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2008年4月 4日 (金)

第6話 白馬の王子、ホルモンの姫

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角田光代

 七輪の上に並べたホルモンに見入る。脂がしたたり落ち、じゅっという音とともに煙が勢いよくあがる。義恒は唾を飲みこみつつ、真ん中の肉からひっ くり返していく。つややかに白い肉片にちょうどよく焦げ目がついている。たいていの焼き肉屋はホルモンの白い脂を切り落としてしまうが、ここはたっぷり脂 がついたままのホルモンを出す。

 隣の席ではまだ二十代に見えるカップルが、七輪を挟んで向かい合っている。彼らのテーブルには肉ののった皿とビール、ごはんまである。ビールとごはんをいっしょに飲み食いできるなんて本当に若いんだなと、義恒は感心する。えーこれおいしーい、なんていうお肉? と女の子が高い声をあげる。それ、ミノ。こっちがツラミ。男の子が得意げに説明している。義恒はカップルから七輪へと目を移し、煙をあげ続ける肉片を箸でつまみ、口に入れる。くにゃんとした肉を噛んでいると、脂が溶けるようにつぶれ、深い甘みが口じゅうに広がる。思わずにやける。隣の女の子と目が合い、義恒はあわてて顔を引き締め、通りかかった店員に焼酎を追加注文する。

 ホルモンやミノ、シビレやハツ、ハチノスやレバーといった内臓肉しかメニュウにない店は、今でこそ増えたが、十数年前の東京では貴重な存在だった。関東出身で、内臓肉にあまり縁のなかった義恒だが、学生時代に関西出身の先輩にこの店に連れてこられ、こんなにうまいものは食ったことがないと心から感動した。以来、一カ月に数度はこの店に通うことになった。狭い上、壁は煙と脂で黒ずみ、二時間ほど店内にいるだけで下着までが肉くさくなるこの店に、恋人を連れてくるのはためらわれたが、夕子をここに誘ったのは、結婚が決まっていたからだった。

 夕子は店の汚さにも煙攻撃にもまったく動じず、「雰囲気があってすてき」と言っていたが、メニュウを広げ、「カルビもロースもない」とぽつりと言った。そんなものより絶対うまいから、と、義恒ははりきって内臓肉を注文し、すすんで焼いて、頃合いよく焼けたものを夕子の皿に入れてやった。夕子はホルモンを口に入れ、噛み、噛み、噛み、そして眉間にしわを寄せて義恒を見、「これ、いつ飲みこんだらいいの」と訊いた。そんなことを考えたこともなかった義恒は、何を訊かれているのかわからなかった。だって、噛んでも噛んでもなくならないじゃないと、口元をおさえて夕子は言った。その日、義恒がはりきって頼んだミノもホルモンもハチノスも、夕子はほとんど手をつけなかった。ハラミを三切れ食べただけだった。最初は苦手かもしれないけど、食べているうちにおいしく思うようになるよ、と、義恒はまだ浮かれた気分で言ったのだが、べつにおいしく思うようにならなくたっていいわと夕子はつぶやくように言った。以来、この店に夕子を連れてくるのはやめた。

 思えば、あのとき、ちらりと予感はしたのだった。義恒はひとり、網の上の肉を食べながら思い返す。自分たちはもしかしてうまくいかないのではないかと、ほんのかすかだが、思ったのだった。でも義恒はそんな予感を馬鹿馬鹿しいとすぐに思いなおし、無視した。なぜなら内臓肉が食べられるか食べられないかが、結婚にとって重大なことだとは思いもしなかった。だって、もっと大事なことはたくさんある。相性とか。経済観念の一致とか。価値観とか。未来への展望とか。夕子がホルモンを嫌いだというのならば、この店に連れてこなければいいだけのことだ。今まで通り、男友だちかひとりでくればいいだけのことだ。

 三十歳で結婚して、四年後にはなんだかうまくいかなくなっていた。はっきりした理由はない。共働きの義恒と夕子は、新婚当時は待ち合わせて食事をしたり、どちらかが料理をして相手の帰りを待っていたりしていたが、そんなこともしなくなっていた。ともに過ごせる週末、映画を見たりドライブにいったりする習慣もだんだんとなくなった。気がつけば夕子は、自分の部屋にしていた洋間のソファで寝るようになり、義恒の眠る寝室は男くさいにおいで満ちた。なんだか最近やけに若返ったな、と夕子に対して思いはじめた五年目、離婚したいと夕子から切り出された。あなたとの生活はもっとたのしいと思っていたけど、これじゃなんだかルームメイトと部屋をシェアしているのと変わらない、こんな地味で退屈な生活はもううんざり、と言うのである。じゃあもう一度、きみの思う「たのしい生活」とやらをはじめてみようではないか、と義恒は前向きに提案したのだが、却下された。ほかに男がいたのかもしれないが、訊きも調べもしなかった。もしいたとしたらこっぴどく傷つくだろうと思った。離婚届に必要事項を記入しながら、義恒は、焼き肉屋での予感を思い出していた。結局そういうことだよなと、「そういうこと」が何かよくわからないまま、けれど義恒は五年目の別れに妙に納得したのだった。

 それから二年がたつ。あと数年で四十歳になる。この二年、恋人らしき人はできなかった。友人に女性を紹介され、幾度か食事をしたことはある。彼女は食べることが大好きらしく、いつも率先して店を予約してくれた。一カ月先まで予約が埋まっているような、イタリア料理やフランス料理ばかりだった。たしかに味は素晴らしかったが、しかし彼女と向き合いナイフとフォークを操っていると、この人と交際してもこんなふうな肩肘張った毎日が待っているのではないかと不安になった。すごくうまいホルモンがあるんだけどと、かつてのように言い出せなかった。

 おれ、このまま孤独なのかなあ。さらに追加したセンマイとギアラが運ばれてきて、義恒は網にそれらを並べながら思う。四十代になっても、定年間近になっても、こうしてひとりで内臓焼いて食ってんのかなあ。七輪からあがる煙に目をしょぼしょぼさせ、焼酎に口をつけ、色の変わっていく肉をじっと見つめる。いつかこのホルモンをおいしいといっしょに笑ってくれる女性があらわれるかも、なんて思うのは、十代の女の子が白馬の王子を待つようなものなのか。それにホルモンをおいしいと言ってくれたって、相性が合うとはかぎらないし……いや、味覚の相性ってもけっこう重要なんじゃないか……。しかし、焼き上がったギアラを口に入れたとたん、義恒の顔はにやけ、思考は中断される。ま、いっか。今べつに幸せだし。

 隣の席のカップルが席を立つ。あーおいしかったー。女の子が言う。はじめてのものいっぱい食べたー。またこような。うん、またこようね。レジに向かう二人を義恒は目で追う。二人は財布を取りだし、お金を出し合って会計を済ませる。店を出ていく二人を盗み見ながら、やけに満たされた気分になっていることに気づく。二人がこの先も今日の幸福に包まれているようにと祈るほどに。

 ま、いっか、今日しあわせだし。義恒は心のなかでくりかえし、手を挙げ、焼酎のおかわりと、最後にもう一皿、ホルモンを追加注文する。

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4月 4, 2008 ゆうべの食卓 |

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