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2007年8月 3日 (金)

第10話 彼女の国境

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角田光代

 空港を出て、職員ロッカー室で着替え、安田栄太郎は腕時計を確認する。成田エクスプレスに乗れば七時過ぎには新宿に着くだろう。ロッカー室で着替えたり、隅のテーブルでお茶を飲んでいる職員たちに「お先に失礼します」と挨拶をして、栄太郎は駅までダッシュする。

 十日あまりのシフトを終え、明日から二日間が休日になる。夏休みのシーズンがはじまると、ほとんど休みはとれなくなる。この二日間、高校時代の友人が企画した合コンに出まくる予定だった。なんとしても彼女を見つけるのだと栄太郎は意気込んでいた。

 指定席に向かうと、隣の座席にはすでに人が座っている。見るからに貧乏旅行者とわかる格好。足下に置いたナップザック、汚れたTシャツ、乾いた土埃のついたサンダル。ちら、と隣の乗客の顔を見て、あ、と栄太郎は声を出しそうになった。 

 この人、三カ月前のあの人じゃないかな。

 二十六歳の栄太郎より、だいぶ年上のように見えるが、きれいな人だったから覚えていた。目がくっきりと大きくて、妙な迫力があるのだ。でもまさか、と栄太郎は思いなおす。単に似た人だろう。一日に何百という旅行者を相手にしているのだから、ただの記憶違いかもしれないし。 

 電車は走りはじめる。窓際に座った女は、足下に置いたナップザックをごそごそとかきまわし、クッキーの箱をとりだして食べはじめた。クッキーの箱には、丸で構成されたような文字が書き連ねてあり、それがどこの国の文字なのか、栄太郎にはわからなかった。ふと気づくと、女がじっとこちらを見ている。あわてて目をそらそうとした栄太郎に、
「食べる?」と、クッキーの箱を差し出して見せた。まるで親戚のおばさんみたいに。
「え、あの」へどもどと答えながら、いりませんと言うのも気が引けて、栄太郎はおそるおそる、箱から四角いクッキーを抜き取り、ぱりんと噛んだ。べったりと甘い、素朴な味のクッキーだった。「ありがとうございます」栄太郎が言うと、女はにっこり笑ってひとつうなずき、窓の外に顔を向けた。やっぱりあのときの女によく似ている。クッキーをのみこみ、栄太郎は自分の内に点滅する興味に抗いきれず、思いきって女に話しかけてみた。

「あの、どこからお帰りですか」そう言ってから、口ぶりが検査台で働いているときと同じになっていることに気づき、栄太郎は苦笑しそうになる。
「ああ、ミャンマーからタイ経由で。いったことある?ミャンマー」女は窓から栄太郎に視線を移し、訊いた。
「ないです。海外、いったことないんです」なぜか栄太郎は正直に言った。
「え、じゃあどうして……」女はまじまじと栄太郎を見て、「あ、そっか。この電車に乗るのは旅行者だけじゃないもんね」とひとりうなずき、またクッキーを栄太郎に勧めた。

 毎日のように旅行者を見ているが、栄太郎はどこにもいったことがない。国外はおろか、北海道にも九州にも。成田税関支署に配属され、なおかつ旅具検査官として働くことになったのは半年ほど前で、空港で働くことは希望していたのだが、働きはじめてすぐにうんざりした。長旅から帰ってきた旅行者たちは、最後に通過しなければならない税関検査台では、疲れと苛立ちを隠そうともしない。どこからお帰りですか、という問いを、ときに無視したり、舌打ちしたりする。 

 以前は、長く休みがとれたら自分もどこかにいってみたいと思っていた栄太郎だが、旅具検査官になって大きな疑問を抱くようになった。旅っていいものなのか?というのが、それである。旅行者たちは一様に疲れ、どろんと濁った目をしていて、何かに追われているかのように急ぎ、苛立っている。旅先で得るものは、そんなにすばらしいといえないものなのではないか。

