第9話 そのはるか向こうにそびえる
田んぼ。山。田んぼ。山。民家。田んぼ。
ベランダに立ち、ぱんと勢いよくはたいた洗濯物を手にしたまま、田村千帆は目の前に広がる光景を胸のなかで言葉にする。
大嫌いな景色だった。連なる山の稜線が、どこにもいかせないと通せんぼをしているような気に、いつもなった。この狭くて退屈な場所に閉じこめられているような気持ちがした。
千帆は手にしたシャツをハンガーにかけ、物干しに吊す。ハンカチやタオル、夕菜のちいさなパンツや靴下を次々干していく。空になった洗濯籠を抱えて階下に降りる。居間をのぞくと、夕菜はテレビの前にちょこんと座ってアニメのビデオをおとなしく眺めている。
「買い物いこうか、夕菜」話しかけると、ぱっとふりむいた顔が輝いている。
郵便局にいくにも、スーパーにいくにも、ビデオを借りにいくにも、バスに乗らなくてはならなかった。バス停までは歩いて七分もかかる上、そのバスだって一時間に二本しかない。
高校を出たらさっさとここを出ていくんだ。もっと広い世界にいくんだ。デパートやブティックがたくさんある町にいくんだ。バスと電車を乗り継がなくてもCDを買えるところにいくんだ。中学生のころから千帆はそう思っていた。
「買い物いってくるけど、何か買うものある?」食堂にいる母と祖母に千帆は訊く。
「じゃあ夕食の買い物をしてきてよ」母と祖母は顔を合わせ、鶏は昨日食べたし、ブリってのも芸がない、じゃあ鰹は、そうね鰹ね、あとインゲンと、茄子はどうだろ、などと言い合いながら、メモ用紙に食材を書いていく。「はい、これお願い」と母の差し出すメモを千帆は受け取った。
母親の軽自動車の助手席に夕菜を乗せ、千帆は車を発進させる。かつて原付バイクで走っていた、大嫌いだった国道を走る。田んぼ、山、民家、田んぼを縫って走る国道。
二カ月前、帰国したときのことを、ふいに千帆は思い出す。成田空港の税関職員が、千帆と夕菜に言った言葉を。
「ねえ、夕菜はさあ、ここが好き?」アニメの歌をうたう娘に千帆は訊く。
「うん、好きだよ。バアバもいるし、おっきなバアバもいるでしょ。テレビもたくさんあるもん」
「前に住んでた、ちんちん電車の走る町より好き?」
「うん。あたし、車のほうが好きだもの」やけに大人びた口調で夕菜は答え、窓の外に顔を向けた。国道沿いに建物が増えてくる。馬鹿でかい靴屋、馬鹿でかい紳士服屋。大嫌いだった。山、国道、バス、制服、何もかも。けれど――。
入国審査の長い列につき、無表情の職員に入国の判を押してもらい、手荷物引き渡し所で自分の荷物が流れてくるのを待ち、それをカートに移し、あちこち勝手にいこうとする夕菜のちいさな手をしっかり握り、税関検査の前にできている列に千帆は並んだ。荷物の多さと、人の多さと、フライトの疲れと、これから電車を乗り継がなければならない煩雑さとで、千帆はうんざりしていた。税関検査で千帆はなぜかしょっちゅう、すべての荷物を広げるよう無表情の職員に命じられた。きっと今回もそうだろうと諦めたように思っていた。スーツケースと旅行鞄とナップザックに詰まったものを広げ、またしまう面倒を思うとさらに気が滅入った。それにしても、なんだって成田の職員はこうも無表情で無愛想なんだろう。そんなことを思ううち順番がやってきて、千帆はすべての荷物をカウンターにのせた。千帆の差し出した二冊のパスポートを受け取りながら、「どちらからですか」と、おきまりの質問を職員はする。「オーストラリアから」職員の顔も見ず、ぶっきらぼうに千帆は答えた。調べるならさっさと調べてよ。疲れてるんだから。そんな気持ちだった。そのとき、思わぬ言葉が耳に届いた。
お帰りなさい。
職員はそう言ったのだ。千帆はびっくりして顔を上げ、職員をまじまじと見た。二十代の半ばくらいだろうか、千帆よりはひとまわりも年下に見える青年が、千帆に向かって笑いかけていた。彼は腰をかがめ、千帆と手をつないだ夕菜に目線を合わせ、「お帰りなさい、お嬢ちゃん」もう一度言い、「桜は散ってしまったけど、でも、今は緑がきれいな季節ですよ」また千帆をまっすぐに見て微笑みながら、パスポートを返した。ぽかんとしている千帆に「ありがとうございました」と頭を下げると、千帆の後ろに並んでいた人にふたたび「どちらからですか」と訊いた。
千帆はあわてて荷物をカートに積み、到着出口の自動ドアをくぐった。お帰りなさい。彼の声が、波紋のように心のなかに響いていた。空港から一歩出ると、日本特有の湿った空気が千帆を包んだ。遠くの景色を春霞が隠していた。お帰りなさい。たった今受け取った言葉を胸の内でくり返す。なぜか千帆は、子どものようにその場に寝転がって、わんわん声をあげて泣きたい気分になった。実際、右目からほとりと涙が落ちた。
「ママ、お菓子買う?」助手席の夕菜の声で我に返る。
「うーん、どうしようかな」
「ちょっとだけでいいから、買ってくださいな」
「そうねえ、見てから決めようね。ママ貧乏だから、高いのは買ってあげられないし」
「高いのは、あたし、いらないの」夕菜はどことなく必死な声で言い、千帆は思わず笑ってしまう。メルボルンにいるときは、すぐ近くのデリにいくことですら夕菜は渋ったというのに。ほしいものなんかないと言って。
