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2009年7月 3日 (金)

第9話 ときどき休戦



角田光代

 福丸豊子が走るのは、週に三日のランチタイムと決まっている。豊子の勤める印刷会社の昼休みは、きっちり十二時にチャイムが鳴る。十二時前に席を立って も上司に叱られることもないが、みんなチャイムが鳴り終わるまで席にいるので、豊子もじっと座っている。キンコンカンコン、の、コンが長く響くなか、豊子 は素早く立ち上がって、走る。

 エレベーターはこの時間混んでいるから、三階ぶんの階段を駆け下りる。会社の敷地を走り、門を出て走り、商店街を走る。走る豊子を見かけたことがある人は、一様に口を揃えて「すごい」と賞賛する。「あんなに速く走れるなんて、本当にすごい」と。

 実際速いわけではない。ただ豊子は、就職してこの二十五年で、何の因果かぴったり勤続年数と同じだけキロ数を身につけたから、「見かけにしては速い」という判断だろう。

 速くもなるわ、と豊子は思う。だって一目散にいかないと、大和屋の天むす弁当が、とられてしまうんだもの。

 このあたりは会社が多いので、商店街の食堂ばかりでなく喫茶店も居酒屋も総菜屋も、ランチを出したり弁当を売ったりする。弁当を買う人、ランチメニュウをのぞきこむグループで、商店街はにぎわっている。人波に邪魔されるのがいやで、豊子は車道に下りて走る。クラクションを鳴らされてもかまわず走る。そして向こうに、ああ、やっと大和屋が見えてくる。

 大和屋はカウンター席だけの天ぷら屋で、夜しか営業していなかったのが、つい最近、週に三日だけ天むす弁当を売るようになった。えび天の入ったおにぎり三つに、卵焼き、野菜の煮物、お新香がついて七百円。卵焼きも煮物もおいしいが、天むすは唖然とするほどのうまさなのだ。それが千円しないのである。豊子は週に三日、大和屋まで走っている。それだって天むす弁当を入手できるのはせいぜい週に一度。うまさに唖然としているのは豊子ばかりではないらしい。十一時半から昼休みだったり、好きな時間にランチに出られたりする会社の人たちが、豊子がたどり着くより先に買っていってしまうのである。

 店先のワゴンに、たったひとつ天むす弁当が残っているのが数十メートル先から見て取れる。ああよかったと思ったその瞬間、逆方向からやっぱり走ってきた紺の制服姿の女が、それを手に取ってしまう。その手の上に視線を移すと、やっぱり。やっぱりそうだ。狐女。名前も会社も知らないが、すらりと背の高い痩せた女で、しょっちゅうこの時間に大和屋の前で出くわす。彼女の会社も十二時ジャストに昼休みになるらしく、彼女もいつも走ってくる。品切れのこともあるし、見知らぬ人に先を越されることもあるけれど、五回のうち二度は、豊子はこの女に負けている。切れ長の目につんと上を向いた鼻、自分と正反対の彼女に、狐女と豊子はこっそり命名している。

 弁当をとられたショックに立ち尽くす豊子を、狐女はちらりと見遣る。そんなはずはないのだが、ニヤリと勝利の笑みを浮かべた気がし、豊子の体からさらに力が抜ける。

 弁当を買って去っていく狐女の背をいじましく見送って、豊子はとぼとぼときびすを返す。何を食べるかさんざん迷って混乱し、そんなに食べたくもない冷やし中華をコンビニエンスストアで買って会社に戻る。

 豊子ははっきり狐女に敵意を持っている。天むす弁当を五回のうち二度奪われているからではない。五年前、離婚の原因になった女とよく似ているのである。長身、細身、狐顔。なぜ知っているかといえば、持ち出された離婚話に豊子がうんと言わないでいたら、話し合いの席に夫が連れてきたのである、この人といっしょになりたいのだと。狐顔の女はずっとうつむいていた。ごめんなさいと蚊の鳴くような声で言った。私が太らなかったら夫は浮気しなかったかなと、考えても詮無いことを考えて、離婚を承諾した。狐顔の女は、喫茶店のテーブルに額がつくほど頭を下げて、豊子はなんだか彼女が気の毒になった。そんなに頭を下げるほどの男ではないよと、教えてあげたかった。

