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2008年10月 3日 (金)

最終話 最後の食事、明日のごはん



角田光代

 私あんたを連れて死のうとしたことがあるのよ、と、母があまりにも衝撃的な発言をしたのは、由子が母と向き合って食卓についたときだった。食卓の真ん中ではすき焼きがもうもうと湯気を上げている。

「何それ、何よそれ」

「お肉、もう食べられるわよ、いいお肉だから煮すぎないほうがいいわよ」生卵をかき混ぜながら、のんびりとした口調で母は言う。

「それより、なんなの、どういうことなのよ」急いで卵を割り、肉に箸をのばし由子は再度訊く。

「あんた、覚えてない? 夜更けにバスにたくさん乗ったこと。あんたは四つになってたかな」

 由子は肉を咀嚼しながら思い返す。母と夜のバスに乗った記憶はたくさんあるが、祖母の家から帰ってきたり、習いごとから帰ってきたりと、みな目的がちゃんとセットになっている。

「ねえ、お肉、やっぱり奮発してよかったね、おいしいね」湯気の向こうから母が笑いかける。
「うん、おいしいよ。ねえ、それで」
「どこで死のうかなあって考えて、バス乗り継いでいるうち、おなか空いちゃったの。それでね」
「ちょっと待って」由子は母の話を遮る。「なんでそんなことになったの」
「おとうさんに女ができたからよ」おだやかな声で母は言い、くたくたに煮えた春菊をつまみ上げる。
「ええっ、おとうさんに女が」女、という母の言葉の生々しさにたじろぎながら由子は繰り返す。

「そうよ、出てっちゃったのよ。女のところにいっちゃったの。それで私は仕事もしていなかったし、かなしいやらくやしいやら不安だわで、なんだかもう、い やんなっちゃったの。それでもういいや、死んじゃおうって思って、いちばんいい訪問着着てさ、あんたにもおめかしさせて、家の鍵閉めてバス停まで歩いて、 それでバス乗ったの」

 由子は茶色く染まったじゃが芋を食べる。母の作るすき焼きにはじゃが芋が入る。ふつうのすき焼きにはじゃが芋を入れないと、二十歳を過ぎるまで知らなかった。甘辛いじゃが芋はほくほくと口のなかで崩れ、由子は母の衝撃告白を一瞬忘れ、ああシアワセ、と心の内でつぶやく。

「バス乗って終点までいって、そこからまたバスに乗って……そんなことしてるうちにね、おなかが減っちゃったのよ。ほら、腹が減ってはなんとやらって言う でしょ、それで、最後の晩餐だと思って、繁華街までいくバスに乗って、お店を一軒一軒のぞいて歩いたの。最後の晩餐なんだから、おいしいもの、食べさせた いじゃない」

 おいしいものを食べたい、ではなく、食べさせたいと言うところが、母という人だと由子は思う。

「それで、何食べたの」

 うふふ、と母は照れくさそうに笑い、「すき焼き。すんごい豪勢なお値段の」と言う。

「すき焼き屋さん」
「そう、すき焼き屋さん」

 母は傍らに置いた肉の薄いフィルムを器用に箸で剥がし、鍋に広げて入れていく。由子は着物姿の母とすき焼き屋に入ったことを思い出そうとするが、やっぱり思い出せない。

「不思議なものよねえ、おいしいもの食べながら、人って怒ったり、悪いこと考えたり、できないのよねえ。おいしいね、おいしいね、って食べ合って、ふと顔 上げたら離れたところに鏡があってね、私、笑ってるのよ、鏡のなかで。なんだ、笑えるんじゃないの。しかも、おいしいって思ってるんじゃないの。図々し い、何が死んでやる、よ。そう思ったのよね」

 すき焼きが私たちの命を救ったのだろうかと由子は考える。いや、そもそも母は死ぬつもりなんかなかったのではないか。でも、すき焼きを食べていなかったらどうなっていたか、今ではだれにもわからない。

「それで、おとうさんはどうなったの」
「一週間くらいして、帰ってきたわよ。うまくいかなかったんじゃないの」
「許したわけ?」
「許すも許さないも、私、好きだったんだもの」
 ぬけぬけと母は言う。女という母も、好きという言葉を使う母も、由子ははじめて見る。
「おとうさんは、朝ごはんだったわねえ。卵に鰺に、おつけものに海苔に、おみそ汁」
「え、何が」
「最後のごはん。このおうちで食べた、最後のごはんよ。本当の最後はヨーグルト一口だけど、でも、あのいつも通りの朝ごはんが最後のごはんだったんだって私は思ってるの」
 父は三年前に亡くなっている。母は取り乱しもしなかったし、大泣きすることもなかった。葬儀が済むと、昔からそうしていたように淡々とひとり暮らしをはじめた。
「私はね、イタリア料理だった」
「え、なあに」
「俊文さんとの最後の晩餐」

 由子は笑う。由子は先だって、六年交際していた恋人と別れたばかりだった。なんとなく結婚するんだろうなと思っていた相手だった。けれどそうはならな かった。話があると言われたとき、のんきにも由子は、プロポーズだろうかなどと考えたのだった。好きな人がいるんだと言われたときは、あまりの驚きで地面 が揺れているように感じた。ぽかんと口を開けて六年来の恋人を見つめたまま、しかし由子は、泣いても騒いでも脅しても、自分たちは元に戻らないと実感し た。最後に、と、二人で食事をしにいった。これから別れることが嘘のように話が弾んだ。笑って言葉を交わしながら、由子はゆっくりと納得した。自分たちが これから違う道を歩いていくのだと。

 前菜もワインも、パスタもメイン料理もおいしかった。おいしいと感じることに安堵しながら、デザートまでしっかり食べた。そうだ、たしかにあのとき、と もにいた六年を後悔したり否定したり、元恋人を罵ったり怒ったりする気にはなれなかった。だっておいしかったのだ、何もかもが。

 見栄っ張りな母が、なぜ昔の、母にすればかっこいいわけではない話を今したのか、由子には理解できる。母は母のやりかたで、娘をなぐさめようとしてくれているのだろう。ひとつの関係を手放してしまった娘を。許すも許さないも、好きで覆えなかった娘と娘の恋人を。

「おかあさん」由子は照れくさくて言えない感謝の言葉のかわりに、言う。「すき焼き、すっごくおいしいね」

「そう、よかった」母は顔を上げず、肉を追加しながらさりげなく言う。けれど由子には、おいしいという言葉に母が深く安心していることがわかる。

 もし今度、と由子は考える。もし今度、だれかと恋をして、その先にずっとつらいことが待ち受けていたとしたら、もうだめだと思うようなことがあったら、私もひとりで豪勢なすき焼きを食べようかな。着物を着て思い詰めた顔ですき焼き屋に入った若い母を思い出しながら。

「あ」そんなことを考えていた由子は唐突に思い出す。延々バスを乗り換えた夜のこと。どこいくの、と訊いても、母の横顔はかたく、返事はなかった。バスの 窓の外が、どんどん暗くなってきて、いつもなら不安で泣き出したろうけれど、なかなかった。かたい表情の母が、それでも自分の手をずっと握りしめていてく れたからだ。その手はちゃんとあたたかかったからだ。

「なあに」
「ううん、なんでもない」由子は薄く笑い、「じゃが芋もーらおっと」鍋にひとつ残るじゃが芋に箸をのばす。うん、おいしいね。由子はほろほろした味を確認しながら、心のなかで自分自身に向かって言う。

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10月 3, 2008 ゆうべの食卓 |

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