第11話 はんぱな空の下
結婚式の案内だった。狭苦しいアパートの部屋で、浩は何度も何度も書かれた文字を眺めた。コンビニで買ってきたビールがとうにぬるくなり、あたためてもらった弁当も冷え切ったころ、書かれた文字の意味がようやく理解できた。麻里子は健太郎と結婚するのだ!
麻里子とは半年前に飲んだし、健太郎とは三カ月前に飲んだ。二人ともなんにも言っていなかった。交際しているとすら。と、いうことは、この三カ月に電撃的に恋に落ち、スピード婚というわけかと考え、そんなはずはないだろうと浩は自分につっこみを入れる。ごく自然に考えて、二人ともずっと前から交際していて、それを隠していたのだ。隠されていたことも傷つくが、こんなふうにいきなり招待状を送りつけられることもたいへんに傷ついた。水くさいし、腹立たしいし、だいたい非常識だ。
浩はプラスチックの弁当箱をくるむラップを引きちぎり、弁当箱の蓋にはられたセロテープを引きむしる。その力が強すぎて弁当箱は斜めに傾き、メイン料理とも言える唐揚げが畳に転がり落ちる。が、動転しすぎていてそんなことはどうでもよく、畳に落ちた唐揚げに箸を突き立てて口に運ぶ。
麻里子にも健太郎にも、ほかのサークル仲間にも決して言わなかったが、麻里子がサークルに入ってきたときから、いいなと思っていたのだ。なんだか恋人がいるようだったから本気で恋することはなく、浩もほかの女の子とつき合ったり別れたりしていたが、それでもやっぱり、坂下麻里子、いいな、と思っていたのだ。もし男の気配が消えたらコクってみようかな、なんて思いながら浩は大学を卒業し、食品会社に就職し、研修を経て営業部に配属になり怒濤の忙しさに突入し、思い出したように麻里子に連絡していっしょに飲み、麻里子にはやっぱり恋人がいそうだったのでコクることはなく、それから一年に数度飲むようになった。健太郎とはもっとしょっちゅう会っていた。健太郎は数年後に実家に戻って造り酒屋を継ぐべく、酒造メーカーに期限付きで入社していた。学生時代からなんとなく気が合って、卒業後もよく待ち合わせては、仕事や人間関係の愚痴を言いながら居酒屋で日付が変わるまで飲んだ。麻里子は大学を卒業すると希望していた玩具会社に就職し、浩が誘えば断ることもなかった。
三カ月前にともに飲んだとき、いよいよ来年の春に実家に戻ると健太郎は言っていた。本当は三十歳まで丁稚奉公するつもりだったのだが、父親が脳梗塞で倒れたらしい。命に別状はないが未だ入院中で、早く帰ってこいとせかされたのだそうだ。健太郎の実家は新潟である。そんなに遠くないんだし、遊びにいくし遊びにこいよと、ある感慨を持って浩は言った。それなのに、そうか。麻里子を連れていくつもりだったのか。
弁当に何が入っていてどんな順番に食べたのか、まったくわからないまま食事を終え、ユニットバスでじゃばじゃばとシャワーを浴び、「くそうっ」と浩は風呂場で低く吠える。
くそう。いくもんか。結婚式なんていくもんか。馬鹿にしやがって。こそこそしやがって。麻里子、テメー仕事がたのしいって言ってたじゃんか。新潟なんていっていいのかよ。都内出身のおまえからしたら新潟なんて前人未踏の地くらいかけ離れたところだぞ。友だちもいないし、きっとすぐ健太郎父の介護だぞ。きっと離婚すんぞ。三十前で離婚すんぞ。ザマアミロ。そこまで考えるとようやく気分が落ち着き、というより、落ち着いたような気になって、浩は風呂から出た。
裸電球に照らされた木目模様の天井を見上げ、はああとため息をつき目を閉じる。なかなか眠気は訪れない。少し開いた窓から風が入りこみ、夏場からつけたままの風鈴がわびしい音をひとつ、たてる。
