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2009年8月 7日 (金)

第10話 その何倍も



角田光代

 妻と娘があんまりにも泣くものだから、立花真一郎は泣けなかった。妻と娘があんまりにも落ちこむものだから、やっぱり真一郎は落ちこみ損ねた。新しい犬を飼えばユキのことなんて忘れるよ、と二人をなぐさめるために言ったのに、ものすごい形相でにらまれ、挙げ句、数日、口をきいてもらえなかった。

 同僚が、子どもが勝手に犬を拾ってきたがマンションでは飼えず困っていると言い、当時建て売りの一軒家を買ったばかりだった真一郎は、じゃあおれが引き取ると言い、そのようにしてユキは立花家にやってきたのだった。娘の由花はまだ四歳だった。ユキ、という名は妻のなり子がつけた。子どものころに見ていたアニメ番組の、山羊の名らしい。

 真一郎はユキをべったりかわいがっていたわけではない。そもそもユキがきたときから、かわいがりすぎないように真一郎は自分に言い聞かせていたのだ。子どものころに猫を飼っていたから知っている。こいつらは人間より短命なのだ。あんまり深入りすると死んだときにとてつもなくかなしむ羽目になる。真一郎は、それをなり子にも由花にも言って聞かせた。が、もちろん無駄だった。なり子も由花もユキに夢中になった。

 ユキがやってきてから十五年。新築だった家はだいぶくたびれ、由花は大学生になり、金沢に住むなり子の父も母も亡くなり、千葉に住む真一郎の母も亡くなった。ユキがぼけはじめたのは去年だった。名前を呼んでも反応しなくなり、部屋の隅にうずくまって吠えたり、ぐるぐるまわるようになった。犬の痴呆だと動物病院で聞かされて、なんの予備知識もなかった真一郎は犬もぼけるのかと驚いた。投薬とフードで治療をはじめ、一時的によくなったものの、今年に入ってからは眠ってばかりいるようになった。

 梅雨入り宣言の出た一カ月ほど前、もうほとんど家族の呼びかけに返事をしなかったユキが、なり子の呼び声に「キャン」と答えた。また一時的にせよよくなるかも、と家族みんなが思った矢先、眠るように息を引き取った。かわいがっていたつもりはないのに、やっぱりこたえた。どうしたってユキは家族の一員だったのだと、真一郎は思い知らされた。

 もう一カ月もたつのに、家のなかは灯が消えたような状態が続いている。真一郎が仕事を終えて帰ると泣き腫らした目のなり子と由花がしょぼくれて食卓におり、その食卓にはほとんど手のつけられていない出来合いの総菜が並んでいる。真一郎だって泣きたかった。でも、一家三人で泣き暮らしているわけにもいかないではないか。父親が率先して泣き出すわけにもいかないではないか。それで「新しい犬」案を、張り裂けそうな気持ちで出したというのに。

「夏の旅行、キャンセルするか」その日、ビールを飲み、出来合いの総菜をつまんでいた真一郎は、思いきって言った。夏の旅行は半年前から予約してあった。犬も泊まれる伊豆のペンションで、これがユキとの最後の旅行になるかもしれないからと、とうの昔に家族旅行に参加しなくなった由花も参加表明をしていた。「ほかの宿泊客は犬連れできているんだろうし、見るのもつらいだろう。明日キャンセルの電話をしておこうか」また無視されるかな、とちらりと思ったが、
「いく。ねえ、いこうよ」由花が顔を上げ、真一郎となり子を交互に見て、言った。

 ◇ ◇ ◇

 南伊豆のペンションの宿泊客は、予想通り犬連れの家族ばかりだった。犬連れでないのは真一郎たちだけだった。ペンションの広大な庭はドッグランと化し、大小種々さまざまな犬が長短の毛をなびかせて走りまわっていた。見ればかなしくなると決まっているのに、なり子も由花も、ペンションに併設されたカフェの屋外席から、それをじっと眺めている。真一郎が風呂に浸かって出てきても、まだ同じ位置に座っている。犬連れもOKなカフェの喫茶店に、ユキはいないのではなくて、そこにはユキの不在があった。ユキの不在は実際のユキよりよほど馬鹿でかく、なり子と由花の真ん中にどっかりと腰を下ろしていた。

 真一郎は唐突にいたたまれない気持ちになり、犬が走りまわる広大な芝生へと躍り出ていた。ビーチサンダルを脱ぎ捨て、風呂上がりの短パンとTシャツ姿で、犬のように走り出す。そんなことはしたくないのに、気持ちと裏腹にじっとしてはいられないのだった。遮二無二芝生を走りまわる男に向かって何頭かの犬が吠え、何頭かの犬が尻尾をふりながら追いかけてくる。走っているうち、真一郎はまざまざとかなしくなってくる。かわいがらないと決めていたユキの、それでも愛くるしい表情や仕草、やわらかさやあたたかさ、顔にかかる鼻息や目と目のあいだの太陽のにおいが次々と思い返されてくる。人の目も犬の目も気にせずに真一郎はひたすら走る。かなしみから逃れるように、かなしみを引き離すように、走る。

 このくらい早く走れるって思った、その何倍も早く走れた。ふと、真一郎の胸の内でだれかがつぶやく。このくらい思い切り走れるって思った、その何倍も思い切り走った。このくらい気持ちがいいって思った、その何倍も気持ちよかった。だから、ありがとうね。

 ユキだ! 走りながら真一郎は気づく。ユキがぼくにのりうつってユキがぼくの心んなかでつぶやいているんだ! おい、なり子! 由花! おれ、今、ユキだぞ!

 走りながら真一郎は、カフェに座る妻と娘に向かって両手を大きくふってみる。二人はぼんやりした顔つきで真一郎を見ている。キャンって泣いた、あの最後の声は、痛いでも苦しいでもかなしいでもない、ありがとうだったって、わかった? ねえ、わかった? おい、なり子、由花、聞いてるか、ユキが、ユキが。真一郎はまっしぐらに妻と娘の元に駆けていく。なあ、今、おれ、ユキだぞユキ。無我夢中で走り、彼女たちのテーブルにたどり着いてゼエゼエと荒い呼吸をする。声が出ない。表情のまるでなかったなり子と由花の顔に、ゆっくりと笑みが広がる。それを確認するやいなや、真一郎は仰向けになった。もう、いい年して何馬鹿をやってるの。恥ずかしいよ、みんな見てたよ。なり子と由花は口々に言う。真一郎も笑った。頭上に広がる雲ひとつない青い空に、ゆっくりゆっくり、ユキが駆け上がっていくのが真一郎には見える。

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8月 7, 2009 見上げれば満天の星 |

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