第5話 パンク・ミドルエイジ
「ちょっとパパー、なんで鍵なんかかけてるのお? ミーちゃんをお風呂に入れたいんだけど」
「あっ、ごめんごめん」啓介は返事をし、あわてて革パンを脱ごうとするが、肌にはりついたようになって脱げない。じたばた動きまわった挙げ句、派手に転んだ。
「ちょっと、どうしたのっ」洗面所のドアを妻の藍子が騒々しく叩き、太股まで脱ぎかけの革パン姿で転んだまま、腕をのばして鍵を開ける。
「きゃーっ、どうしたのパパ」藍子はあわてて啓介を抱き起こすが、そうしながら大声で笑い出した。母親の後を追って洗面所にきた四歳の娘、未来もいっしょになって笑う。このごろの未来の癖で、いったん笑い出すとそんなにおかしくもないのに笑い続け、やがて金切り声の馬鹿笑いになる。笑わないでよー、という自分の声が情けなく耳に届く。
「なーに、来月のライブで着ようと思って昔の服を引っぱり出したの?」
「ジッパーがしまんなかった」
「ああ、そういうときはね、寝転がってしめるとしまるのよ」
脱ぎかけの革パンを腿まではいたままの啓介にかまわず、藍子は未来の服を脱がせはじめる。ときどきガハハッと天井を仰いで笑い、その都度、未来までキャアキャアとわめく。「でもジッパーがしまったとしても、そりゃないわね、そりゃないわよ」笑いながら言い、自分も服を脱ぎはじめる。革パンをひっかけたまま啓介は洗面所を出、リビングにいって苦労して革パンを脱いだ。まだ肌寒い三月のはじめだというのに、Tシャツは汗でびしょ濡れだ。
うーん、痩せるか、と革パンを目の前にかざし、啓介は思う。いろんなスーパースターが死んだ二十七歳という年齢で、おれは死ななかった。死なずに二十八歳になったとき、決めたもんな、こうなったら一生パンクだって。その後メジャーデビュー寸前までいったバンドは解散し、三十直前で遅蒔きながら就職し、三十一歳で藍子と出会い、翌年日本閣で結婚式を挙げ、三十三歳のとき未来が生まれて父親になった。就職以後は、十六歳のとき思い描いていたパンク人生とは一見ことごとく対極だが、でも心はいつでもパンクだった、と啓介は思っている。
二年前、かつてバンドを組んでいた仲間たちと再開し、月に一度集まってスタジオにこもるようになった。ベースもギターもドラムスも、みな結婚していた。ドラムスは三人の子持ちで、ギターはマンションのローン返済に追われ、ベースは不妊治療の結果、ようやく妻が身ごもったとうれしそうに語った。みな啓介と同じようにふにゃりと腹が出ていて、ギターに至っては頭頂部が禿げていた。それでも練習後に安居酒屋にいき、語る言葉は十年前と変わらず熱い。おれたち、終わっちゃねえよな、とりあえず会社に属してるけど魂までは売っちゃねえよな、最近のガキどものさわやかパンクはいただけねえよな、などと、酎ハイを片手に息巻いてしゃべる。
再結成ライブをやろうと啓介が言いだしたのが昨年夏、その直後に下北沢のライブハウスを予約した。二十代のときよく出演していたライブハウスで、オーナーは啓介からの連絡を懐かしがり、だからデモCDの審査は必要なかった。その記念すべき再結成ライブは、いよいよ来月である。月一だった練習は、今や週に一度になった。ああ、それなのに、革パンがぱつんぱつん。
風呂から出てきた藍子に、「明日、おれ、六時に起きるから、もし目覚まし止めて寝てたら蹴飛ばしてでも起こして」と啓介は頼む。
「えー、一時間も早く起きてどうするの」
「走るんだ」
「走るって……」藍子は言葉を切り、先ほどの無様な啓介を思いだしたのか、また笑いだす。着ぐるみパジャマを着た未来も笑う。笑え笑え、啓介は思う。今のうち笑っておけ。来月のステージを見てぶったまげるぞ。パパってこんなにかっこよかったのって、涙浮かべて思えばいいさ。
しかし翌日、啓介は起きられなかった。目覚ましの音は聞こえなかったし、幾度か藍子に揺さぶられた気がするが、はっと気づくと七時十五分、いつも起きる時間を十五分過ぎていた。起こしてって言ったじゃない、と言いながら食卓につくと、
「甘えんな」ごはんと味噌汁を並べながら藍子は太い声で言う。「小学生の息子じゃあるまいし、自分で走るって決めたなら人に頼らず自分で起きろ。私はあんたの目覚ましじゃない!」なぜかひどく機嫌が悪い。「ほら、ミーちゃんごはんで遊ばない!」未来にもとばっちりである。
駅までの十二分の道のりを、大勢の勤め人たちとともに啓介は歩く。せめて駅まで走ろうかな、と思ってみるが、革靴では走りづらいだろうし、今日まわる予定の取引先に汗くさいと思われても困る。結局、走らない。
