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2009年6月12日 (金)

田中マルクス闘莉王さんの本棚



幅允孝

「おい、闘莉王あがりすぎだろー!戻れ、戻れ」。僕はサッカー日本代表の試合を見ながらTVに向かって何度か叫んだことがある。特に彼は、試合の中でも絶 対に点を取られてはいけない、言い換えると何とかして1点欲しい緊迫した局面で、ディフェンダーながらすごい勢いで前線に駆けあがって味方の加勢をしにい くのだ。

 田中マルクス闘莉王。いまの日本代表のディフェンスラインを支える屋台骨であり、そんな代表の中で最も気持ちを全面に押し出したプレイで観るものの心をつかまえる選手。その愚直ともいえる前へ前への推進力は、彼がこれまで歩んで来た道のりから生まれたものだ。

 日系三世である闘莉王は、16歳の時初来日。サッカー留学ではあったものの、そのスポーツでは無名の進学校でのプレイ。しかも今の流暢な日本語からは信じられないが、その当時はまったく言葉がわからず、テレビドラマを何度も巻き戻して見たり、作文をしたりして、ひとつひとつ0から学んだのだと言う。番組の中で紹介されていた原稿用紙に書かれていたのは、教科書でお馴染みの『スーホの白い馬』の感想文。そしてその絵本の傍らには、こんな本があってもいいだろう。『Ai ジョン・レノンが見た日本』。あのジョンが日本語を学ぶ時に使ったイラストと言葉がそのまま本になった1冊だ。例えば、「ikiru」という言葉には、花を摘んで眺める人のペン画が描かれており、ジョンが「LIVE=生きる」という言語を自然との共存として認識していたことがよくわかる。闘莉王も、きっと自分なりの掴み方で日本語を、そして日本という国の輪郭を少しずつ自分のものにしていったのだろう。

 田中マルクス闘莉王には好きな言葉があり、それは「気合い」だと言う。そんなマインドが培われた場所は母国ブラジルの家族の輪の中だった。厳格な父と、イタリア系の母。遠い日本からブラジルへやって来て、その土地における田中家の礎を築いた祖父と祖母。『目でみるブラジル日本移民の百年』という1冊を開いても明らかなように、明治41年に781人の日本人がサントス港に上陸してから100年を超え、150万人もの広がりを持ったブラジル日系人社会。厳しい環境の中で、ブラジルと日本の多文化社会の間を揺れ動きながら、自らのアイデンティティと生活の場を確立してゆくには、確固たる意志が、断固たる決意が必要だったに違いない。柔和で優しく見える祖父母や、大きな愛で包み込むような両親の背中が、闘莉王に「気合い」という言葉の真髄を理解させたことは、容易に理解できる。「欲しいものがあるなら自分で働け」と13の時から闘莉王を会計事務所で働かせた父。彼も教師の職に就きながら40歳を過ぎてから弁護士になる勉強を始め、後年資格を取ったのだと言う。ブラジルの家庭の風景といえば、陽気な音楽とサッカーボールと闘莉王がつくっていたような美味しそうな郷土料理ばかりではないらしい。彼の故郷には不退転の強い意志が宿っていたのだ。 

 ブラジル生まれの日本代表、闘莉王。かつて日本のことを「境界国」とよんだ思想家、内村鑑三も武士の子として生まれながら、キリスト教に帰依し境界を歩んだ者だ。そんな内村が英文で書き記し、新渡戸稲造の『武士道』や岡倉天心の『茶の本』と並んで、近代日本の精神をかたち作ったといわれる名著が『代表的日本人』だ。西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮という5人の異分野の先駆者を取り上げ、日本人が世界との距離感をどう取り、どう生きていくべきかを語っている。日本代表の誰よりもナショナルチームでプレイする誇りを感じさせる闘莉王。彼もまたボーダーを生きて来たもの故に、日本を代表するということの真意が自然に身に付いているのかもしれない。

 闘莉王は、次の試合でも緊迫した場面にすごい形相で味方の加勢に前線まであがっていくのだろう。だけれども、そのリスクにドキドキしながら、きっと期待感がそれを上回るに違いない。何と言っても彼は、気合いのはいった不退転の意志を背負う男なのだから。

プロサッカー選手・田中マルクス闘莉王篇(2009年4月19日放送)

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6月 12, 2009 あの人の本棚は、きっと |

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