繁盛してるもの」と、おばさんは言っていた。妊婦は照れくさそうに笑って「いつもありがとうございます」と頭を下げていた。由子は肩越しにふりかえって妊婦を凝視した。ごくふつうの、美人だった。ごくふつうの、つまり、じつにわかりやすい美人だった。勝負などしてもいないし持ちかけられてもいないのに、負けた、と由子は思った。その日、由子はパンを買わずに帰った。

 12㎞走れるようになっても、告白する相手はもういないのだ。だから、もう走る必要もないのである。半年間で4㎏減、体脂肪5パーセント減。これで満足して走るのをやめても、いっこうにかまわないのである。

 でも今日、由子は走っている。どうして走ってるんだ私? と思いながら、冷たい冬の風のなか、日向をさがすようにして走っている。ふ、ふ、と鼻で息を吸い、は、は、と口で息を吐き、ときどき垂れてくる鼻水をすすり、走っている。走るのなんて疲れるし退屈、と未だに思うし、もう歩いちゃおっか、とつねに思っているのに、走っている。ふ、ふ、は、は、と息をして、右足と左足を交互に出して、晴れた冬のサイクリングロードを。

 川沿いにまっすぐのびるこの道が、ときどき、公園に続いているのではないように思えるときが、由子にはある。空間を走っているのではなくて、時間の上を走っているような気がするのである。この道の先にあるのは未来。今よりきれいになった私。傷つきもしないような淡い恋を、笑って思い出す私。やりたいことを見つけて、がむしゃらにそれに手をのばしている私。今どうしてもできないことを、かんたんにやってのけられる私。

 もちろん道が由子を連れていくのは、未来ではなくいつもの公園である。公園内の野球場ではリトルリーグの子どもたちが試合をしている。ベンチには若いカップルが寄り添っている。犬を連れた老人とすれ違う。公園のいちばん奥までいって6㎞。あれ、つらくない。折り返しながら由子は驚く。今まで、ここまでが限界だった。でも今日は平気。もしかして12㎞、いけちゃうかも。体はだいぶあたたまって、暑いくらいだ。元きた道を由子は引き返す。12㎞休まず走れても、コクる相手はもういないけれど、でも、ひとつ、未来が手に入るな。ふ、ふ、は、は、のあいだに、由子はそんなことに気づく。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 02月 06日 見上げれば満天の星 |



2009年1月 2日 (金)

第3話 男たるもの



角田光代

 男たるもの、ぜったいにしてはならん、と、山下源三郎が内々で決めていることは多々ある。

 人前で泣くなどということは言語道断、声をあげて笑う、はしゃぐ、声を荒らげる、というのもみっともない。食べものについて云々言うのも無様であり、必 要以上にしゃべることも恥である。その多々あるタブーのなかに、走る、ということもあった。男が走るなんざ、みっともないことこの上ない。男たるものいつ でも泰然としていなければならん。

 実際、学校を出て勤めはじめてからというもの、源三郎は走った記憶がない。約束に遅れそうでも、みずからのペースで歩く。突然の土砂降りになっても、ずぶ濡れで歩く。駆け込み乗車をしたことはただの一度もない。

 おとうさんは古いのよ、と、娘の里香は言う。自分がときにこのひとり娘を苛立たせているらしいことは、源三郎も理解している。高校にあがってから、ずいぶんと意見するようになった。おいしいとかありがとうとか、おかあさんに言ったらどうなの。おかしいときには笑ったらどうなの。どうして待ち合わせに遅れることがわかっているのに急がないの。私とおかあさん、何分待ったと思ってるのよ。

 しかし娘の文句や苛立ちは、源三郎の信念をかえもせず、揺るがすことすらしない。しかたないじゃあないか、だっておれは古い男なのだ。娘から文句を言われるたび、胸の内で源三郎はつぶやく。口には出さない。言い訳もまた、「してはならん」ことのひとつだった。

