第3話 男たるもの
実際、学校を出て勤めはじめてからというもの、源三郎は走った記憶がない。約束に遅れそうでも、みずからのペースで歩く。突然の土砂降りになっても、ずぶ濡れで歩く。駆け込み乗車をしたことはただの一度もない。
おとうさんは古いのよ、と、娘の里香は言う。自分がときにこのひとり娘を苛立たせているらしいことは、源三郎も理解している。高校にあがってから、ずいぶんと意見するようになった。おいしいとかありがとうとか、おかあさんに言ったらどうなの。おかしいときには笑ったらどうなの。どうして待ち合わせに遅れることがわかっているのに急がないの。私とおかあさん、何分待ったと思ってるのよ。
しかし娘の文句や苛立ちは、源三郎の信念をかえもせず、揺るがすことすらしない。しかたないじゃあないか、だっておれは古い男なのだ。娘から文句を言われるたび、胸の内で源三郎はつぶやく。口には出さない。言い訳もまた、「してはならん」ことのひとつだった。
里香とは違い、源三郎の古さをよく理解してくれていた妻の加代子が二年の闘病の末亡くなったときも、源三郎は泣かなかった。少なくとも、人前では。たんたんと喪主をこなし、ほとんど事務的に四十九日も一周忌も終えた。
里香が嫁いだときも泣かなかった。ああここに加代子がいれば、と式の最中ふと思い、思ったとたんに目頭が熱くなったが、こらえた。三年前、里香が赤ん坊を産んだときも、病院にはいかなかった。夫の良和くんが出産に立ち会うというのを聞いて、多少は安心しもしたが、しかし信じられない気持ちのほうが大きかった。男が分娩室に入るとは。
里香が赤ん坊を連れて家にやってきたときは、正直、困った。仏頂面をし続けるのがむずかしいくらい、赤ん坊はかわいかった。女の子で、遥香と名づけられている。里香も良和くんも見ていない隙に、源三郎は遥香をのぞきこんで、満面の笑みを見せたり思いきり顔をゆがめたりした。背後で物音がするたび、急いで仏頂面に戻り、新聞を広げたりテレビのチャンネルをかえたりした。
正月を実家で迎えるため、遥香を連れて里香と良和くんは昨日やってきた。大晦日の今日、良和くんと里香は朝から買い出しにいき、昼食のあとは台所にこもってずっとお節を作っている。里香が作るのならわかるが、良和くんも前掛けなどをして、里香に言われるとおりサツマイモをふかしたり、数の子の薄皮を向いたりしている。里香が台所を離れた隙に良和くんに近づき、「無理をせんでいいんだぞ」と源三郎はささやいたのだが、「いやー、おとうさん、料理って意外とたのしいんすよ」と娘の夫は邪気のない笑顔で答え、源三郎をまたしても驚かせた。
歩けるようになった遥香がまとわりついて邪魔なので、散歩に連れていってほしいと頼まれ、源三郎は幼い遥香とともに家を出た。まったく厄介だ、という顔をして家を出たのだが、内心ではうれしくてたまらなかった。里香たちに見られるのではないかとびくびくせず、存分に笑え、存分にふざけ、存分にはしゃぎ、存分に猫なで声を出せる。
大晦日の商店街はにぎわっていた。どの店も軒先にワゴンを出して、正月用商品を並べ、売り子が声をはりあげている。門松や正月飾りを売る急ごしらえの小屋も出ている。正月の準備をする、あらゆる年代の男や女や家族連れがそのなかを行き交っている。ねえじーじ。あれは何。ねえじーじ。ママもくる? ねえじーじ。おつかいするの? 最近いっぱしに話せるようになった遥香は、ひっきりなしに源三郎に話しかける。その都度源三郎はしゃがみこみ、「あれはお餅でちゅよー、明日、はーちゃんも食べるんでちゅよー」だの「おつかいはナイナイよー、お散歩でちゅからねー」だのと答えた。
凧がほしいと遥香が言い、屋台の凧屋で源三郎は漫画の絵入りの凧を買い求めた。ほら、凧でちゅよ、とふりかえったところに遥香の姿がない。
一瞬にして血の気が引いた。買ったばかりの凧を凧屋に押しつけ、気づいたら源三郎は走っていた。すぐに遥香の姿は見つかった。数十メートル先をおもちゃみたいな動きで走っている。着膨れたちいさな背中は、行き交う人々のなかに隠れたり、あらわれたりする。はーちゃん、おい、遥香! 人の視線もかまわず、大声をあげて源三郎は走る。人にぶつかり、舌打ちをされ、それでも走る。
走りながら、源三郎は驚く。このおれが、走っている。しかも、走っているのに思うように進めない。あんなちいさな子どもに、なぜ追いつくことができない。それほど長く走ったわけでもないのに、もう息が苦しく、足がもつれる。
源三郎は「走る」ことがどんなことだったか思い出す。地面を蹴る感じ、鼻で吸って口で吐く呼吸法、空気を切りこんでいく感触、背後に流れていく風、景色が近づいては一瞬で遠のいていく、あの爽快。運動会の、級友と走った土手の、意味もなくひとりで走った夜道の、消し去られていたような光景が次々と浮かぶ。
記憶のなかの「走る」と、今自分がやっていることの、あまりの違いに源三郎はあらためて驚く。年をとったのだ、こんなにも年月を生きたのだと、今さらながら、気づく。
ちいさな背中は、冬の陽射しを受けてちらちらと進んでいく。なかなか追いつかないそれが、手に入らなかった、いや、永遠に手に入らない何かであるような気が、ふいにする。はーちゃん、はーちゃんと、息切れしながらも叫び、源三郎は走る速度を上げる。その一瞬、かつて走ることがもたらした感覚が、源三郎の内によみがえる。汗や草いきれや爽快や。
泣け。笑え。叫べ。走れ。そうだ、もう、それらを自分に許したっていいのだ。死にものぐるいで走りながら、すぐそこに近づいた幼い背中に向かって源三郎は両手をのばす。今まで笑わなかったぶん、泣かなかったぶん、叫ばなかったぶん、走らなかったぶん、精一杯やっていいのだ、このちいさないのちといっしょに。
あと数歩で追いつくというとき、ちいさな背中は急に立ち止まる。ふりかえり、源三郎を見上げて笑う。つんのめり、よろけそうになる源三郎の広げた腕に、ちいさな孫は自分から飛びこんでくる。しっかり抱き留めて源三郎は大きく深呼吸する。ヒューヒューとへんな息が漏れる。大きく息を吸うたび、ミルクと日向の混じったようなにおいが自分を満たし、大声で泣きたいような、大声で笑いたいような、いや、そのどちらもを同時にやってのけたいような気分に、源三郎はなる。
1月 2, 2009 見上げれば満天の星 | Permalink
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