 自分で想像していたよりダメージは少なかった。子どもはいなかったし、結婚前から続けている仕事もある。久しぶりのひとり暮らしはたのしかった。女友だちと時間を気にせず飲める。気兼ねなく温泉旅行もできる。かつて結婚していたことを、ときどき忘れそうになる。

 それなのに、昨今、思い出すのである。あの狐女に残りの弁当をとられるたび、思い出すのである。別れた夫の声も顔もおぼろげだというのに、何かたいせつな、いやたいせつだと信じているものを、近しいと思っているものを、自分の一部のように思いこんでいるものを、毎回毎回、横取りされている気分になる。馬鹿げているとわかっている。だって狐女は知らない人だし、彼女は横取りどころかじつに正統的に弁当を買っているだけなのだし、そもそも、彼女が手にしたのは男でも夫でもない、天むす弁当なのだ。

 なんとなく狐女と天むす弁当を争っているのがいやになって、梅雨入りで雨続きなのも手伝って、二週間ほど豊子は弁当を持参していた。が、二週間後、まるで中毒のように天むす弁当が食べたくなり、昼休憩のチャイム終了とともに席を立ち、傘をさして商店街を走った。
「品切れでしたよ」急に声をかけられ、あまりに驚いて豊子は傘を落としてしまう。傘を拾って差し出すのは、あの狐女である。「大和屋さんでしょ? 今日は品切れ」と言って、笑っている。財布しか持っていないのを見ると、狐女も買えなかったのだろう。「どうですか、お昼、ごいっしょに」突然言われ、豊子はぽかんと口を開けて狐女を見上げる。「おいしい定食屋があるんですよ。天むす弁当には及ばないけれど」狐女は笑う。笑うと目が細くなって、きつく見える顔立ちが観音さまみたいになると豊子は思う。

 定食屋のカウンターで並んで、豊子は狐女に勧められた生姜焼き定食を食べる。生姜焼きも、小鉢の煮物もサラダも味噌汁も、たしかにおいしい。何よりごはんがきりっと立っていて、ほのかに甘くてすばらしい。おいしい、と思わずつぶやくと、「でしょう」得意げに狐女は言った。
「私がおいしいと思うものは、きっとあなたもおいしいと思ってくれると思ったの」と、ちいさく言い、恥ずかしそうに笑った。たしかにそうだ。天むす弁当を必死に争っている二人なんだから、味覚が似ていて当然だ。「生姜焼きの次のお勧めは鰺フライ定食なの。こんど試してみて」

 壁に貼ってある黄ばんだお品書きを眺め、豊子はうなずき、うなずいたとたんに片目から水滴がぽとりと落ちる。そのことに豊子も驚いたが、狐女はさらに驚いたようで、
「ごめんなさい、いきなり誘ったりして。びっくりするわよね」あたふたと言う。
「ちがうの、あの、おいしくて」豊子は言って、笑おうとする。もう片目から水滴が落ち、泣き笑いになる。

 本当はこんなふうに話したかったんだと、ふいに豊子は理解する。五年前だ。深く頭を下げた細身の女と。ねえ、この人のどこが好き? あらそう、私はそういうとこ苦手。あなたって痩せっぽちなのにおおらかね。そうね、彼の楽観的なところは私も好き、救われたこともあったわね。そうそう、そういうところは、ちょっとどうかと思うくらい傷つきやすいわよね、大人なのにね。そんなふうに話して、そうして豊子も頭を下げたかった。この人をどうぞよろしくね。うんとたいせつにしてあげてね。そう言って、彼女に負けないくらい深々と頭を下げたかった。だって、二人ともおんなじくらい好きになった人なんじゃないか。そう、気の毒に思ったなんて、せいいっぱいの強がりだったんだ。豊子ははなをすすり上げ、隣に座る狐女に笑いかける。

「こんど、私のお薦めの店も案内するわ。もし、天むすにあぶれて、またばったり会ったら」
「そうね、たのしみにしてる」狐女は言った。

 べつべつに勘定を払い、名乗らないまま店の前で別れた。別れ際、これからも本気で闘いましょうと言おうとして、言わなかった。そんなこと言わなくとも、彼女は全力で走ってくるだろうと思った。私だって全力で走る。ほしいものにまっすぐ手をのばして。雨があがっていることに気づいて、豊子はあわてて傘を閉じる。

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7月 3, 2009 見上げれば満天の星 |

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