 里香とは違い、源三郎の古さをよく理解してくれていた妻の加代子が二年の闘病の末亡くなったときも、源三郎は泣かなかった。少なくとも、人前では。たんたんと喪主をこなし、ほとんど事務的に四十九日も一周忌も終えた。

 里香が嫁いだときも泣かなかった。ああここに加代子がいれば、と式の最中ふと思い、思ったとたんに目頭が熱くなったが、こらえた。三年前、里香が赤ん坊を産んだときも、病院にはいかなかった。夫の良和くんが出産に立ち会うというのを聞いて、多少は安心しもしたが、しかし信じられない気持ちのほうが大きかった。男が分娩室に入るとは。

 里香が赤ん坊を連れて家にやってきたときは、正直、困った。仏頂面をし続けるのがむずかしいくらい、赤ん坊はかわいかった。女の子で、遥香と名づけられている。里香も良和くんも見ていない隙に、源三郎は遥香をのぞきこんで、満面の笑みを見せたり思いきり顔をゆがめたりした。背後で物音がするたび、急いで仏頂面に戻り、新聞を広げたりテレビのチャンネルをかえたりした。


 正月を実家で迎えるため、遥香を連れて里香と良和くんは昨日やってきた。大晦日の今日、良和くんと里香は朝から買い出しにいき、昼食のあとは台所にこもってずっとお節を作っている。里香が作るのならわかるが、良和くんも前掛けなどをして、里香に言われるとおりサツマイモをふかしたり、数の子の薄皮を向いたりしている。里香が台所を離れた隙に良和くんに近づき、「無理をせんでいいんだぞ」と源三郎はささやいたのだが、「いやー、おとうさん、料理って意外とたのしいんすよ」と娘の夫は邪気のない笑顔で答え、源三郎をまたしても驚かせた。

 歩けるようになった遥香がまとわりついて邪魔なので、散歩に連れていってほしいと頼まれ、源三郎は幼い遥香とともに家を出た。まったく厄介だ、という顔をして家を出たのだが、内心ではうれしくてたまらなかった。里香たちに見られるのではないかとびくびくせず、存分に笑え、存分にふざけ、存分にはしゃぎ、存分に猫なで声を出せる。

 大晦日の商店街はにぎわっていた。どの店も軒先にワゴンを出して、正月用商品を並べ、売り子が声をはりあげている。門松や正月飾りを売る急ごしらえの小屋も出ている。正月の準備をする、あらゆる年代の男や女や家族連れがそのなかを行き交っている。ねえじーじ。あれは何。ねえじーじ。ママもくる? ねえじーじ。おつかいするの? 最近いっぱしに話せるようになった遥香は、ひっきりなしに源三郎に話しかける。その都度源三郎はしゃがみこみ、「あれはお餅でちゅよー、明日、はーちゃんも食べるんでちゅよー」だの「おつかいはナイナイよー、お散歩でちゅからねー」だのと答えた。

 凧がほしいと遥香が言い、屋台の凧屋で源三郎は漫画の絵入りの凧を買い求めた。ほら、凧でちゅよ、とふりかえったところに遥香の姿がない。
 一瞬にして血の気が引いた。買ったばかりの凧を凧屋に押しつけ、気づいたら源三郎は走っていた。すぐに遥香の姿は見つかった。数十メートル先をおもちゃみたいな動きで走っている。着膨れたちいさな背中は、行き交う人々のなかに隠れたり、あらわれたりする。はーちゃん、おい、遥香! 人の視線もかまわず、大声をあげて源三郎は走る。人にぶつかり、舌打ちをされ、それでも走る。

 走りながら、源三郎は驚く。このおれが、走っている。しかも、走っているのに思うように進めない。あんなちいさな子どもに、なぜ追いつくことができない。それほど長く走ったわけでもないのに、もう息が苦しく、足がもつれる。

