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2008年3月 7日 (金)

第5話 私たちの帰るところ

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角田光代

 一日かけて戻した椎茸とかんぴょうを煮る。蓮根は花のかたちに包丁を入れ、こちらは砂糖と塩と酢で煮る。それから人参。花のかたちのくりぬき器を使う。海老は煮て皮をむく。台所いっぱいに醤油と酢と砂糖の、甘からく、ほんのり酸っぱいにおいが立ちこめる。

 深夜の台所。娘も夫も寝ている。えみ子はひとり黙々と、明日のためのちらし寿司を作る。

 翌日の日曜、四歳になる娘の世話を夫に頼み、ちらし寿司の詰まったお重を風呂敷に包み、えみ子は家を出、電車を乗り継ぐ。えみ子が生まれ育った家は、今暮らしている家から電車を乗り継いで一時間のところにある。電車を降り、閑散とした商店街を抜け、住宅街の坂道を歩く。民家の庭に梅が咲いている。晴れていて、時間が止まったように静かだ。

 呼び鈴は押さずに玄関を開ける。甘いようなしょっぱいような、洗剤のような埃のようなにおいが広がり、えみ子はドキッとする。私のうち、こんなにおいだったんだと家に帰るたび驚いてしまう。住んでいるときはまったく気づかなかったにおい。台所から女たちのにぎやかな声が聞こえている。

「あら、えみ子。愛ちゃんはどうしたの」と、すし飯を作っているところだろう、しゃもじでごはんをかきまわしながら長女の紀子が訊く。
「ダンナに預けてきた」コートを脱ぎ、台所のテーブルにお重をのせる。
「連れてくればよかったのに。会いたかった、愛ちゃん」うちわですし飯を扇ぎながら三女の夕子。
「お正月に会ったばっかりじゃない」
「これ、お寿司でしょ、あっち持ってっちゃうわね。あっ、それからね、えみちゃん、お雛さまも飾ったのよ」四女のまり子がえみ子のお重を抱え、手招きする。廊下を挟んだ台所の向かいに食堂がある。古びた座卓には、取り皿やグラスがすでに用意されている。押入をふさぐようにして、雛壇が飾られている。「私と紀ちゃんで、昨日泊まって作ったの」

「なつかしいわねえ」えみ子は雛飾りの前に座りこみ、三人官女や従者、あられののった膳や菱餅を見ていく。この家で暮らしていたころは、雛人形は二階の和室に飾られていた。高校生になってもえみ子は雛人形が何やらおそろしく思え、夜中、トイレにいくのにも勇気がいった。襖の開かれた和室の前を通らなければならなかったからだ。雛人形が飾られていたのは四女のまり子が高校を卒業するまでだった。

「さあ、できたわよ。えみちゃん、手を洗っていらっしゃい。いただきましょう」今年四十歳になる紀子がすし桶を手に食卓に入ってくる。

 四人で座卓につき、白酒で乾杯する。座卓には、四人がそれぞれ持ち寄ったちらし寿司が並んでいる。それぞれ食べ合い、だれのがいちばん母のちらし寿司に近いか判定するのだ。五年前に母親が亡くなってから、なんとなくはじまった姉妹のちいさな雛祭りだった。去年はえみ子が優勝した。その前は二度続けて紀子の圧勝だった。

「あれっ、紀ちゃんのちらし寿司、いつもと違う」えみ子は驚いて言う。
「そうなの。今年は鰻と海老のお寿司にしてみたの。色合いがきれいでしょ」
「でもそれじゃ、勝負にならないじゃない」
「いいのいいの、今年は勝負なし」子どものころから勝手にルールを作ったり変更したりする紀子は、相変わらず独り決めをしてしまい、「まずまり子のから食べようかな」と、しゃもじでまり子の寿司をよそう。「じゃあ私は紀ちゃんのを食べよう」「私はえみちゃんの。えみちゃん、主婦だけあってやっぱりきれいに作るわね」「まり子、去年よりはましだけど、ちょっとすし飯が甘いわね」「恋人にふられるよ」「夕ちゃんは自分の心配だけしてなさい」陽のあたる和室は、勝手にしゃべる四人の声で一気ににぎやかになる。

