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2008年5月 2日 (金)

第7話 さやの外

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角田光代

 ひとりだ。こんなのはじめてだ。

 大学の裏門から地下鉄の駅まで約十分。そこから電車で十五分。電車を降りてアパートまで七分。たったそれだけ。私は十八歳で、三つや四つの子どもじゃな い。しかも今は夕方五時で、深夜というわけでもない。なのに、なんの予定もなくひとりで帰るのだと思ったら、猛烈に心細くなった。私は裏門近くのベンチに 座って、往生際悪く、だれかクラスメイトが通らないかきょろきょろしたり、携帯を出して友だちの名前をひととおり眺めてみたりする。

 東京にきたのは三週間前。母親と一緒だったからそんなに不安でもなかったけれど、それでもやっぱり東京駅の人の多さや、町を歩く人のテンポの速さにはびっくりし、こわくもなった。二週間前にはじまった大学には、同じ高校から進学した友だちが幾人かいたし、新しい友だちもすぐできた。毎日だれかしらといっしょにいた。授業が終わると何人かで夕飯を食べにいき、方向が同じ子たちといっしょに電車に乗って帰った。みんな、地方から上京したての子ばかりで、きっと私みたいに不安だったのだと思う。レストランやカフェで、食事を終えてもどうでもいい話をして、ずるずると長居した。

 それが、今日にかぎってみんな用があると言う。夕奈は鉄道サークルに入ったのだとうれしそうに言った。岡本さんは語学クラスの飲み会。ヒトシくんは他大学に通う恋人とデート、麻里ちゃんと武藤くんはサークルの新歓コンパ。

 知った顔も通らず、携帯に出てくるのは故郷の友だちの名前ばかり。しかたなく私は立ち上がり、ほとんど散りかけた桜の下を通って門を出て、駅へと向かう。

 べつに、どうってことないのに。そう思いながら歩く。十八年、べったりだれかといたわけじゃない。高校なんて片道一時間もかけてひとりで通っていたのだ。東京はまだ慣れないけれど、人が多くて店が多くて規模の大きいただの町だ。ひとりで帰るのがこわいなんて、そんなガラでもないくせに。そんなことを思いながら駅まで歩く。途中、古本屋やCD屋をのぞいてみたりもする。そうそう、友だちといっしょじゃゆっくり眺められないもんね。

 駅に着くころには、けっこういい気分になっていた。ひとりで歩くのも、なんだかいいじゃないか。東京の大学生って感じがするし。けれど電車に乗り、夕飯、とはたと思いついて気分が一気に暗くなる。今日の夕飯、ひとりだ。ひとりではこわくてお店になんて入れない。弁当を買うというテもあるが、あのアパートで弁当なんてひとりで食べたらよけいに落ち込みそうだ。

 しかたない、何か作るか。

 最寄り駅からアパートに向かう途中まで、商店街になっている。大きなスーパーが近所にないからか、商店街はいつもにぎわっている。献立を考えながら歩くものの、私に作れる料理といえば、炒飯とカレーしかない。カレーでいいか、と肉屋のショーケースの前に立ち、どうせだったら作ったことのない料理をしてみるか、と思い立つ。カレー用牛肉のかわりに、豚ロースを買う。八百屋に寄り、ショウガとキャベツとじゃが芋をかごに入れると、「おねえさん、そら豆も持ってかない、今日のはとくべつおいしいんだ」と、威勢のいい声を掛けられ、そんなことが驚くほどうれしくて、そら豆もかごに入れた。漬物屋で手作りらしい味噌を買い、両手にビニール袋をぶら下げて、まだ明るい町を歩く。

 アパートに着いたのが六時半。ちんまりとした台所で、私は早速料理に取りかかる。ショウガ焼きっていうんだから、きっとショウガと醤油に肉を漬けこんで焼けばいいんだろう。キャベツは千切りにし、じゃが芋の味噌汁を作る。そういえばそら豆がある。そら豆なんて茹でたことない。さやごと茹でるのか、剥いてから茹でるのか。おそるおそるさやを剥いて、さやの内側の手触りに驚く。こんなにふかふかしているのか、そら豆の内側って。まるでクッションじゃないか。そのふかふかのクッションに、さわやかな緑の豆が、眠るみたいに並んでいる。豆の側面についた黒い筋が、なんだか笑っているみたいだ。

 私は慎重に、ふかふかのさやから豆を一粒ずつ取りだしていく。そうしてふと、思う。私が今までいたところは、さやのなかの世界みたいだったのではないか。やわらかく、あたたかく、安全で、いつもだれかがともにいて、うとうととまどろんでいるような世界。もちろん今までだって、つらいこともかなしいこともたくさんあったけれど、それでもやっぱり、何かに守られていたように思うのだ。決してひとりではなかったように思うのだ。

 そして今、さやのなかでぬくぬくと過ごした時間は、終わろうとしている。そんな気がする。東京でひとり暮らしをはじめたせいじゃない。いっしょに帰る友だちが見つからなかったせいじゃない。これから、家族の愛情とは異なる種類の愛を私は知ることになるだろう。ひとりの帰り道よりもずっと深い孤独を私は知ることになるだろう。今まで拭いてきた涙より、もっと塩っ辛い涙を流すようになるだろう。そういうことすべて、この私自身でぜんぶ受け止めていくのだ。守ってくれるさやも、ふかふかのクッションも、もうないのだから。

 そんなことを考えていると、不思議と、帰り道に不安を感じていた自分を笑い飛ばしたいような、剛胆な気分になった。よっしゃ。気合いを入れるように言い、湯の沸騰した鍋にそら豆を入れていく。薄黄緑の豆はくるくると笑うように鍋を泳ぐ。

 ちいさなちゃぶ台に料理を並べ、いただきますと手を合わせる。だしを取らなかった味噌汁は間抜けな味がしたし、キャベツの千切りは無様に太く、ショウガと醤油につけただけの豚肉はただしょっぱくて、ごはんはなんだか水っぽかった。茹でたそら豆がいちばんおいしかった。薄い皮を剥くと、はっとするほど鮮やかな緑の豆があらわれる。ちょっと塩をつけて食べる。カーテンの開いた窓の向こうは夜で、そこに、ひとり食事をする私が映っている。はじめてのひとりの食事だというのに、案外しあわせそうな顔をしている。

 そら豆と、しょっぱいショウガ焼きと、間抜けな味噌汁と、水っぽいごはん。成功とは言いがたい今日の献立を、でもきっと、私はずっとずっと覚えているんだろうなと思った。何かの勲章みたいに。

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5月 2, 2008 ゆうべの食卓 |

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