第8話 走ること、走らないこと
走れば間に合うと思いながら、体が動かない。昨日までの自分のような人たちが、エスカレーターの右側をひょいひょいと駆け上がっていく。電車がホームにすべりこむ音がする。走ろうよ、と自分に言ってみるが、智世の足は動こうとしない。
ホームにたどり着くと、ちょうど電車が走り出すところだった。智世はホームに突っ立って、走っていく電車を見送る。そういえば、こんなふうに見送るのは、はじめてだなと気づく。
ほしいものは自分の手でつかむしかないと、智世は弱冠五歳のときから思っていた。その年に弟が生まれたのだった。相手が察してくれたり、問題解決してくれるのを待っているだけでは何もならない。何かほしいときは大声でほしいと言い、聞き入れられなければ声を張り上げてほしいと泣き叫ばねば、何も手に入らない。幼少時からずっとそう思ってきたし、実際智世は、ほしいものはそうして手に入れてきたのだった。ほしいもの――それはときには親の関心であり、物品であり、進学先であり、親友であり、恋人であり、貯金であり、仕事である。何から何まで手に入ったわけではないが、でも、友人にせよ恋人にせよ進学先にせよ就職先にせよ給与にせよ、今手元にあるものは、偶然降ってきたものでもなければ運命的にそうなったのでもない、ほしいとのぞんでみずから手に入れたものだと、二十九歳の智世は信じている。
砂に埋めた旗は、だれよりも速く走っていかないと、自分のものにはならない。それが智世の信念だった。昨日まで。
智世の勤める子ども服メーカーでは、異動の内示は三月にある。智世は内示を受けなかったので自分とは無関係だろうと当然思っていた。けれど四月も半ばを過ぎた昨日、突然、商品管理部への異動を通達された。商品管理部。耳を疑った。社員たちはその部を陰で「隔離病棟」と呼んでいる。仕事ができるとは言い難い社員や、定年間近な老社員たちばかりで構成された部で、仕事といえばひたすら、発注された商品の数と卸した商品の数をコンピュータに打ちこみ、間違いがないかを確認するのみ。他の部署とのつながりもなく、社外に出向く用事もなく、そこだけ隔離されたように孤立する、地味でさえない部なのである。営業部にいた智世の成績は、自身で客観的に見ても決して悪くはなかったし、大きなへまもしていない。物理的にも精神的にも、走って、走って、走ってきたのだ。夏に人事部の上司にランチに誘われたとき、商品企画部で働くのが夢だと熱く語り、上司は智世の働く姿勢を褒めてくれた。なぜいきなり隔離病棟なのか。もしかして、上司、「商品企画部」と「商品管理部」を聞き間違えたのか。
五時半の終業を待って、智世は人事部の上司の元にいった。無礼を承知で異動の理由を訊くために。
「まだ若いんだし、いろんなことを体験するのもいいと思って。とくにきみは、いつもあわてすぎだから、ああいうのんびりしたところは学ぶことも多いよ」と、上司はメロンパンを食べながら言い、「昼めし、取り損ねちゃって」と照れくさそうに笑った。
帰り道ですでに走る気力がなかった。隔離病棟。老いた社員と役立たずに囲まれて隔離病棟勤務。いったいなんのために走ってきたのか。だれよりも速く、と自分に言い聞かせてきたのか。恋人に電話をして愚痴ろうかと思ったが、そうする気力もなかった。
いつもより十分ほど遅く、会社の最寄り駅に着く。大勢の乗客とともに自動改札をくぐり、智世は会社へと歩き出す。数十メートル先で青信号が点滅していても、智世はもう走らない。
横断歩道の前で信号待ちをするのもずいぶんひさしぶりだった。道路沿いに植えられた木々の緑が、いつのまにかずっと深くなっている。おだやかな風にあおられて、白い葉裏を笑うようにのぞかせている。横断歩道を渡ったところに、新しいドーナツ屋ができていることに気づく。始業までまだ余裕はあるし、ドーナツ、食べていこうかな。好奇心やわくわく感というよりは、やけばちな気分で思う。
青になった信号を渡り、窓際にカウンター席のあるドーナツ屋に入る。カウンター席には女の子がひとり座っているだけだった。雑誌を読みながらドーナツを食べている。ドーナツとアイスティを買い、智世もカウンター席に座る。ガラス戸から信号待ちをする人たちが見える。もっちりした生地のドーナツを食べながら、智世は信号を待つ人たちを見るともなく見る。青になると、最前列にいた数人が競歩のような早足でこちらに向かってくる。うらやましい、と彼らを見て智世は思う。この人たちには急ぐ用がある。急ぐ理由がある。
のんびりしたところで何を学ぶのか、智世にはわからない。ちんたら歩いていたら、砂に立てた旗はだれかにとられちゃうじゃないか。
ドーナツを食べ終え、アイスティを飲み、智世は席を立つ。実際に異動するのは連休後だが、なんだか最後の一滴までやる気はしぼりとられたような気分だ。
店を出たとき、横断歩道を渡る人々のなかに、見知った顔を見つけた。昨日智世が異動の理由を訊きにいった、例の上司である。ずいぶんのったりと信号を渡っている、と思った矢先、彼のかたわらに小柄な老婦人がいることに智世は気づく。大勢が足早に信号を渡るなか、上司は老婦人の手を握り、彼女の速さに合わせて歩いているのだった。あんまり真剣な顔をしているから、上司は貴婦人をエスコートする少年みたいに見えた。
すべての人が信号を渡り終え、老婦人と上司だけが横断歩道上に取り残される。青信号は点滅し出すが、二人はちょうど真ん中の中央分離帯を過ぎたばかり。店を出たところで立ち止まり、智世ははらはらしながら二人を見守る。速く、速く、速くしないと赤になっちゃう。智世は胸の内で叫ぶが、老婦人はゆっくりゆっくり歩を進め、上司もそれに合わせてそろそろ歩いている。
信号は赤になってしまう。一台の車がクラクションを鳴らし、すると上司は眉間にしわを寄せ下顎を突き出して、その車の運転手にガンを飛ばしている。クラクションがやむ。木々の緑が風に揺れている。智世の足元で、木々の影がレース模様を作っている。やわらかい午前中の風に、ドーナツの甘いにおいと、それとはまったく種類の異なる、何かの花のあまやかな香りが混じっている。
ようやく二人は横断歩道のこちら側にたどり着く。二人の背後で車が走り出すのが、スローモーションのように智世には思えた。老婦人は丸い背をさらに丸く折り曲げて上司に向かって幾度も頭を下げ、ドーナツ屋の前を、ゆっくり、ゆっくり通りすぎていく。
おはようございます、と、智世はにやにや笑いで上司に声をかける。おう。短く答えて歩く上司に歩を揃える。
もういいや。智世は唐突にそう思う。もう走らない。走ってなんかやるもんか。ずっと歩いてやる。ずっとちんたら歩いてやる。そうすることでしか手に入らないものも、きっとあるはずなんだ。
「そこのドーナツ、意外においしかったですよ」隣を歩く上司に声をかけると、
「京都から取り寄せたおからを使ってるからな」真顔で返されて、智世は思わず笑い出す。
6月 5, 2009 見上げれば満天の星 | Permalink
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