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2007年6月 1日 (金)

第8話 いつか戻る場所

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角田光代

 ゴールデンウィークにわくわくしたのは二十代までだったな、と、実家に向かう電車のなかで鍋岡洋文はぼんやりと思う。四十歳も間近だというのに、洋文が 離婚してからというもの、年老いた両親はゴールデンウィークの直前には必ず、「帰ってこい」と電話をかけてくる。友人や恋人との約束があれば、もちろんそ ちらを優先したが、この数年、友人はみな家族サービスに忙しく、また恋人と呼べる人もいない洋文は、ゴールデンウィークには長野の実家に帰省している。渋 々両親の言葉に従っているふりをしているが、十日近い休みを、だらだらとマンションで寝て過ごすよりはずいぶんとましだった。

 長野までの新幹線も、乗り換えた私鉄も、毎年のことだが行楽客で混んでいた。電車をおり、ぐったりして改札を抜けると、父親の車が停まっている。洋文は車に近づいて、運転席に座っているのが父親ではないことに気づき、急にどぎまぎした。運転席にいるのは従姉妹の田村千帆だった。ハンドルに両手を置いてぼんやりしていた千帆は、洋文を見つけると笑顔で手をふった。その笑顔が、あまりにも昔と変わらなく見え、洋文はとっさにうつむいてしまう。

「ああ、びっくりした。てっきり親父がきてると思ったから」助手席に乗りこみながら洋文は言う。
「ヒロくん、なんか貫禄出たね」車を発進させながら、洋文が戸惑うほどまじまじと、千帆は洋文を眺めた。
「貫禄っていうか、腹だろ、出たのは」

 洋文の言葉に千帆は大きく笑った。バックミラーのなかで、駅舎がどんどんちいさくなるのを洋文は眺める。観光客はここまではこない。駅前の商店街には歩く人の姿もなく、いくつかの店はシャッターが閉まったままだ。陽にさらされて、町は漂白したように見える。

「いつきたの、こっちに。っていうか、今どこに住んでるの」
「あれからずっとオーストラリアだよ。メルボルン。たまたま休みがとれたから、親孝行と婆孝行でもしようと思って、四月の半ばにこっちきた」

 小柄な千帆がハンドルを握ると、まるで子どもがおもちゃの自動車に乗っているように見える。洋文はまっすぐ前を向いた千帆の横顔を、幾度も盗み見る。

 千帆の母と、洋文の母が姉妹だった。千帆が十歳のとき父親が亡くなり、千帆の母は千帆を連れて祖母の家に引っ越してきた。祖母の家と洋文の家は歩いて五分もかからないところにあり、両親が共働きだった洋文は、学校が終わると祖母の家に向かうのが日課になっていた。子どものころの洋文は、二歳年上の千帆と、まるできょうだいのように過ごしていた。

 そうして千帆は、洋文がはじめて好きになった異性だった。子どものころの淡い初恋などではなかった。洋文が彼女を好きだと自覚したのが十二歳、千帆が上京し、諦めなきゃいけないんだと自覚したのが十六歳、ようやく千帆のことを考えなくなったのが、洋文にはじめて恋人のできた十九歳のときだった。

 車は商店街をとうに過ぎ、貸しビデオ屋やラーメン屋がぽつぽつと並ぶ国道を走っている。四方を囲む山々は、晴れた空の下、くっきりと緑色だ。千帆は運転しながら、明るい調子でメルボルンでの暮らしのこと、四歳になったばかりの娘の夕菜のことなどを話した。

 十八歳で上京した千帆は、大学に通うかたわら、女性誌のモデルをやっていた。女優になると言いだし、就職しなかった。洋文も十八歳で東京に住むようになったが、ずいぶん華やかな世界に身を置いているらしいこの従姉妹と、連絡を取り合うようなことはなかった。ちーちゃんがテレビに出ると、母親が電話で教えてくれたりすると、一応はチャンネルを合わせた。スナックで働くホステスの一員、とか、主人公のクラスメイトの一員、というような役どころの千帆を、洋文は幾度か見たことがある。洋文が大学を卒業し、食品会社に就職するころには、しかし雑誌にもテレビにも、千帆の姿は見られなくなった。ちーちゃんは映画の勉強をしにニューヨークにいったらしいと、母親から聞いたのは、洋文が菊子と結婚する直前だった。そして菊子と離婚した年の正月、千帆は見知らぬ男を連れて祖母の家にあらわれた。ニューヨークにいったはずの千帆は、なぜかイタリアで、その男と日本食レストランをはじめると言った。千帆よりずいぶん若く見える男は、始終落ちつかない様子できょろきょろと家のなかを見まわしていた。。

