第7話 十四歳
コースはずっと先のはずだが、駅前ロータリーからすでに人でにぎわっている。ボランティアスタッフが配っている無料地図を受け取り、それを見ながら幸泰と芳恵は人混みをくぐり抜け、先へと進む。
「もうスタートしたわね」腕時計を確認し、芳恵は重々しく言う。
「計画通り、まず十キロ地点に向かおう」幸泰は地図を指さす。
ゴールデンウィークも半ば過ぎた今日、この町ではマラソン大会が行われている。そうして幸泰・芳恵夫妻のひとり息子である亮太が、出場しているはずなのである。彼が嘘をついたのでなければ。
駅から桜並木が続いている。地図によると、地元の小学校グラウンドからスタートするコースは、駅から直進すること約一キロ、川を渡ったところで右折するあたりが十キロ通過地点になっている。町をあげてのお祭りなのだろう、とうに桜の散った桜並木はコースでもないのに、商店街の屋台が並び、応援客でにぎわっている。ビールにも、イカ焼きのにおいにもつられることなく、幸泰と芳恵は黙々と歩く。
亮太が学校にいかなくなって九カ月になる。去年の一学期までは、ごくふつうに通っていた。ところが、中学に上がってはじめての夏休みが終わると、学校にいかなくなった。最初は腹が痛い頭が痛いと仮病を使っていたが、そのうちそんなことすらもしなくなった。学校にいきなさいと幸泰や芳恵が言うと、うん、と言う。教師や同級生が訪ねてくると、意外なことににこにこして相手をする。明日はくるよな、と言われれば、うん、とうなずいている。けれど次の日、自室から出てくることはない。そのくりかえし。
最初こそ、説得を試みたり対策を練ったり、夫婦で額を合わせて話し合っていたが、冬休みが近づくと、亮太が家にいることに慣れてしまった。暴力をふるうわけでもない。食事の席につかないことも多かったが、部屋に食事を運べばきれいに平らげる。話しかければ短くではあるが、答える。そんな亮太に慣れることはたやすかった。芳恵もちいさな広告会社で働いていたから、亮太の昼食を準備して、さっさと仕事に向かった。
二年に進学するときは、さすがに夫婦そろって学校に相談にいった。けれど新担当と旧担当の教師は、神経科にかかることを勧めたり、フリースクールへの転校をほのめかしたりするだけで、とくべつ効果的なアドバイスはしてくれなかった。なんなの、あの人たち。要らないものは即排除か? 腐ったみかんじゃあるまいし。あれでも教師? 二人で口々に学校と教師を罵りながら、学校から駅へと続く道を歩いた。桜が満開だった。真新しい制服を着た新一年生が、陽射しみたいな笑い声をあげて通り過ぎていった。学校にいけなくなった亮太を見捨てようとする教師と、自分たち両親だってそう変わらないことに、芳恵は気づいた。
「逃げてたね、仕事に。私もあなたも」そう言うと、うん、と幸泰は、二十代のころを思い出させるような顔つきでうなずいた。
逃げまいと、いろいろやってみた。話し合おうともした、交換日記もメール交換もやってみようとした、せめて一日一食は家族で囲もうとした。けれどことごとく失敗した。失敗したと、思っていた。すっかり葉桜になるころ、フルマラソンに出ると亮太が言いだすまでは。
十キロ地点にようやくたどり着く。ここも、人、人、人である。まだ第一走者の姿も見えないと言うのに、天使やナース、パンダや禿げ親父の仮装をした人々が、出場者の名を書いた横断幕や旗をふり、太鼓を鳴らしている。自分たちの奇妙な変装が、まったく目立たないことに芳恵は安堵し、人と人の隙間をぬって最前列へ出ようとする。
「あんまり出ると、見つかるぞ」
「そうだけど、見失ったら困るじゃない」
そう言いつつも、芳恵は半分はまだ疑っていた。おれフルマラソンに出るよと、声変わりした太い声でぶっきらぼうに言った亮太は、家を出たものの、いやになって会場へはいかなかったのではないか。今ごろ、駅近辺のゲームセンターで遊んでいるのではないか。そうなることを自分でも予想していて、だから、でもぜったいに見になんてくんなよ、とものすごい形相ですごんだのではないか。