ショッピングモールに向けて車を走らせながら、千帆は焦がれるように何ものかになりたかった自分を思い出す。この町を出て、華やかな世界にいきたかった。だれにも通せんぼされることなく、華やかな場所で自由に過ごしてみたかった。雑誌のなかで笑うモデル。強いライトに照らされる女優。けれど、華やかに見える方向に進めば進むほど、千帆は自分がいかにちっぽけな人間か思い知らされた。何ものかになるにはいつだって何かが足りなかった。何かを追うように外国にいった。外国になら、何ものかになるべき自分がいるはずだと思った。けれどそれをつかまえることはできなかった。何ものかになるべき自分を追っているはずなのに、気がつけば逃げているように思えた。何ものでもない自分から、逃げまわっているかのように。
オーストラリアは一時居住ビザでいった。ニューヨークで知り合った友人が、メルボルンで日本人向けの雑誌を編集していたので、便宜を図ってもらったのだった。仕事はつまらなかった。お給料は驚くほど安かった。見知らぬ場所で暮らすことの興奮が、一カ月ほどで冷めてしまうと、またしても千帆は気づかざるを得なかった。ここには何ものかの私なんていない。何もできない、すぐに仕事をつまらないと感じてしまう自分がいるきり。
そうして、もっと大きなことに気づいてしまった。この世界のどこにも、何ものかの私なんていないのだ。地味で、ちっぽけで、いつまでも狭い世界から抜け出すことのできない私自身が、どこにいったっているだけなのだ。夕菜のためにも、そろそろそんな幻との追いかけっこはやめなければならなかった。夕菜は現地のチャイルドケアセンターに数日通ったが、その後は泣いていきたくないと言い張り、一日アパートでテレビを見る毎日を送っていた。
なんとなく行き詰まりを感じるころ、手持ちのお金も少なくなって、一時帰国を決めた。あーあ、という気分で成田行きの飛行機に乗りこんだ。あーあ、結局また、あそこに戻るのか。あそこに戻ることしか私はできないのか。
ショッピングモールには、スーパー、格安衣料店、スポーツ用品店、ホームセンター、本とレンタルビデオ、レストランなどが軒を連ねている。ここにくれば生活の用はすべて事足りる。ここにはなんでもあるが、ここにこないとなんにもない。そんなことも、十代の千帆は嫌悪していた。
カートのチャイルドシートに夕菜を座らせ、スーパーマーケットを歩く。千帆は母の渡したメモ通りに、野菜や魚をカートに入れていく。お菓子がほしいと夕菜が騒ぎ、しかたなくお菓子コーナーにカートを押していく。シートから下り、色とりどりのパッケージの前にしゃがみこみ、買うべきものを吟味している夕菜を眺め、そういえばこの子は、メルボルンでも、その前の上海でも、何がほしい、何が見たいと決して言わなかったなと、千帆は思い出す。異国の町で過ごした日々のほうが多いのに、この子はわかっていたんだろうか。そこでは自分の居場所が見つけられないことを。私が十年以上かけてようやくわかりつつあることを。
気がつくと、しゃがみこんだ夕菜の隣に、女の子がいる。夕菜より少し背が大きい。女の子は同じようにしゃがみこみ、「あのね、これがおいしいんだよ。このスイカ味はだめ。あとね、これは大人の味なの。すんごくすっぱいの」大人びた口調で、夕菜に指南している。思わず千帆は口元をゆるませた。夕菜は、女の子の「お勧め」を手にふりかえり、「ママ、あたしこれがほしい」と真顔で言う。「いいよいいよ、カートに入れな」千帆は笑いながら言った。
「名前、何」女の子は夕菜に訊く。
「……夕菜」夕菜がちいさな声で答える。
「ふうん。こっち、ゆり。またね、夕菜。夕菜のママ、バイバイ」ゆりちゃんは礼儀正しく千帆にまで挨拶すると、ぱっと駆け出していった。
食材の詰まったビニール袋をカートに乗せたまま、駐車場までいく。後部座席にそれらを移し、夕菜を助手席に座らせる。運転席に移ろうとして、千帆は足を止め、ショッピングモールの彼方に広がる山並みを仰いだ。馬鹿でかいショッピングモールよりさらにでかい山々を、ぐるりと見渡す。
ずっと何ものかになりたかった。何ものかである自分を追っかけていた。でも気がつけば、私はすでに何ものかになっているのかもしれない。だってさっきの子は言ったじゃないか。夕菜のママ、と、私のことを。自分で追っかけていかなくたって、いつのまにか、私はこの子の母親になっているじゃないか。私にしかなれないものに、なっているじゃないか。千帆はふと、そんなことを思う。
「ママ、ビデオやさん、いく?」エンジンをかけると、夕菜が訊いた。
「今日はいかない。返すビデオ持ってこなかったし」
「えー、あたし、見たいのがあるの」
「また明日くればいいよ」
「じゃあ、明日もここにいるのね?」夕菜の言葉に、千帆はどきりとする。
「うん、いるよ。明日もあさってもいる。だからだいじょうぶ。夕菜の見たいビデオ、いつでも借りられるから」千帆は言い、アクセルをゆっくり踏みこんだ。
駐車場を出、元きた道をまた走る。千帆は窓を大きく開ける。雨が近いのか、湿った空気が流れこんでくる。お帰りなさい。前方に連なる山々が、そっとささやいたような気がした。千帆は今はじめて、生まれたときから見ている景色を、大きいと思った。
7月 6, 2007 明日、どこかで出会う | Permalink
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