 この家で暮らしていたときは、そんなに仲のいい姉妹ではなかった。長女紀子と末のまり子は十も年が離れているが、平気でとっくみあいの喧嘩をしていた。夕子は、父と母がまり子を贔屓し、自分を愛していないと何年も言い続け、高校二年のときには家出までした。紀子が日記をこっそり読んだことに腹をたて、えみ子は中学時代いっさい姉と口をきかなかった。そのたび母がたしなめたが、即座に仲なおりできるほど素直な娘たちではなかった。父親が亡くなった十年前ですら、葬儀の出し方や引き出物について四姉妹で揉め、母に泣かれた。こうして集まるようになったのは、母が亡くなってからだ。もうだれも、他の姉妹の欠点をあげつらわない。傷つけられた過去を持ち出さない。それぞれの人生に難癖をつけない。そうしたところでだれも止めに入ってくれないことを、それぞれが知った。

「この家、売ろうと思うんだけど」会話がとぎれたところで、紀子がぽつりと言った。

 また勝手に決めて――思わず言いそうになるが、えみ子は言葉をのみこむ。たしかに、紀子は自分の家族とともに都心で暮らし、夕子はここから二時間かかる町で教員をしており、まり子も東京で仕事を得ている。えみ子も夫と娘とともにここに引っ越すつもりはない。雛祭りの日や、法事のときだけ開かれる家なのだ。

「でもそうしたら、私たち帰るところがなくなるわ」まり子がぽつりと言う。
「だけど無人で置いておいても、ねえ?」夕子は紀子の肩を持つように言う。

 まり子の作るちらし寿司は、いつも何かしら失敗がある。今年はすし飯がへんに甘い。夕子は面倒くさがりで、椎茸も人参も蓮根もいっぺんに煮てしまうから、色が茶色っぽく、椎茸の味がほかの具に移っている。紀子はそつなく作るが、どこか味にまろやかさがない。私のは、とえみ子は思う、私のは色を生かそうとしすぎていつも薄味。みんな母のちらし寿司にはかなわない。たぶん一生かなわない。だからきっと、紀子は今年、新種のちらし寿司を作ったのだろう。もうそろそろ、母の味の再現ではなく、私たちの味で生きていったらいいんじゃないかしら。そう言いたかったのかもしれない。えみ子は口を開く。

「帰るところなんてどこだってあるわ。来年はうち。再来年は東京見物を兼ねて紀ちゃんち。私たちが集合するところがおうちってことでいいじゃないの」
「ちらし寿司が私たちの帰るところ」夕子が真顔で言う。
「でも来年は、みんな新作ちらし寿司で勝負しましょう」紀子がまたしても勝手に決める。
「かなわないからね、おかあさんには」まり子が言い、
「そうよ、勝負しようなんて早いのよ」夕子は紀子の寿司をほおばって答えた。

 四人で食器を洗い、雛飾りを片づけ終わるともう外は夕暮れだった。今度この家に集まるときは、いよいよ家を手放すときだろうとえみ子は思う。

「この雛飾り、私もらっていいかしら」取り合いになるのではないかと思いつつえみ子が言うと、
「そうしてちょうだい。愛ちゃんもいるし」紀子が即答する。
「来年の雛祭りに私たちがいくときは、えみちゃん、ちゃんと飾りつけをしておいてね」まり子が、子どものころを思い出させるどこか切実な声で言った。

 家に鍵をかけ、四人で駅までの坂を下る。空はぶどう色に染まっている。

「今年は一番を決めなかったわね」ふと思い出したように夕子が言う。

 だれも何も言わない。みなわかっているのだ。この五年、ずっと母のひとり勝ちだったことを。

 駅に着く。それぞれ切符を買い、ホームに向かう。明日の月曜日が雛祭りである。明日またちらし寿司を作ろうとえみ子は思う。娘の愛が、いつか一番だったと思い返してくれるようなちらし寿司を作ろうと。上り電車がホームに走りこんできて、紀子とまり子がのりこむ。窓越しに四人はいつまでも手をふりあう。

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3月 7, 2008 ゆうべの食卓 |

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