応援がいっそう激しくなり、顔を上げると、第一走者とそれに続く数人が走り抜けていくところだった。なんと速いのか。サングラスを額に押し上げ、芳恵は目を見開いてランナーたちを見送る。十五分ほど過ぎると、走る人の姿は一気に多くなり、応援はさらにヒートアップする。芳恵は目を凝らして亮太の姿をさがす。いない。いない。いない。通過するランナーはどんどん増えていく。
「見つけたら教えてよ」隣に立つ幸泰に言う。「おまえもな」幸泰も真剣な声で返す。
だんだん走る人の数は少なくなってくる。腕時計を確認すると、スタートから一時間十五分経過したところだ。たしか、二時間以内にここを通過できないと、制限時間切れで棄権しなければならない。間に合うか。間に合うか、亮太。芳恵は幸泰の手をかたく握りしめる。幸泰の手は汗で濡れている。いや、汗ばんでいるのは自分の手か。亮太が走っていることを露とも疑っていない自分に気づく。そうだ、あの子は、やると言ったことはやる子なんだ。
ほとんど歩いているような老人、仮装したものの衣装が重すぎるらしいピンクのうさぎ、いやいや出場しているようなメタボ中年たちが、よろよろと十キロ地点を通り過ぎていく。応援客は次の応援地点に向かったらしく、ほとんどいなくなっている。そんななか、芳恵と幸泰はかたく手を握りしめて、じっとその場に突っ立っていた。あと二十分で制限時間になってしまう、と芳恵が思ったそのとき、向こうから走ってくる亮太の姿が見えた。Tシャツに、寝間着代わりにいつも着ているジャージ。だんだん近づいてくる。首が上がり、肩はいかり、フォームはめちゃくちゃで、それでもまっすぐ前を見据える目にはまだ力があることが、芳恵には見て取れる。汗で頭髪はぐっしょり濡れ、Tシャツは上半身にはりついて、乳首が透けている。ああ、亮太が走ってる。そう思ったとたん、走る亮太の姿が霞む。涙がぼたぼたと頬を伝って落ちる。わああああん。懸命に堪えても声が出る。わああああん。芳恵は両手で涙を拭いながら声をあげて泣く。「見つかるぞ、おい」と言う幸泰も、すでにしゃくり上げている。
何をするにも遅かった。クレパスでみんな絵を描きはじめても、クレパスをじっと眺めている。みんなが描き終わるころ、ようやくそろそろと画用紙に向かうのだ。手を洗う順番だって、人に譲ってばっかりで、いつもビリ。ゆっくりゆっくり石鹸を泡立てて、リョウちゃんもういいからね、って保母さんが困ったように言っていたっけ。ブランコからいつまでも降りてこないから、早くしなさいって思わず怒鳴ったら、足元に蟻がいるから降りられないと言って、泣いたのだ。地面に足をついて蟻を殺すなんて、あの子はできなかったのだ。そういう子なのだ。やさしくて、時間がかかって、ひとりきりで静かに何かと闘って。
十四歳。私もそうだったと芳恵は思い出す。学校へはいっていた。けれど何もかも嫌いだった。親も友だちも先生も。そして何より、自分自身がいちばん嫌いだった。でもそういう時期がなければ、私たちは脱皮できないんだろう。あまやかな子どもの殻は、もがいて脱ぎ捨てるしかないのだ。変装した夫婦の前を、彼らには目もくれず汗まみれの十四歳は通り過ぎていく。よたよたと格好悪く、たよりないが、それでも着実に前へと進んでいく。静かに、静かに、闘っている。
わあああああん。ミニスカートをはいていることも忘れ、芳恵はその場にしゃがみこみ、道路に突っ伏すようにして泣く。おい、ほら、立て、と、やっぱり泣き声の幸泰が芳恵を立たせる。抱き合って泣く。がんばれがんばれ亮太。抱き合ったまま、もう声も届かないだろう後ろ姿に向けて、思い出したように声援を送る。
5月 1, 2009 見上げれば満天の星 | Permalink
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コメント
僕は偶然この番組を聞きました。感動しました、ありがとうございました。さんくす♪(o ̄∇ ̄)/
僕は今24です。まだ青春期にいると謂われましたけど、全然青春とは感じません。亮太の物語を聞くと、14の自分を思いましたね。10年前の自分を繰り返して見ると、ついアンサーが出てきました、自分の青春はどこに消えたなんて。10年の間に僕の夢がだんだん失ったからね。青春と夢はやっぱり親子みたいな関係ですよね。夢があれば、青春があるって。亮太はきっと自分の夢を持ちました。
投稿: 李文靖 | 2009/05/06 10:14:14