そうして今、浩は、子どものころにテレビで観た映画の、最後の場面を回想している。日曜日の午後にたまたま観ていた退屈な映画だ。映画の終盤、結婚式の最中にひとりの男が教会にあらわれ、花嫁を奪って走るのだ。二人は走って走って、たしかバスに乗る。バスに乗って見つめ合い、笑う。今、自分がそうすることを浩は夢想する。席を立ち、高砂席に座る麻里子の手を引いて、この披露宴会場を走り去っていくことを。会場を出たところにちょうどバス停がある。やってきたバスに、ドレス姿の麻里子と乗りこんで、くすくす笑う。
もちろん夢想するだけで、浩は席を立つこともない。隣に座るかつてのサークル仲間と近況報告し、健太郎の親族が歌う長唄に顔をしかめ、コース料理のかたいステーキを咀嚼し、ワインをがばがばと飲み、白いドレスの麻里子とタキシードの健太郎を盗み見るように見遣る。
麻里子を走って連れ出すわけがないことを、浩はわかっている。そんな大事を起こすほど愛し愛されていたわけではないし、忘れられない人でもないのだ。いいな、と思っていただけだ。そう、今までそんなに何かに夢中になったことが浩にはない。奪って走り去るほどほしいと思ったものはない。
麻里子と健太郎はそんなふうに思ったのかなとちらりと考える。思ったんだろうな。だって新潟だし。健太郎に、ではなく、二人に対し猛烈な羨望を覚える。
披露宴が終わったのち、浩は友人たちと会場を出る。二次会が、近くのレストランであるらしい。そんなに飲んだつもりはなかったのに、暮れはじめた道を歩き出したら、雲の上を移動しているようで、急激に愉快になる。浩は引き出物の入った馬鹿でかい袋を提げたまま、空いた手で隣を歩く同級生の手首をつかむ。おい、なんだよ、という声を無視して、手首をひっぱり走り出す。やめろよ、危ないよ、ひっぱられている友人は、臆病な子どものような声を出し、それがまたおかしくて、浩は空を仰いで笑う。空は、ピンクと水色の入り交じったような、中途半端な色だった。
右手に提げた紙袋の角が、揺れてふくらはぎに当たって痛い。友人の手をつかんだ左手が汗ばんでぬるぬるする。飲んだ酒が胃で揺れ、食べたコース料理が喉元までせり上がってくる。愉快な気持ちは依然あるものの、なぜ走っているのかわからなくなる。それでも浩は止まらない。花嫁姿でもない、酔って赤い顔の同級生を引き連れて、ただ、止まる理由が見つけられずに走っている。
いちばん面倒なのはこういうことだ、と、酔った頭で急に悟ったように浩は思う。本気になれないことだ。好きだと言えないような淡い気持ちを抱くことだ。自分で何も、決めないことだ。そういうのがいちばん楽そうで、いちばんたいへんなんだ。自分の力で終えることができないから。
浩は友人の手を離し、電信柱の陰にまわりこみ、背を折り曲げて、吐く。
「馬鹿だなあ、何やってんだ、いい年して」
息を切らしながら言い、友人は浩の背をさすってくれる。
ほんと、何やってんだ、いい年して。
なあ、この先、何かに夢中になれることがあるかな。走って奪いたくなる何かを、見つけることができるかな。背をさする友人にでも、麻里子にでも健太郎にでもなく、浩は胸の内で問う。答える声はしないが、問い続ける。
「どうする、二次会いくのやめて帰るか? タクシーつかまえようか?」友人に訊かれ、
「いや、いく」唾を吐き、浩は姿勢を正す。「おれ、まだおめでとうって言ってない」
奪えないけど、いく。おめでとうって言いに、いく。友人に向かって、浩はにっと笑ってみせる。
9月 4, 2009 見上げれば満天の星 | Permalink
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