 源三郎は「走る」ことがどんなことだったか思い出す。地面を蹴る感じ、鼻で吸って口で吐く呼吸法、空気を切りこんでいく感触、背後に流れていく風、景色が近づいては一瞬で遠のいていく、あの爽快。運動会の、級友と走った土手の、意味もなくひとりで走った夜道の、消し去られていたような光景が次々と浮かぶ。

 記憶のなかの「走る」と、今自分がやっていることの、あまりの違いに源三郎はあらためて驚く。年をとったのだ、こんなにも年月を生きたのだと、今さらながら、気づく。

 ちいさな背中は、冬の陽射しを受けてちらちらと進んでいく。なかなか追いつかないそれが、手に入らなかった、いや、永遠に手に入らない何かであるような気が、ふいにする。はーちゃん、はーちゃんと、息切れしながらも叫び、源三郎は走る速度を上げる。その一瞬、かつて走ることがもたらした感覚が、源三郎の内によみがえる。汗や草いきれや爽快や。

 泣け。笑え。叫べ。走れ。そうだ、もう、それらを自分に許したっていいのだ。死にものぐるいで走りながら、すぐそこに近づいた幼い背中に向かって源三郎は両手をのばす。今まで笑わなかったぶん、泣かなかったぶん、叫ばなかったぶん、走らなかったぶん、精一杯やっていいのだ、このちいさないのちといっしょに。

 あと数歩で追いつくというとき、ちいさな背中は急に立ち止まる。ふりかえり、源三郎を見上げて笑う。つんのめり、よろけそうになる源三郎の広げた腕に、ちいさな孫は自分から飛びこんでくる。しっかり抱き留めて源三郎は大きく深呼吸する。ヒューヒューとへんな息が漏れる。大きく息を吸うたび、ミルクと日向の混じったようなにおいが自分を満たし、大声で泣きたいような、大声で笑いたいような、いや、そのどちらもを同時にやってのけたいような気分に、源三郎はなる。

▼MP3ファイルをダウンロード

2009年 01月 02日 見上げれば満天の星 |



2008年12月 5日 (金)

第2話 愛が走る



角田光代

 そのとき三十五歳の韮沢京子にとって、走ることは日常だった。学生時代から積極的に運動などしたこともなく、三十歳で結婚してから七キロも太ってしまっ たというのに、日常的に走っていた。ジョギングウェアを着て走っているのではない、スカートをはいて、ヒールのある靴で走っているのである。髪が乱れるの も、化粧が落ちるのもかまわず。

 京子は生命保険会社で営業をしている。成績がよく、表彰されたのも一度や二度ではない。仕事で走ることもままあるけれど、さほど多くはない。いつ走るかといえば、終業後だ。

 京子の夫、敏之は公務員で、毎日判で押したように定時に帰ってくる。六時十分。京子の仕事が終わるのが七時前後、ときには八時近くなることもある。敏之は料理を何ひとつできないから、京子が帰ってくるのをビールを飲みながら待っている。

 それで京子は、腹を空かせているだろう夫のために、走る。会社を出て駅まで走り、最寄り駅から走ってスーパーにいき、せかせかと買いものをし、長蛇の列のレジに苛々と並び、スーパーを飛び出てマンションまで走る。夕食の時間が遅くなることで、怒るような夫ではないと京子は知っている。八時過ぎだろうが、九時過ぎだろうが、敏之はにこにこと京子を迎える。「お帰り、お疲れさま」と言って。

 ただ、何も食べないのだ。食べないことが苦にならない男なのだ。京子が何か用意し、目の前に並べれば食べ、「おいしい」「やっぱり京ちゃんの料理がいいね」などと感想を述べるが、そうしないかぎり、何も食べずにいて平気なのだ。それでは体もこわすだろうと心配だから、京子は走るのである。ごはん、ごはん、ごはん、と思いながら。京子は食べることが好きだったし、空腹には耐えられないたちだった。

