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2008年9月 5日 (金)

第11話 いつかきっとわかるいくつかのこと



角田光代

 こういうお店の人は私たちに対してたいがい冷たい、と柚子は思う。もう慣れっこだから、柚子はなんとも思わない。個室じゃない場合は、ほかの座席の客も ちらりと冷たい視線を投げかける。それも慣れっこ。どうして冷たい視線を投げられ、冷たい態度をとられるか、柚子にはよーくわかっている。自分が場違いだ からだし、クーちゃんとの二人連れが「いかにも」だからだ。

 割烹着のおばさんは柚子たちの前に小鉢を置いていく。ぼた雪みたいなハモ。きれい、と柚子は思う。おばさんは、仕切りの向こうの客には料理の説明をていねいにしていたのに、柚子たちにはしてくれない。クーちゃんがかわりに話し出す。

「ハモの落としにはたいてい氷が敷いてあるけど、ここのは敷いてないんだ。新鮮なハモだから氷で締めなくてもくさみがない。氷なんて敷いたら水っぽくなっちゃうからね。ほら、このたれつけて、食べてみ」

 ぼた雪みたいにはかなく見えるのに、口に入れるとけっこうむっちりしている。噛むとふわふわと崩れ、梅のたれが甘く感じる。でも本当は、こんなあっさりした魚じゃなくて、もっとがつんとしたもの食べたいな、と思っている。とろとろのチェダーチーズがミンチを覆い尽くしたようなハンバーガーとかさ。もちろんそんなことを柚子は言わない。「うーん、おいちー」テーブルに顔を突き出して目を細める。

「そうだろう、そうだろう、おいちーだろう」クーちゃんはまなじりを下げて笑う。その顔が柚子は好きだ。この顔が見られるためなら何度だって言う。「本当においちー、私、しあわせ」
 柚子は今年の春に二十歳になったが、髪を茶色に染め、肩も脚も露出したイマドキの服を着ているから、高校生に見られることもある。高校に通っていない高校生。そして向き合うクーちゃんは、後半とはいえまだ四十代なのに、頭髪は薄くなり腹はみごとに突き出て、役つき五十代に見える。馬鹿っぽい若い娘と、脂ぎったメタボ中年。この組み合わせはある種の飲食店では嫌われるらしいと、クーちゃんと食事をするようになってから柚子はしみじみ理解した。何やら好ましくないおつきあいをしているように見えるのだろうし、大人の店にこんな小娘を連れてくるなと店側も客も思うのだろう。だから、居酒屋でいい、焼き肉屋でいい、フランチャイズの店でじゅうぶんと柚子はクーちゃんに言うのだが、クーちゃんが指定するのはいつも「大人の店」である。店内の客に、十代はおろか二十代の人も見あたらない。大声で笑ったり、酔っぱらって浮かれたりしない。だれもかれもきちんとした服を着て、静かに料理をたのしみ、酒を飲み過ぎることもない。好ましくないおつきあいをしているような二人連れ、内ひとりはレトルト食品しか食べたことのないような若い娘、に、彼らは嫌悪のこもったまなざしをちらりと向ける。食事中、テレビにグロいシーンが映ってしまったときのように。

 小鉢はとうに空になっているのに、お店の人は下げにこない。クーちゃんは店員を呼ぶが、だれもこない。それもまた空になったグラスを傾け、残りの水滴をすするようになめ、また店員を呼ぶ。こんなこともいつものこと。クーちゃんは店じゅうに響くような声で「すみませーん」とくりかえし、割烹着のおばさんが迷惑そうにやってくる。大声で店員を呼ぶような店ではないんですけど、とおばさんの顔が告げている。でもクーちゃんはめげない。

「これ、下げて。あと、追加で久保田ちょうだい。柚ちゃんはなんにする」
「私ウーロンハイ」

「焼酎を烏龍茶で割ればよろしいですか」おばさんは、ハイなんてつく飲みものは聞いたこともないと言いたげに問う。「焼酎はなんの銘柄になさいますか」

「なんでもいいよ。麦か米なら」柚子のかわりにクーちゃんが答える。

 照り焼きが出て、天麩羅が出て、会話がなくなりかけたころ、ようやくハモしゃぶ用の鍋が出る。仕切りの向こうの客は、もうとうに帰ってしまった。

「柚ちゃん、五十秒だ、おれが数えてるからきっかり五十秒で引き上げろよ、ハイッ」

 柚子とクーちゃんは同時にハモを鍋に入れる。白い身は、一瞬沈んでから花開いたように広がって浮き上がってくる。柚子が上目遣いに見ると、クーちゃんは真剣な顔で腕時計をにらんでいる。