「空港で働いているの?」女の目に興味の色が浮かんでいる。
「いえ、あの、友人を見送りにきて」栄太郎は嘘をついた。税関職員であると言えなかった。だってこの人が、もしあのときの人だったら。栄太郎は思い出す。三カ月前、栄太郎ははじめて旅行者を呼び止め、荷物の検査をした。荷物はナップザックひとつと少なかったが、パスポートにびっしりと押されたスタンプにはタイとヨーロッパが異様に多く、彼女の格好はいわゆるヒッピーそのものだった。化粧ポーチを開け、ノート類をぱらぱらとめくり、風呂敷に包まれた彼女の衣類のなかに手を差しこんだ。「申し訳ないです」と作業をしながら栄太郎は儀礼的に謝った。彼女は怒るでもなく「いつもなのよ」と、静かな声で言った。「真っ裸にされたことだってあるんだから。そのあと何されたかは言えないけどね」と続け、栄太郎は耳が赤くなるのを感じた。何をされるのか、栄太郎は知っている。もちろん女の職員にだが。「それが仕事なんだからしかたないでしょうけど、一度でいいから、お帰りなさいとにこやかに迎え入れてもらいたいわね」その女の旅行者は、栄太郎の作業を見守りながら、やっぱり静かな声でそう言った。

 彼女の荷物からは何も出てこなかった。覚醒剤も大麻も、偽ブランド品も鼈甲のスローロリスも。ご協力ありがとうございました、と言うと、彼女はやっぱり、怒るでもなく急ぐでもなく、「またね」と笑顔で手をふって去っていった。彼女の言うとおり、疑うのが栄太郎の仕事だった。でも、と、そのとき栄太郎は思ったのだった。でも――そのあとに続く言葉は思いつかなかったが。 

 旅行者に向かって、栄太郎がお帰りなさいと笑顔で言うようになったのは、その明くる日からだった。無視する人が大半だが、ごくたまに、笑顔を返されることもある。
「旅行って、たのしいですか」栄太郎は隣の席の女に訊いた。この人なら、たのしいって答えるんだろうなと予想したが、しかし彼女はそれには答えず、
「さあ、どうだろう。たのしいときも、たのしくないときも、あるんじゃないの。たのしいことが正解ってわけでもないし」と言う。
「でも、旅行はお好きなんですよね」自分でも何を訊きたいのかわからないまま、栄太郎は質問をくり返す。
「好きじゃなくて必要なのかも。でも、帰ってくるときは好きだな」
「税関で、おもしろくない思いをしたとしても、でも、好きですか」
 女は不思議そうな顔で栄太郎を見て、窓際に置いたペットボトル入りのお茶に手をのばす。
「あそこ、国境って感じがするじゃない。旅の最後のクライマックス。おもしろくない思いも含めて旅だなあと思い知らされたりするのよね」

 あと五分ほどで東京駅に到着する、とアナウンスが流れると、女はクッキーの箱をしまい、ナップザックを閉めた。「じゃ、私、東京で下りるから」と、立ち上がる。

「名前、なんていうんですか」栄太郎は訊いた。
「谷村幸子。幸せの子で幸子。平凡でしょ」彼女は笑顔を見せ、「またね」と言いながら栄太郎の膝をまたぎ、ナップザックを背負って通路を歩いていった。

 電車が止まる。窓に顔を近づけて、彼女の姿をさがしたが、栄太郎には見つけられなかった。電車が走り出す。検査台が国境だなんて、クライマックスだなんて、考えたことなかった、とせわしなく栄太郎は考える。ということは、おれは国境で働いているのか。おれが国境を越えるときはいつかやってくるのかな。くり返される毎日をすっと飛び越えてしまうようなときは、いつかやってくるのかな。考えごとに夢中になって、乗り過ごした、と気づいたのは、電車が新宿をとうに離れたころだった。時計を見る。あと数分で七時半。合コンはもうはじまっているだろう。ずっとたのしみにしていたそれが、今や自分のなかで不思議と色あせていることに栄太郎は気づく。騒いで、ギャグを言って、笑って、女の子を品定めして、携帯の番号を交換しあって。そんなこと、本当におれ、したいのかな。

 この電車、どこにたどり着くんだろう。ささやかな予定外に、気がつけば栄太郎は子どものようにわくわくしている。 

 またいつかどこかで、谷村幸子に会うような気がした。検査台かもしれないし、空港から都心に向かう電車のなかかもしれない。あるいはまったく未知の町を走る、古びた列車のコンパートメントかもしれない。くるかもしれず、こないかもしれないそんな日が、栄太郎にはやけに待ち遠しく感じられた。窓の外、明るい夜空を背景に、色鮮やかなネオンサインがびゅんびゅんと流れていく。

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8月 3, 2007 明日、どこかで出会う |

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