第10話 夏の記憶と西瓜腹
「浴槽に西瓜が」
くり返しながら、なんだか馬鹿みたいだと重敏は思うが、まったく想像もしていなかった光景に、驚きはなかなか消えない。
「冷蔵庫に入らないから、浴槽で冷やしておいたの。食後に食べようね」
ゆきみは顔を上げ、重敏に向かって笑いかける。重敏は、風呂掃除のためにジャージの裾をまくり上げたまま、湯気の立つ皿を運ぶゆきみと、西瓜ほどもでかくなったゆきみの腹を交互に見た。
「あんなにでっかいの、重かっただろ? ひとりで持って帰ってきたの?」
ダイニングテーブルで向かい合って座り、夕食を食べながら重敏はゆきみに訊く。口をもぐもぐ動かしながら、ゆきみはひとつこくりとうなずく。
「半分のとか、四分の一のとか、そういうの買えばよかったのに。そのおなかで重いもの運ぶの、たいへんだっただろ」
予定通りならば赤ん坊はあと二週間で生まれてくる。当然のことながら妊娠したことのない重敏には、日に日に大きくなる妻のおなかは神秘そのものである。必要以上に気を遣いもする。買いものはもちろん、階段の上り下りや、歩くことすらしんどいのではないかと思い、あれこれ口出ししては「引きこもってるわけにはいかないでしょ」とゆきみに呆れられている。
「だってさあ」口のなかのものをのみこんで、ゆきみは言う。「最初から切ってある西瓜なんて、おもしろみがないよ」
「だったら日曜に買うとか。おれが運ぶから」
「今日は安かったんだ、西瓜。千円しなかったから、思わず買っちゃった」
「でも二人で食べきれるかどうか」
「そうなんだよ、これ買おうって思ったとき、二人じゃないからいいやって無意識に思っちゃったの。まだ出てきてないのに頭数に入れちゃったんだね」
ゆきみはそう言って、左手で腹をぐるりと撫でさすった。
ゆきみのなかでは、もうずっと前から家族は三人なんだろうと重敏は思い、猛烈に羨ましくなる。おなかにだれかが入っている感覚のわからない重敏は、もうひとり家族が増えるということが、頭ではわかっても体でわかりきっていない。きっと生まれるまでわからないだろうと思う。生まれたとき、本当にあのおなかには赤ん坊が入っていたのかと、そのとき阿呆みたいに驚くような気がしている。
「でも、生まれてもとうぶんは西瓜なんか食えないだろう」
ずいぶんとつまらないことを言っていると思いながら、重敏は言う。そうなんだけどね、とゆきみは笑う。
食事を終え、重敏は食器を流しに運び、風呂場に向かう。浴槽に半分ほどはった水に、みごとに丸い西瓜がぷかぷか浮かんでいる。その光景を見て重敏は、幼少時の夏休みを唐突に思い出す。電車に二時間揺られていった祖父の家。井戸に吊り下げられていた西瓜。陽のあたる縁側と、山型にカットされた西瓜、あじ塩の赤いキャップ。近所に友だちもおらず、店らしい店のない祖父の家は退屈だったし、弟と喧嘩ばかりして母に叱られていた。祖父は無口で、祖母は重敏たちには口に合わない山菜や煮物を食卓に並べ、父はほとんど一日テレビの前でうつらうつらしていた。ああつまんねえ、と思いながら縁側に腰掛け、日向の庭に西瓜の種をとばしていたことを重敏は思い出す。祖父の家には、中学に上がるころにはいかなくなった。今、祖父も祖母も他界している。
あんなに退屈だった数日が、今思い起こせば絵画のようにうつくしく思える。それはきっと、子どもでいられた時間が、自分の内で完璧に終わったからなんだろうと彼は思う。退屈だと思う傲慢、家族に不満を持つ贅沢、ここ以外の場所に馳せる憧憬――かたちを変えながらも自分の内部に残っていたそんな「子ども」は、もういない。父になるのだ、と、重敏は今までにない気持ちで思う。
西瓜を浴槽から引き上げ、タオルで拭く。脱衣所で、重敏はそれをこっそりTシャツのなかに入れてみる。横を向き、鏡に映す。ゆきみほども腹の突き出た自分を見る。もっと重いのか。もっとあたたかいのか。もっと繊細なのか。丸い腹をさすり、重敏は想像する。
Tシャツから西瓜を出して、落とさないように抱えて台所にいく。切るぞ、と声をかけると、ゆきみは立ち上がって台所にくる。
「冷えてるかな」
「冷えてる、冷えてる」
包丁をあてがい、割るように切る。真っ赤な断面があらわれる。
「おお」思わずゆきみが声を漏らす。
半分と二分の一にラップをかけて冷蔵庫になんとかしまい、残り二分の一を均等に切る。皿に盛り、塩とともに食卓に運ぶ。ゆきみは先割れスプーンで食べ、重敏はそのままかぶりつく。水気の多い甘い西瓜である。口の端からしたたり落ちる西瓜の汁をティッシュで拭いながら、重敏は今しがた思い出した、田舎の夏休みの話をゆきみにする。とばした種のことや、蝉の声や、弟としたつまらない喧嘩について。
「いいなあ、私には田舎がなかったから、そんな絵に描いたような夏休みはなかったな」
祖父母も両親も東京に住んでいるゆきみは言う。
「今思い出すから『絵に描いたような夏休み』なんだよ。そのときはそんなことは思わないんだ」
「そうだね、夏休みってひたすら退屈だったもんね」
スプーンの先で器用に種を取り除きながら、ゆきみはふと黙る。ゆきみの考えていることが、重敏には言葉を交わしたようにわかる。これからこの世に登場する子どもが過ごす夏について思いを巡らせているに違いない。退屈さも、うんざりするような暑さも、西瓜の甘さもそうめんの冷たさも蝉の声も、自分たちが存分に享受し味わってきたすべてを、今年の夏からこの子は味わいはじめるのだ。傲慢も贅沢も憧憬も、すべて。
重敏は西瓜を食べかけたまま動きを止め、まじまじとゆきみの腹を見る。すごい、と思う。このなかにその全部が入っているのだ。やっぱり神秘だ。
「あいたたた、蹴るな蹴るな」
ゆきみは顔をしかめて腹をさする。あわてて重敏は手をのばし、子どもの動きを確認しようとする。手のひらに、まだ見ぬ子どものもぞもぞした動きが伝わってくる。これから世界に登場してくるちいさなだれかに、めいっぱいいろんなものを見せてやろうと、重敏は意気込んで思う。美しいものもそうでないものも、うんざりするものもそうでないものも、この子が子どもでいるうちにぜんぶ見せてやろうと。
かつて夏を過ごした祖父の家の縁側で、ちいさな子どもをあいだに挟んで西瓜の種を飛ばす自分たち夫婦の姿が、まるで夕べの記憶のように浮かび上がって消える。
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