 そしてあるとき、京子は急に、走ることが嫌になった。両手にスーパーの買いもの袋を提げたまま、とうに日の暮れた住宅街に立ち尽くし、もう嫌だ、と思った。結婚してからこっち、私、ずっと走ってる。人のおなかの空き具合ばかり考えて。駆けこみ乗車だってしたことないし、青信号が点滅していれば次に青になるまで待つ、そういう私が、どうして必死に走ってるんだろう。もう嫌だ、こんなの。

 そうしてその日、いつも通りにこにこと京子を迎えた敏之に、別れたいと言った。玄関先で、靴も脱がず、スーパーの袋を提げたまま。え、なんで。敏之は目を丸くする。え、なんで。くり返す。

 どうしてもどうしても別れたい。京子は頑なに言い、言っているうち泣けてくる。なぜ泣いているのかわからないまま涙を流し鼻水をすすり上げ、別れたい、と強固に言い募る。


 今年四十歳になった京子は、日の暮れた商店街を歩いている。店々の店頭に、白や黄色の明かりが灯り、果物や野菜や、肉や総菜を照らしている。それらを眺めてのんびりと京子は歩き、ときどき店頭で立ち止まり、自分より若かったり同年代くらいだったりする女たちとともに、みかんの値段を吟味したり、刺身の鮮度を確認したりし、財布を取りだして何品か、買う。毎度ありー、という魚屋のだみ声に会釈を返し、京子はふと五年前のことを思い出す。

 あのとき、私、何が嫌だったのかな。走ってることだけが嫌だったのかな。それとも、食事をしなくても平気な夫のことが、本当は嫌だったのか。子どもができないことが、そのことについて話し合うこともない関係が嫌だったのか。あんなにかたくなに別れたいと言い、理由がわからないと言い続ける敏之を説得し、実際離婚してしまったというのに、嫌になった本当のところは、あのときもよくはわからなかったし、今も、うまく思い出せない。だって、私は勝手に走っていたのだ、と京子は考える。走れと言われたのではない、無理に走らされたわけではない。なのに。

 ひとりになって、走らなくてよくなった。京子は今も生命保険会社に勤めている。課長の肩書きをもらったのは今年の春だ。仕事が終わらなければ残業し、しなければ切り上げ、電車に揺られ、ひとり暮らしのマンションまでの商店街をぶらぶら歩いて帰る。友だちと飲みにいくこともある。いついかなるときも走らない。離婚してから五年、恋愛は一度したものの、今は恋人はいない。そのことへのうっすらした焦りはあるが、走らなくていい暮らしに、心の底から安堵もしている。

 ケーキ屋の軒先に立ち、プリンでも買っていこうかな、と思案していると、向こうから走ってきた女が勢いよく京子にぶつかった。京子はよろけ、女は転びそうになったものの素早く体制を立てなおし、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きそうな顔で謝り、京子がそれに応えるのも待たず、また走り出していった。右肩にショルダーバッグをかけ、左手にスーパーの袋を持って走るその後ろ姿を京子は見送る。

 好きな人がおなかを空かせて家で待っているのかな。

 そう思い、はっとする。

 そうだ、私、好きだったんだ、夫のこと。本当に好きで、でも、その愛情を表現する手段が、ごはんしか思いつかなかった。とにかくごはんを食べてもらうこと。栄養を考えて作った料理を並べて食べてもらうこと。そんな方法でしか、夫に好きだと伝えることができず、でももちろんそんなことは伝わらず、ごはんは夫にとってただ日常のひとこまに過ぎず、そのことにいつも失望していたんだ。そんなふうにできあがってしまった、自分たちの関係に。

 好きだったけど、いや、好きだったから、あのとき別れなければ今も私は走っていただろうと京子は思う。自分のペースではない暮らしを、くるくるとまわしていただろう。生活って難しいなあ。プリンを買おうか迷っていたことを忘れ、京子はケーキ屋の前を離れる。商店街のにぎやかな明かりを縫うようにしてぐずぐずと歩く。生活という、意味不明の、やけにどっしりした何かに比べたら、好きだなんて気持ち、とるに足らないようなものじゃないか。

