第3話 おしるこ編
おしるこ。なぜよりによっておしるこ。
「おしるこかあ」ぼくは一瞬感慨にふける。
「かんたんよ、豆を煮るところから作れとは言わない。流しの棚に茹で小豆の缶があるから、それと水と砂糖と塩を入れて汁を作って、焼いたお餅を浮かべればいいの」みわ子は言うと、そのまま目を閉じてしまう。
台所にいく。流しの下の棚を開けると、茹で小豆の缶はたしかにある。小豆もある。豆から作ってみるか。たしか一回茹でこぼして、一時間くらい煮るのだ。袋から小豆を出してボウルのなかで洗い、鍋に移して煮はじめる。茹でこぼしてからふたたび煮る。静かに煮る。ひたすら煮る。
「私の人生転落、おしるこ編を聞きたい?」
背後から声をかけられ、驚いてふりむくと毛布を肩からかぶったみわ子が立っている。
「なんだよ、脅かすなよ。寝てなくてだいじょうぶ? ちょっと時間かかるけど……」
「聞きたい?」みわ子にはなぜか異様な迫力がある。う、うん、とぼくはうなずく。
「私が習っていたバレエ教室のそばに、鳩屋という甘味屋があって」ぼくの隣にぴったりと立って、据わった目で鍋をのぞきこみみわ子は話し出す。鳩屋なんて旅館みたいだね……と茶々を入れるとぎろりと睨まれた。みわ子は続ける。「ひなびた店だったから女の子たちはその店の存在に気づきもしなかったんだけど、中二のとき、私、鳩屋に入っておしるこ食べたの。寒い冬の日で、その前の週に私は初潮を迎えて、レッスンにどうしても出たくなかった。鳩屋なら先生にも生徒にも見つからないと思ったのね」豆はふつふつと煮えている。鍋のなかを浮いたり沈んだりをくり返している。「そしておしるこ中毒になったの。バレエのレッスンがある日は、こっそりレッスンのあとで鳩屋にいくの。レッスンのない日はわざわざ鳩屋まで電車を乗り継ぐの。レッスンを幾度かさぼりもした」
窓の外がゆっくりと暮れていく。正月の町は静かで、一番星がいつもよりくっきりと見える。
「ものすごい勢いで太った。三カ月で十キロ以上。春の発表会で私に割り振られていた役はほかの子になった。母は食餌療法をはじめたし、先生は真剣にダイエットを勧めた。このままではまずいと私もわかってた。だって私もまわりも、中学を出たら本気でバレエ留学するものと考えていたからね。有望株だったの。お稽古ごとじゃなくて本気だったのね。このままじゃだめだ、だめだと思えば思うほど、でも、焦がれるくらいおしるこが食べたくなる。夢遊病者のように鳩屋を目指して、気がつくとおしるこ食べてるの。店内のちっこいテレビ見ながら」
みわ子は口を閉ざし、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してペットボトルからラッパ飲みした。「半年後、バレエはやめたわ。母も先生も泣いた。私も泣いた。そのころの私、マトリョーシカみたいな体型だったの」
「想像できないな」なんと言えばいいのかわからず、ぼくは言った。
「だってそのころの写真は全部焼き捨てたもの」みわ子はふたたび鍋にはりついて、なかをのぞきこむ。
「でも一概に転落とは言えないんじゃないの。だって今、不幸なわけじゃないんだろ?」不幸だと断じられたらどうしようかと思いつつ、ぼくは言った。
「でもまあ、転落は転落よ。その後もいろいろ思い通りにいかないことはあったけど、あれが人生初の転落といえるわね。おしるこにはまらなかったら、私、今ごろ世界的に有名なバレリーナだったかもと、未だに思うことがある」
「バレエやめて、おしるこ中毒はどうなった?」
「きれいさっぱりなおった。体型は二十歳過ぎまでそのままだったけど」
もしそのときおしるこ中毒にならず、バレエ留学していたとしたって、パンケーキ中毒とかスコーン中毒とかになって、結局みわ子今とおんなじところ――つまりぼくとの平凡な暮らしのなか――にいたのではないかと思ったが、それを口に出すかわり、ぼくも告白することにした。
「ぼくの人生大後悔 おしるこ編、聞きたい?」うん、とみわ子はうなずく。友人にも、みわ子にも言えなかったことをぼくは話しはじめる。浮き沈みする豆を眺めながら。「一昨年、うちのおふくろが亡くなっただろう。最後に、おしるこが食べたいって言っていたんだ」もう平気だと思っていたが、口にすればやはり胸がふさがれるような気持ちになる。「缶入りのおしるこあるだろう? あれ、持っていったんだけど、そうじゃない、豆から煮たのを食べたいって言うんだ。作るなんて考えもしなくて、どこで買えるのか調べようと思うものの、病院を出ると忘れちゃうんだ。ぼくが見舞いにいくたび、おしるこ食べたいなあ、おしるこ食べたいなあって子どもに戻ったみたいに言うから、しまいに気味が悪くなってきて、医者が食うなって言ってたぞって嘘までついて。そっか、だめかあ、ってさみしそうに笑ってた次の日、意識なくなってそのまま死んじゃったんだよな。おれ、頭を掻きむしるくらい後悔してさ。兄貴の嫁さんとか、おばさんに頼んで、作ってきてもらうこともできたんだ。なのに嘘なんかついちゃってさ」
口を閉ざすと、ふつふつと豆の煮える音が響きわたった。箸で一粒つまみ出して、指先でつぶしてみる。もう砂糖を入れても平気だ。それに塩。作り方は、母親が亡くなってから調べた。馬鹿みたいにかんたんで、そのかんたんさにも涙が出た。
おしるこの椀をテーブルに並べ、ぼくらはそれを食べはじめる。転落と後悔のみなもとであるおしるこ。静かな新年四日目の夕暮れ。
「塩が決め手なんだ」ぼくは言う。「しょっぱい味を入れるからおいしくなるんだ」
うん、とみわ子はうなずき、「甘みのなかに転落の味がする」と言った。
ぼくのすするおしるこには、ぼくの後悔だけではなく、みわ子の転落の味もした。みわ子のおしるこは、きっと転落とともに苦い後悔の味もしているだろう。静かな正月、ぼくらは分け合った転落と後悔を一心に食べる。甘くてほのかにしょっぱい。ぼくらの人生そのもののように。
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コメント
小説を読んでるように 二人の情景が浮かび 人間のまんま そして 男と女 そして 大切な関係がさらりと感じる文面だった。 私自身の中にある 『転落』をさらりと 時に叶ったらファミリー語れたら いいなぁ~と 思いました。 人間(もがくことから逃げない)の生活をして 『人間の感覚』あってこそ 情熱大陸のゲストを取材できるのではないでしょうか?。 あくまでも 『人間対人間』 それが 私たちに届く 最高のメッセージです。
投稿 三井富士美 | 2008/01/28 7:39:15