「私がこの町を嫌いだったのは、山があるせいだな」
 国道の両脇に、ビデオ屋もラーメン屋もなくなり、ただ田んぼと畑が続くばかりになるころ、ぽつりと千帆が言った。
「え、何それ」
「ほら、こうしてみると、まわりを取り囲んでる山が通せんぼしているように見えない?私はどこにもいけないんじゃないかって、そんな気になっちゃうのよね」

 前を向いている千帆の視線を追うように、洋文は前方に視線を向ける。そして、言った。
「出ていったじゃない、ちーちゃんは、山を越えて知らない町に」言ってから、ちーちゃんと久しぶりに呼んだことに、急に恥ずかしさを覚える。
「出ていったのかな。わかんない。私の前には今でもときどき、この山に通せんぼされてる気がする」前方から視線を外さず、千帆は静かに言った。

 イタリアで日本料理店を開いたはずの千帆が、赤ん坊を抱いて帰国したのは、四年前の正月だった。あの無口な男と籍を入れ、レストランも開店させたが、結局うまくいかず、子どもが生まれると喧嘩ばかりになり、別れてきたのだと、やけにさばさばと千帆は語った。しばらく祖母の家に住み、いくつかアルバイトをしていたが、赤ん坊が一歳になるより前にまたいなくなった。フラを習いにハワイにいったと母からの電話で洋文は知った。その後、千帆は一年に一度は祖母の家に帰ってくるようになった。そのたび居住地が違った。バリ島でアーティストの助手をしていることもあれば、上海の日本人相手のバーで働いていることもあった。去年会ったときは、千帆はオーストラリアに住んでいた。日本人向けの情報誌を作る事務所で働いているのだと言っていた。

 母や千帆の母親、もう九十歳に近い祖母は、そんな千帆に呆れていた。母親になってまでふらふらしていると声高に非難した。けれど洋文は、いつもどこかで千帆がうらやましかった。言葉の違いも習慣の違いも軽々と超える千帆の身軽さは、十代のときと同じく羨望に値した。洋文が八歳のとき、十三歳のとき、十六歳のとき、いつもそうだったように、千帆は今でも、洋文にとってはかなわない相手だった。「ひとりで勝手に決める」と、かつて菊子は洋文を責めたが、自分のその性癖は、あまりにもこの従姉妹を見ていたからではないかと洋文は思っている。なんでも自分で決めて、決めた方向にたったひとりで足を踏み出す従姉妹を、洋文はずっとかっこいいと思っていた。今も。

「今日の夕飯はおばあちゃんちだって。このままおばあちゃんちにいっていい?」

 洋文はうなずく。やがて自分の家が見えてくる。車は洋文の家の前を過ぎ、そのまま祖母の家を目指す。千帆の運転する車は、祖母の家の開いたままの門を入り、広々とした庭を少し進んで停車する。シートベルトを外し、後部座席に置いた荷物を洋文がまとめていると、エンジンを切った千帆は先に車を降りて、祖母の家の玄関に小走りに向かう。

 あのとき、二歳年上の千帆に恋をしていたとき、彼女といとこどうしであるという現実を、洋文は強く恨んでいた。クラスメイトであれば、喫茶店の店員と客であれば、同じ時刻のバスを使うだれかであれば、自分の気持ちは堂々と恋という名称を得ただろうと、十代の洋文は考えていた。けれど今、千帆に対する気持ちが恋ではないとはっきりと知っている今、千帆という風変わりな女といとこであることに、洋文は深い安堵を感じる。この先千帆が、あるいは自分が、連なる山を軽々と超えてどこか、とんでもない遠くにいってしまったとしても、いつか必ず自分たちは近しい場所に戻ってきて、こうして顔を合わすのだ。通せんぼしているのは、山の稜線ではない、もっとやわらかくてあたたかい何かだ。洋文はそんなふうに思う。

 ヒロくん帰ってきたよー、と威勢よく言いながら祖母の家に入っていく千帆のあとを、両手に荷物を抱えて洋文はついていく。開け放たれた引き戸をくぐると、煮物の甘辛いにおいが洋文の鼻先をかすめた。なんだか泣きたくなるような、やけになつかしいにおいだった。

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6月 1, 2007 明日、どこかで出会う |

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