 マンションにたどり着いたのは九時近くである。暗いリビングに入り、明かりをつけるまでの数秒、さみしいな、と思うが、テーブルにかんたんな料理が並ぶころにはそのさみしさも消えている。グラスにビールをつぎ、いただきますと京子はつぶやき、食事をはじめる。静かな部屋。湯気を上げる味噌汁。いつか、私はまた恋をするだろうかと京子は考える。走らなくてもいい愛情を、だれかと分かち合えるだろうか。さっと作った煮物を食べ、思いの外のできばえに、うん、きっとだいじょうぶと京子は満足げに頷く。

▼MP3ファイルをダウンロード

2008年 12月 05日 見上げれば満天の星 |



2008年11月 7日 (金)

第1話 垣根洋介、走る



角田光代

 片言の日本語で、駅名を告げられた。駅のホームに突っ立っていた垣根洋介は、何を訊かれているのかわからず、声の方向にぼんやりと顔を向けた。中国人か 韓国人か、アジア系の、幼いと言ってもいい女の子が、切実な表情でもう一度、駅名を繰り返す。隣の駅の名前である。そこにいきたいが、どの電車に乗ったら いいのかわからないらしい。

「それはね、あの、隣のホーム」洋介はゆっくりと発音して説明する。「三番線。スリーね、スリー。階段下りて、あそこのホーム。隣の駅だから。ネクストね」女の子は不安げな顔つきで、洋介と、洋介の指さす三番線を交互に見て、そして急にぱっと花開くような笑顔を見せ、
「アリガトウ」頭を下げて背を向けた。

 旅行者かな。ひとりで日本にきたのかな。女の子の、ちいさな背中を見送って洋介は考える。旅行なんて、おれ、もうずいぶんいってないな。

 日曜の今日、洋介は妻に頼まれて、腐葉土とプランターと肥料を買いにきた。妻のメモ通り、ホームセンターで買いそろえたその大荷物で両手はふさがっている。その妻は、八歳になる娘を連れてピアノ教室にいっている。妻の用事で日曜日がつぶれることを、三十代の洋介は嫌悪していた。なんだか人生そのものがつまらなく思えたのだ。けれど四十代も半ばにさしかかった今、なんとも思わない。これとこれとこれを買ってきて、と言われれば、おとなしくそれに従う。嫌だと言って妻と口論になるのが面倒だった。

 面倒といえば、最近の自分は面倒で構成されている、と洋介はホームに立ったまま考える。旅行の計画をたてるのも面倒だし、日曜日に家族向けのレジャーを考えるのも面倒である。横断歩道の青信号が点滅していれば走るのが面倒だし、何が食べたいかと妻に訊かれて考えるのも面倒である。このまま老人になるのかなと思うと、何か薄ら寒い思いがするが、ではどうすべきかを考えるのも、また面倒だ。

「あっ、今日、日曜だ」

 洋介は声を出す。近くにいた若いカップルがちらりと洋介を見遣る。

 向かいのホームに洋介は目を凝らす。三番線の電車は、平日ならば各駅に停車するが、土日と祝日は急行になる。さっきの女の子が言っていた隣の駅には止まらず、五つ先の駅に止まるのだ。向かいのホームの人混みのなかに、さっきの女の子がぽつりと立っているのが見える。いかにも不安げな顔をして、電車がくる方向をじっと見ている。つられるように洋介もその方向を見ると、電車がこちらに向かってくるのが、見える。

 一瞬、迷う。三番線のホームまでいって、これには乗るなと伝えるべきか。でも今から隣のホームにいったのでは、間に合わないかもしれない。どうせ見ず知らずの他人じゃないか。五つ先の駅にいって、まただれかに訊けばいいだけの話だ。