啓介は文房具会社の営業部で働いている。ほぼ一日営業車に乗って得意先をまわり、注文品を届け新たな注文を取り、サービス商品を紹介したり新製品を売りこんだりする。営業なんてぜってえ向かねえ、と配属された当初は思っていたけれど、啓介は得意先の人間になぜか好かれ、個人商店では必ず引き留められてお茶を出される。今日も午前中、畑中文具店で大福餅を、文具のミツイケでシュークリームを、松田商店で羊羹を、お茶とともにいただいた。せっかく出してくれてるんだから残せねえよな、と思いつつ、そのすべて、啓介はたいらげた。それだけ食べたのに十二時近くにはきちんと腹が減る。もり蕎麦程度にしておくかな、と思いつつ、気がつけばラーメン屋のカウンターで「背脂多めで」と言っている。
明日こそ走る。明日こそ走る。明日こそ。毎日そう思いながら眠り、けれど一度として起きられない。ようやく啓介が目覚ましの音で起きられたのは、ライブが二週間後に迫った月曜だった。よし、走る。啓介はジャージに着替え、首にタオルを巻き、台所で朝食の準備をしている藍子に「走ってくる」と凛々しい表情で告げる。えー、ほんとに起きたのー、という藍子の声を聞きながら玄関に向かい、シューズを履いて猛然とおもてに出る。
マンションのエントランスで、よし、と自身に発破をかけ、啓介は走りだす。三月半ばの早朝はまだ肌寒い。縮こまるようにして走る。体が重いことに啓介は驚く。全身に鉛をくくりつけて走っているみたいだ。それでも足を止めない。二十代の自分の姿を思い出す。コンパスみたいに細かった足、硬かった尻。髪をかためたデップのにおい、ライブハウスの暗がり、女の子たちの黄色い声。そう、あのころは出待ちするファンだっていたんだ。下心見え見えで打ち上げに紛れこむ女の子だっていた。藍子も未来もそんな自分を知らないけれど。
むぎゃ、と声をあげて啓介は転ぶ。右足がいきなりつったのである。犬の散歩をしていた老婆が「ちょっとあんた、だいじょうぶ? 救急車呼ぶ?」と声をかけてくる。右足は信じがたいほど痛み、起きあがれないが、救急車ほどではない。いや、だいじょうぶッス、と無理に笑顔を作り、啓介は必死に右足をのばす。
ようやく立つことができたが、もう走る気にはなれなかった。とぼとぼとマンションに向かう。腕時計で確認すると、啓介が走ったのはたった五分弱だった。
客席はそこそこ混んでいた。けれど多くが直前に演奏したバンドのファンだったらしく、啓介たちがステージに出ると、すでに客は半分に減っていた。しかもほとんどが知り合いである。ドラムスの三人の子どもたちと未来が暗いフロアを走りまわり、ドラムスの妻がそれを追いかけている。前のほうで風呂敷を敷きちょこんと座っている老夫婦はベースの両親だ。営業部の後輩たちが、後ろのほうで早くも酔っぱらっているのが見える。藍子はステージに出てきた啓介には目もくれず、ギターの妻と夢中で話している。
結局、今日までに走ったのはあの五分弱だけである。体重は一キロたりとも減っていない。革パンは諦めた。啓介はユニクロで買ったブラックジーンズをはいている。ウエスト部分に腹がのっている。二の腕のぽっちゃり感を隠すため、ワンサイズ大きいロングTシャツを、これまたユニクロで買った。ドラムスははっきりとメタボ体系だし、痩せ体型のベースも腹だけは出ており、ギターは禿げている。
でもいいんだぜ。啓介は思い、スタートの合図をドラムスに送る。スティックが鳴り、続けてギターの大音量が鳴り響く。これがおれたちのパンクだ、中年パンクだ、文句あっか。生き残ったんだ、二十七で死ななかったんだ、だったら生きてくしかないんだ、家庭を持って働いて、スーツ着て頭を下げて、ラーメン食って禁煙して、生きてくしかないんだぜ。
啓介はマイクに飛びつきがなるようにうたいはじめる。頭のなかが真っ白になる。自分の年齢も体重も一瞬でぶっ飛ぶ。マイクに食らいつくようにしてうたう啓介は、重力なんかぜんぜん感じず、飛ぶように風を切って走っている。その快感を存分に味わっている。
3月 6, 2009 見上げれば満天の星 | Permalink
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コメント
いつも楽しみに読んできます。
書籍化されたら絶対に買います!
投稿: さえき | 2009/03/07 10:42:19