第2話 愛が走る
京子は生命保険会社で営業をしている。成績がよく、表彰されたのも一度や二度ではない。仕事で走ることもままあるけれど、さほど多くはない。いつ走るかといえば、終業後だ。
京子の夫、敏之は公務員で、毎日判で押したように定時に帰ってくる。六時十分。京子の仕事が終わるのが七時前後、ときには八時近くなることもある。敏之は料理を何ひとつできないから、京子が帰ってくるのをビールを飲みながら待っている。
それで京子は、腹を空かせているだろう夫のために、走る。会社を出て駅まで走り、最寄り駅から走ってスーパーにいき、せかせかと買いものをし、長蛇の列のレジに苛々と並び、スーパーを飛び出てマンションまで走る。夕食の時間が遅くなることで、怒るような夫ではないと京子は知っている。八時過ぎだろうが、九時過ぎだろうが、敏之はにこにこと京子を迎える。「お帰り、お疲れさま」と言って。
ただ、何も食べないのだ。食べないことが苦にならない男なのだ。京子が何か用意し、目の前に並べれば食べ、「おいしい」「やっぱり京ちゃんの料理がいいね」などと感想を述べるが、そうしないかぎり、何も食べずにいて平気なのだ。それでは体もこわすだろうと心配だから、京子は走るのである。ごはん、ごはん、ごはん、と思いながら。京子は食べることが好きだったし、空腹には耐えられないたちだった。
そしてあるとき、京子は急に、走ることが嫌になった。両手にスーパーの買いもの袋を提げたまま、とうに日の暮れた住宅街に立ち尽くし、もう嫌だ、と思った。結婚してからこっち、私、ずっと走ってる。人のおなかの空き具合ばかり考えて。駆けこみ乗車だってしたことないし、青信号が点滅していれば次に青になるまで待つ、そういう私が、どうして必死に走ってるんだろう。もう嫌だ、こんなの。
そうしてその日、いつも通りにこにこと京子を迎えた敏之に、別れたいと言った。玄関先で、靴も脱がず、スーパーの袋を提げたまま。え、なんで。敏之は目を丸くする。え、なんで。くり返す。
どうしてもどうしても別れたい。京子は頑なに言い、言っているうち泣けてくる。なぜ泣いているのかわからないまま涙を流し鼻水をすすり上げ、別れたい、と強固に言い募る。
今年四十歳になった京子は、日の暮れた商店街を歩いている。店々の店頭に、白や黄色の明かりが灯り、果物や野菜や、肉や総菜を照らしている。それらを眺めてのんびりと京子は歩き、ときどき店頭で立ち止まり、自分より若かったり同年代くらいだったりする女たちとともに、みかんの値段を吟味したり、刺身の鮮度を確認したりし、財布を取りだして何品か、買う。毎度ありー、という魚屋のだみ声に会釈を返し、京子はふと五年前のことを思い出す。
あのとき、私、何が嫌だったのかな。走ってることだけが嫌だったのかな。それとも、食事をしなくても平気な夫のことが、本当は嫌だったのか。子どもができないことが、そのことについて話し合うこともない関係が嫌だったのか。あんなにかたくなに別れたいと言い、理由がわからないと言い続ける敏之を説得し、実際離婚してしまったというのに、嫌になった本当のところは、あのときもよくはわからなかったし、今も、うまく思い出せない。だって、私は勝手に走っていたのだ、と京子は考える。走れと言われたのではない、無理に走らされたわけではない。なのに。
ひとりになって、走らなくてよくなった。京子は今も生命保険会社に勤めている。課長の肩書きをもらったのは今年の春だ。仕事が終わらなければ残業し、しなければ切り上げ、電車に揺られ、ひとり暮らしのマンションまでの商店街をぶらぶら歩いて帰る。友だちと飲みにいくこともある。いついかなるときも走らない。離婚してから五年、恋愛は一度したものの、今は恋人はいない。そのことへのうっすらした焦りはあるが、走らなくていい暮らしに、心の底から安堵もしている。
ケーキ屋の軒先に立ち、プリンでも買っていこうかな、と思案していると、向こうから走ってきた女が勢いよく京子にぶつかった。京子はよろけ、女は転びそうになったものの素早く体制を立てなおし、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きそうな顔で謝り、京子がそれに応えるのも待たず、また走り出していった。右肩にショルダーバッグをかけ、左手にスーパーの袋を持って走るその後ろ姿を京子は見送る。
好きな人がおなかを空かせて家で待っているのかな。
そう思い、はっとする。
そうだ、私、好きだったんだ、夫のこと。本当に好きで、でも、その愛情を表現する手段が、ごはんしか思いつかなかった。とにかくごはんを食べてもらうこと。栄養を考えて作った料理を並べて食べてもらうこと。そんな方法でしか、夫に好きだと伝えることができず、でももちろんそんなことは伝わらず、ごはんは夫にとってただ日常のひとこまに過ぎず、そのことにいつも失望していたんだ。そんなふうにできあがってしまった、自分たちの関係に。
好きだったけど、いや、好きだったから、あのとき別れなければ今も私は走っていただろうと京子は思う。自分のペースではない暮らしを、くるくるとまわしていただろう。生活って難しいなあ。プリンを買おうか迷っていたことを忘れ、京子はケーキ屋の前を離れる。商店街のにぎやかな明かりを縫うようにしてぐずぐずと歩く。生活という、意味不明の、やけにどっしりした何かに比べたら、好きだなんて気持ち、とるに足らないようなものじゃないか。
マンションにたどり着いたのは九時近くである。暗いリビングに入り、明かりをつけるまでの数秒、さみしいな、と思うが、テーブルにかんたんな料理が並ぶころにはそのさみしさも消えている。グラスにビールをつぎ、いただきますと京子はつぶやき、食事をはじめる。静かな部屋。湯気を上げる味噌汁。いつか、私はまた恋をするだろうかと京子は考える。走らなくてもいい愛情を、だれかと分かち合えるだろうか。さっと作った煮物を食べ、思いの外のできばえに、うん、きっとだいじょうぶと京子は満足げに頷く。
12月 5, 2008 見上げれば満天の星 | Permalink
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