 洋介を見上げる女の子のせっぱ詰まった顔が思い出され、思い出された瞬間に、洋介は弾けるように走り出していた。腐葉土とプランターと肥料の入った馬鹿でかい袋をふりまわしながら。ホームを走る。荷物が人にぶつかる。舌打ちをされる。それでも走る。階段を走り下りる。転びそうになる。それでも走る。いちばん下に着地した瞬間、足首をひねる。けれど走る。三番線に上り電車が参りますとアナウンスが聞こえる。間に合うか。間に合うか。間に合うか。階段を一段抜かしで駆け上がる。荷物が壁にぼこぼことぶつかる。荷物の入った袋の取っ手が手のひらに食いこむ。ひーひーという自分の息が聞こえる。それでも走る。

 息を切らして走りながら、いつかもこんなふうに走ったことがあると洋介は思う。ああそうだ、十七歳のときだ、はじめてできた恋人を追いかけたんだ、なんで追いかけたんだっけ、喧嘩したんだ、おれが馬鹿みたいなこと言って怒らせたんだ、いや、泣かせたんだ、泣きながら去った彼女が見えなくなって、急に気づいたんだ、自分がひどいこと言ったって気づいて、それで追いかけたんだ、でも追いつかなかった。そう、追いつかなかった。他校に通う彼女とはそれっきりだった。べつにいいやと洋介は思った。こちらから連絡してまで謝ることが、どうしてもできなかったのだ。すぐにほかの女の子とつき合った。高校を卒業するころには忘れていた。今だってその子の顔も思い出せない。

 なんで謝らなかったんだろう。プライドが許さなかったのか。みっともないと思ったのか。それとも、面倒だったのか。おれの面倒は、そんな昔からはじまってたのか。

 ホームに駆け上がり、走りながら洋介はさっきの女の子をさがす。ホームに立つ人々はあからさまに迷惑げな顔で洋介を避ける。電車が走りこんでくる。停車する。ドアが開き、そしてようやく洋介は、電車に乗りこもうとしている女の子を見つける。荷物を投げ捨てて洋介は走り、電車に片足を入れて彼女の腕を引く。びっくりした顔の彼女を、引っ張るようにして電車から降ろす。

「ノーノー、これ、止まらない、次の駅は止まらないんだ」声がかすれている。「今日はサンデーだから、エクスプレスなんだ、ネクストはノンストップなんだ」

 ドアが閉まり、電車が走り出す。

「ごめん、間違えたんだ、あなたの乗る電車はあっちでいいんだ、二番線、二番線」

 彼女は心配そうな顔で洋介をただ見つめている。

「いっしょにいこう、正しい電車に乗せるから」

 洋介はゼエゼエと肩で息をしながら言い、さっき投げ捨てた荷物を広い、彼女の先に立って歩く。短い距離を走っただけなのに肺がひっくり返ったように痛み、心臓が口から飛び出しそうなくらい鼓動を早くしていた。

 二番線のホームに戻り、やってきた電車に彼女を乗せる。次、次だから、きみの駅は次だから。ドアが閉まるぎりぎりまで、洋介は大荷物を持ったまま身振り手振りを加えて彼女に言った。彼女はにおいのやわらかい花のような笑顔を見せ、ドアが閉まると、ちいさく手をふった。異国の女の子を乗せた電車は走り出し、やがて彼女も見えなくなる。

 肺は痛み、心臓はまだばくばくしている。さっきひねった足首が、思い出したように痛みはじめる。背中も腰も痛かった。けれど洋介は、何か途方もないことをやりとげたような気分を味わっていた。みっしりと体にまとわりついた面倒を、少しだけ脱ぎ捨てたような。澄んだ青い空に吸いこまれるように、電車は遠ざかっていく。

▼MP3ファイルをダウンロード

2008年 11月 07日 見上げれば満天の星 |