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2008年6月 6日 (金)

第8話 あたらしき日々



角田光代

 引き出物でもらってきた鯛で、寿子は鯛飯を作ったらしい。台所と廊下を挟んだリビングまで、鯛飯のあまやかなにおいが漂ってくる。そのにおいから逃れる ように、信利は読みかけの夕刊を畳み、二階へと引き揚げる。夫婦の寝室である和室に、ごろりと横たわり、まだ夜になりきらないおもての薄闇を眺める。おと うさーん、ごはんよう。階下から寿子が呼ぶ。おとうさーん、ごはんだってばあー。

「聞こえてる!」立ち上がって信利は怒鳴る。「今、腹が減ってないからいらん!」所在なく和室をうろうろし、またごろりと横になる。窓の外はゆっくりと紺色に染まっていく。隣の家の窓に明かりが灯る。

 横になっていることに飽き、することもないが信利は階下にいく。リビングのソファに腰を下ろし、テレビをつける。見たい番組などないとわかっていながら、せわしなくリモコンで局を変え続けた。独りで夕食をすませたらしい寿子は、甲高い声で電話をしている。声の調子から言って、相手は近所の友人だろう。そうなのよ、おとうさんたらすねちゃって、晩ごはんの鯛飯も食べないの。結婚式のあいだだってむすっとして、腕組みなんかしちゃって。お婿さんのおとうさんがおいおい泣いてて、それじゃあ反対じゃないのねえ、あはははは。陽気な笑い声に苛立ち、信利はあえて騒々しい番組にチャンネルを合わせ、音量を上げる。あははははは、そうなのよ、じゃあまたね、コーラスの会でね、長電話、叱られるから。

 寿子の声がやむと、急に静まり返る。テレビは騒々しいのに、ぞっとするほど静かであるように信利には思える。おとうさん、お風呂沸いてるわよ。声をかけられ、信利は飛び上がって驚く。

「あとでいい」飛び上がった恥ずかしさを隠そうとして、不機嫌な声になる。
「じゃ、お先にいただいちゃうわね」寿子はぱたぱたとスリッパを鳴らし、風呂場へと向かう。

 騒々しいテレビを消し、信利は台所にいってみる。さすがに腹が減り、夕飯の残りはないかと冷蔵庫をあさるが、ラップをかけられた料理より先に、チューブに入ったマヨネーズが目に入る。信利はそれを手に取り、クリーム色のチューブをじっと見つめる。ピーピーと、やかましく音が鳴る。冷蔵庫を開けっ放しにしておくと、閉めろ閉めろと騒ぐのだ。未だにその機能に慣れない信利は、マヨネーズを手にしたまま忌々しい気分で冷蔵庫を閉め、流しの下の引き出しを開ける。買い置きの食材のなかにツナ缶を見つけ、手を伸ばす。

 一年前まで、この家の冷蔵庫にマヨネーズは存在しなかった。寿子も信利もあのねっとりした甘いような味を好まず、ほとんど出番がなかったからだ。ソースやサラダに必要なときは寿子が卵とサラダオイルで作っていた。

 こうするとおいしいんだよ、と、娘の珠代がマヨネーズをかけたツナ缶を食卓に持ってきたとき、寿子も信利も眉をひそめた。珠代はそれをごはんに盛大にかけ、信利には残飯に見えるそれを、おいしそうに掻きこんだ。その日以来、特大のマヨネーズが冷蔵庫に常備され、食事どきにはいつも珠代のわきに置かれるようになった。珠代は、唐揚げにも食パンにも、蟹缶にも鮭缶にもマヨネーズを用いた。朝、キュウリにマヨネーズをたっぷりつけてぽりぽり噛んでいることもあった。「おいしいんだよ、食べてごらんよ」と珠代は勧めたが、信利も寿子も、何か気味が悪くて手を出さなかった。「およしなさい、そんなみっともない食べ方」と寿子は幾度も言っていたが、珠代はやめなかった。

 薄々わかっていた。珠代には新しい恋人ができたのだ。その恋人が、マヨネーズを多用する気色悪い食べ方を珠代に吹きこんだのだと、話しはしないが信利も寿子も思っていた。

 珠代はすぐにそうしてのめりこむところがある。マヨネーズの前は競輪だった。専門雑誌を買ってきて熟読し、ラジオに耳を傾け、週末は朝からはりきって競輪場にいった。勝ったか負けたか、帰宅した顔ですぐわかった。そういう娘なのだ。隠すことができない。おもて向きの顔が作れない。競輪のときは、さすがに信利は気をもんだ。どうしようもない男、しかももしかしたら妻帯者と恋愛しているのではないかと。寿子に命じて見合い話もさがさせた。

 競輪が終わったことには安心したが、珠代は生ける屍のようになった。青白い顔でろくに食事もせず仕事にいき、決まった時間に帰宅して、表情のない顔でまっすぐ自室に向かう。ふられたのだろうと容易に想像できた。

 そしてマヨネーズだった。競輪よりはだいぶましだが、しかし味覚の狂った若造と交際しているのではないかと信利はまた心配になるのだった。そして、そんなふうにのめりこんで、またふられるのではないか、とも。

 珠代はふられなかった。三カ月前の日曜、茶髪の、ひょろりとした若造を連れてきて、「この人と結婚したい」と言った。「お嬢さんをください、しあわせにします」と、せりふを棒読みするようにスーツ姿の若造は言った。夜に寿司を取ると、案の定、若造は鉄火巻きやイカの握りにマヨネーズをかけた。「おいしいよねー」「ウニにも合うかな?」「お、けっこう合う合う、やってみ」「あ、ほんとだ、おいしーい」マヨネーズは酔っぱらって赤い顔の二人のあいだを行き来した。特上の握りなんだぞと怒鳴りたいのを、信利はじっと堪えていた。

 そして今日、珠代はマヨ男に嫁いだのだった。マヨ男にふさわしい軽薄な式だった。色とりどりの頭髪の男たちが楽器を演奏し、やかましく歌った。珠代の女友だちは酔っぱらって黄色い声をあげ続けていた。競輪よりはまだいいが、しかしマヨネーズだぞ。毎日どんな料理を作ってもマヨネーズまみれにされるんだぞ。味なんか、なんにも知らない男だぞ。式のあいだ、信利はずっとそんなことを考えて、珠代の白無垢もドレスもちゃんと見なかった。

 静まり返った食卓に着き、信利はツナ缶を開ける。てらてらと光る魚の身に、マヨネーズをたっぷりとかける。こんなものがおいしいのか。箸でつまんで、おそるおそる口に運んでみる。なんだ、けっこういけるじゃないか。信利は立ち上がり、ウイスキーを持ってきてグラスに注ぐ。うん、酒にも合うぞ。見たくなかったわけじゃない、本当は顔を上げられなかったのだ。他人のものになる娘を、これから自分たちとはまったく関わりのない、新しい生活をはじめていく娘を、正視することができなかったのだ。なんだよ珠代、おいしいじゃないか。今日ずっと堪えていた涙が、食卓にぽつりと落ちる。

「まあ、おとうさん、何食べてるの」背後から声をかけられ、信利はあわてて目をこする。
「あら、ツナマヨ。けっこうおいしいのよね、これ。私も飲もうかな」湯上がりのほてった顔で、寿子は信利の向かいに座る。なんだ、あんなに嫌がってたのに、試したことあるのか。口のなかでもそもそ言いながら、信利は泣き顔を見られないよう、そっぽをむいてウイスキーを口に含む。

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6月 6, 2008 ゆうべの食卓 |

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