「よし! 食え食え」大急ぎで身を引き上げ、たれに浸して口に入れる。花開いた身のように、ゆたかな香りと味が広がる。がつんとした強さはないが、やわらかい強さがある。でもやっぱり焼き肉やチーズ入りのハンバーガーのほうが私は好きだ、と思いつつ、「クーちゃん、おいちー」また言う。「な、おいちーだろう」「うん、おいちーよ」「そうなんだ、おいちーんだ」

 クーちゃんは、柚子の母親の恋人だった男である。柚子の父親は、柚子が二歳のときに亡くなっている。柚子がクーちゃんにはじめて会ったのは小学二年生のとき。母親とクーちゃんは籍を入れることも、ともに暮らすことすらなかったが、それでも休みの日、クーちゃんと母親と柚子はそろって遊びにいった。夏休みには旅行もした。父親の記憶がまったくないせいで、柚子は小学校を卒業するまでクーちゃんが実の父親だと信じていた。事情があっていっしょに暮らせない父親なんだろうと。

 中学に上がると、クーちゃんと遊ぶのはそんなに頻繁ではなくなった。それでも誕生日やお祝いごとのあるときは三人で食事をしにいったし、母親が仕事で遅くなる日、クーちゃんが料理を作りにきてくれることもあった。クーちゃんが父親でないとわかってから、いつか母と彼は結婚するんだろうと柚子は信じて疑わなかった。母のほうがいくつか年上だったけれど、二人はお似合いだったし、クーちゃんは家族のようだったから。

 けれど二人は別れた。柚子が高校三年に進級した年に。クーちゃん、最近連絡ないけどどうしたの、と柚子が訊くと、「うまくいかなかったの」と言って母は困ったように笑った。

 志望していた大学に合格が決まったとき、さんざん迷ったが柚子はクーちゃんに電話をかけた。携帯電話の番号なら知っていた。今までずっと、誕生日も入学祝いも卒業祝いもいっしょに祝ってきた人なのだ、母と別れたからといって、私までハイサヨナラと割り切ることなんかできない。と柚子は言い訳するように思った。実際は、ただ会いたいだけだった。クーちゃんはホテルの最上階にある鉄板焼きレストランで合格を祝ってくれた。

「ハモって魚、見たことある?」クーちゃんが訊く。
「ないよ、ないない」
「すごい凶暴な顔してるんだ。しかも細かい骨がいーっぱいある。それを職人が、ぜんぶていねいに切っていくんだ」
「へえー。こんなにきれいなのに、こわい顔で骨まみれなんて思えないね」
「そうなんだ、そんな魚を、昔の人はよく食べようなんて思いついたよなあ。はい! 五十秒! とって、とって」

 以来、柚子とクーちゃんはときどき食事をするようになった。二、三カ月に一回。母親には内緒だ。最近、母には新しい恋人ができたらしいことを柚子はクーちゃんに言わない。クーちゃんも母について柚子に訊いたりしない。共通の会話もない。でも柚子はクーちゃんに会いたかったし、クーちゃんも連絡をくれるということは、会いたくないわけではないのだろうと柚子は考える。自分たちに対するお店の人の冷ややかな態度、客たちの迷惑げな視線に、ときどき柚子は大声で叫びたくなる。私たちのこと、なんにも知らないくせに! でも、よく考えれば、自分にだってよくわからないのだ、自分たちの関係がいったいなんであるかなんて。

 鍋からのぼる湯気を浴び、凶暴な顔つきの、骨ばっかりの大きな魚を柚子は想像しようとするが、目の前の、純白の花びらのような身からは、どうしても思い浮かべることができない。ああ、でも、と柚子はふいに思う。人生というものが、そうしたものであればいいのに。凶暴で手に負えない見かけをしているけれど、その実、驚くほどやわらかく美しいものであればいいのに。

 今まで、人生なんて言葉を使ってものを考えたことのない柚子は、思い浮かんだ自分の考えにびっくりする。私はまだ、そのほんの入り口にいるんだろうなあとあらためて考える。クーちゃんと母の時間。二人の別れた理由。別れた後の、二人の傷。私にはまだわかりようもないいくつかのこと。でもせめて、今、二人がそれぞれ思い返す時間が、やわらかく美しいものであってほしいと柚子は思う。

「秋になったら松茸だな」クーちゃんが言う。松茸のおいしさだってまだわかっていない柚子は、それでも「おー、やったー」と喜んでみせる。いつかきっと、ハモも松茸も、ハンバーガーよりおいしいと思える日がくるのだろうと思いながら。

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9月 5, 2008 ゆうべの食卓 |

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